ワニなつノート

ワニたこ・2010年秋 (その2)

ワニたこ・2010年秋 (その2)

《岩ちゃんへ》


こちらこそ、ありがとうございました。私の興味が「子ども」中心であり、その先は、その先の人たちにお任せ……、みたいな所がずっとありました。それは、まあ現実としてそうなんですが、そのために、本気で「つながり」を考えることもしてこなかったようです。

でも、今回の講演会に参加してくれた方々の、特に「親」の立場の人の「思い」は、私の予想以上のものとして、日を追うごとに圧倒される感じがしています。また、交流会でからんでくれた人たちのおかげで、私の「自分自身の言葉足らずな部分」に改めて気づきました。

いつごろからか、多くの人に分かってほしい、なんて思うことを辞めていたところがあります。分かりたくもない人に、わかってもらおうと、言葉を重ねることがバカらしくなっていました。

それよりも、就学前の親にちゃんと伝わる言葉、今までの子どもたちの姿を伝えられる言葉を持ちたいと願ってきました。自分にできることは限られているし、人生の残り時間を、どっちにつかうか、答えは決まってるじゃんと思っていました。

でも、今回のことで、思いなおしました。分かりたくもない人に、分かってもらおうとは、今も思わないけど、でも「どうして普通学級にこだわるのかわからない」と言う人に、「分かってもらう」ためではなく、自分自身がふつうに言葉を持ちたいと思うのです。たっくんや朝子や知ちゃんに教えてもらったことを、私はいまもちゃんと言葉にできていません。

「しっかりしてよ」と、声が聞こえます。
言葉ではなく、声が聞こえます。

そう、「本当に、本人が言葉で、そう言ったのか?」と言われると、
一瞬、悔しい思いをする自分がいました。
でも、「ことばでそう言ったの?」と言われ、
私が「ことば」にこだわるから、悔しくなっちゃうんだ。
でも、「ことば」をしゃべらなくても、
確かに、私には彼らの声が聞こえたんだ。

「聞こえたんだよ」と言い張っても、カタチには残らない。
でも、「カタチ」や「コトバ」が必要か? 
私にその声が聞こえて、聞こえた通りに私は彼らを応援して、
彼らはうなずいて笑ってくれたんだから。
その何年も、何十年ものつきあいを、関係を、
「ことば」なんかで測られてたまるか。

それは、hideや朝子の『悔しさ』なんかじゃないんだよね。
だって、彼らは、みんな、ちゃんと「そう言った」って自分で分かってるから、人にどう思われようと関係ないんだよね。問題は、私が、それを説明できないくせに、説明しようとして、「ことば」につまって、悔しい思いをしてるってことなんだ。

だから、そのことを、言葉でも伝えられるようになれば、そのことは就学前の子どもの親へも、いまよりずっといろんなことを伝えられるようになるはずなのだと、そんなことを考えています。
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