1:《いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい》
2:《どうせ自分なんて、と考えない》
3:《「病」は市に出せ》
4:《ゆるやかにつながる》
そうした声に囲まれて、子ども時代を過ごす人は、「外の世界」に出た時にどんなことを感じるだろう。カルチャーショックを味わうことがあるだろうか。
【「そりゃあ、感じましたよ」 どの人も、当然ではないかとばかりに即答した。まず故郷の人々とは共有できていた常識や価値観が通用しない。あるいは、上司から「いい大人がそれくらいのことわからなかいかな」と苦々しげに言われ、深く傷ついた。程度の差こそあれ、誰しもがそうした感覚を体験していた。】
「いい大人なんだから」「常識だろ」「当たり前」「空気読めよ」。
それは、彼らが子どものころに囲まれてきた「空気」とは違う。
《いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい》ではなく、「人に迷惑をかけてはいけない」。《「病」は市に出せ》ではなく、「黙って先生の言う通りにしなさい」。
《どうせ自分なんて、と考えない》ではなく、「自分の感じるように感じてはいけない」。
《ゆるやかにつながる》ではなく、「あなたのために、別の教室に行きなさい」。
では、彼らが子ども時代にもらった宝物は、外の世界では使い物にならないのだろうか。
外の世界は、彼らを「風変わりな人」として、息苦しくさせるだけだろうか。
たとえば、洗濯物のエピソード。
【自分が生まれ育った町では、たとえ他人の物であろうと、外に干した洗濯物がにわか雨に濡れるのをただ眺めている者などいなかったが、東京では、近所の留守宅の洗濯物を取り込んだ結果、二度とこのようなことをするなと怒鳴られた。】
海部町の人たちは、その辺をどう受け止め、折り合ってきたのか。「いい大人なんだから」「空気読め」。そうした言葉を、どう受け止め、立て直すのだろう。
海部町で育った人たちが、「傷ついた」と言った後に続く言葉が見事だと思う。
【私がインタビューした、海部町を離れて長い年月を経た東京在住の人々は、年齢は二十歳代から六十歳代、男性と女性、サラリーマン、教員、主婦など、さまざまだった。インタビューの日時も場所も違った。にもかかわらず、彼らはそれぞれの表現で、しかしほぼ同じ意味のことを語った。
「ああ、こういう考え方、ものの見方があったのか。世の中は自分と同じ考えの人ばかりではない。いろいろな人がいるものだ」。そう思って納得がいき、徐々に気にならなくなったというのである。】
「空気を読め」という人たちに、合わせようとするのではなく、その人の声を排除するのもなく、「いろいろな人がいるものだ」と受け止めること。
大人になって、都会に出て、子ども時代の知り合いがそばにいなくても、子ども時代に囲まれた声に、守られる「自分」がいるということ。
ここで私は、「一年生なら、これくらいできて当たり前でしょう」という声に包まれている子どもたちを思い出す。「コミュニケーションが苦手」と言われる子の顔が浮かぶ。
この子たちが、そのままで心地よく生きるために必要なのは、「分けて・個別で・空気を教える」ことじゃない。子ども時代に、「ああ、こういう考え方、ものの見方があったのか。世の中は自分と同じ考えの人ばかりではない。いろいろな人がいるものだ」ということを伝えあう体験を重ねること。
「ふつう学級」とは、「ああ、こういう考え方、ものの見方があったのか。世の中は自分と同じ考えの人ばかりではない。いろいろな人がいるものだ」ということを伝え合う場所。
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