ワニなつノート

通級と「わたしのものがたり」 (B)

通級と「わたしのものがたり」 (B)

(メモ1)
【親は「選べる」けれど、子どもは「選べない」もの】


親は「選べる」けれど、子どもは「選べない」もの。
そこには、いつもすれちがう要素があります。

子どもが自分で「選ぶ」もの。
それなら、私は、学校以外も十分いつもありだと思っています。
子どもの時に抱いた興味、関心、夢を、追いかけること、
その道を行くことが「選ぶ」ことなら、
私は「学校」に行くことさえ、
こだわる気持ちはまったくありません。

でも、私の中で、親は「選べる」けれど、
子どもは、「選べない」もの。
それが、「通級」という「解決策」のような気がしています。

そもそも、私たちは、
多くのことを「選ばず」にここにいます。

私たちにとって大切なことは、
すべて本人の意思で、自由に選べることではなく、
むしろ自分では「選べないこと」を、
どう受けとめていくのかということです。

自分で「選ぶ」という、とても大切なことよりはむしろ、
「選べないこと」を、そのことを含めて、
すべてが思い通りにはならない人生を引き受けた上で
自分の「生きるかたち」に
向き合わなければならないのだと思います。

そのためにも、「障害のあるふつうの子ども」の姿で
生きるカタチを、ちゃんと子ども時代に
経験することが不可欠です。
子ども時代にこそ、その「受けとめる」経験が
必要なはずなのです。

☆     ☆     ☆

「いまのままは、ぼくは、ほっとかれて、
分かりたいのに、分からないまま、でいることが多い。
でも、ぼくも、分かりたい、みんなと同じにやりたい、
みんなと同じに百点取りたい。」

「それなら、個別で、1対1で、
あなたのペース、あなたの特性に合わせて、
教えてくれる先生のいる教室で勉強してみる?」

「うん」

ここで、すり替えられているものは、何だろう?

「これは、親が行かせているんじゃないでしょ。
子どもが自分から望んだこと、子どもが自分から希望したこと、
子どもの意欲を、育て、励ますことでしょ。
だって、その先生が、本当にいい先生で、
その子の特性・個性を理解して、
その子がつまづいている点に気づいて、
そのことに配慮しながら、本人の気持ちをくみながら、
その子に分かるように教えてあげて、
子どもも、わかった、これならできるよ、と
勉強も進んでいくのは悪いことじゃないでしょ」

「それは、いつまで、続けるんだろう」

「え?」

「もし、その子が、知的障害がない場合、
その子特有の《学習障害》を持っているとして、
その子の『障害』に合わせた、指導・工夫ができるのが、
個別の先生だけだとして、
中学、高校、大学…、
どこまで、その子の『個別』は必要とされ、
準備されるだろう。
その後は? 
社会に出たら?


その障害を持ったまま、
自分で対処する術を本人が獲得することは、
誰がどうやって伝えていくのだろう?

集団でなくした自信は、
みんなの中で取り戻す必要があります。

「通級」は、その点で、決定的に欠陥のある制度であり、
そうした配慮への志がありません。

親は「選べる」けれど、子どもは、「選べない」もの。

特別支援学級で出来ることは、普通学級でもできます。
もし、通級の先生、個別の先生が、
本当にいろんな秘密のスキルを持っていて、
子どものつまづき、対処の工夫を知っているなら、
それを集団のなかで、展開することこそに
意味があると思います。
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