ワニなつノート

6歳の子への冷酷



6歳の子への冷酷



《授業は1時間》


教育委員会や校長の「力」が、判定の「秩序」を守るために使われ、現実の「子どもへの冷酷な行為」を、「教育的」なものに見せかけるために用いられる。

「支援学校・適」という判定を信じ、「力」を使う人たちは、「子どもの教育を受ける権利」を制限することに何の迷いも持たない。

あの人たちにとって、子どもへの「冷酷と従順のシステム」は、はるか昔から正しく、馴染み深いもので、それを疑うことは一度もなかったからだろう。

入学前の子に、「授業は1時間」と決めた教育委員会の人は、「本人のため」と言い張った。




《おはようございます》

相談会の3時間、その子はそこにいた。

ときどき親の隣を離れ、エレベーターを見に行ったり、廊下の先を眺めにいくが、見えなくなるほど遠くには行かない。その動きはやっちゃんやゆうきたちとそっくりだなと眺めていた。

スクリーンに小学校の授業風景が映し出された時、会場の誰よりも強く反応し、「おはようございます」「おはようございます」「おはようございます」と繰り返した。
私はその「繰り返し」の「特徴」もやっちゃんと同じだなぁと思っていた。


その後、一学期の間、毎日一時間で帰されていた詳細を知る。
入学前、算数セットの購入について尋ねたときには、「難しいと思いませんか?買っても使えなくて無駄になると思いますよ」、「教科書は仕方がないから配ります」と言われたこと。

他の新一年生は「交流」の時間があるのに、その子には一度もその機会はなかったこと。

そして、毎日自分の付き添いをさせられながら、転校の勧めに追いつめられる親の姿を見ていたことを知る。
  

朝、登校する時には、あちこちの道から子どもたちが現れ、にぎわいを増しながら、学校に向かう。学校に着けばみんながいる。でもそこにいられるのはたった一時間。

いつも背中に、学校のにぎわいを聞きながらランドセルを背負って帰る6歳の子ども。
下校途中には、誰一人子どものいない風景。
彼がどんな思いで、毎日、学校を後にしていたか。


ふと、相談会での「おはようございます」が耳によみがえる。

「おはようございます」「おはようございます」「おはようございます」。

「同じ言葉を繰り返す」?「障害の特徴」? なんて浅はかな理解をしていたかと思う。

いまは、彼の「おはようございます」という言葉に込められた思いが聞こえる。
「がっこう」「がっこう」「がっこうだね」「がっこうはたのしいよね」という子どもの声が聞こえる。



《6歳の子への冷酷》


子どもたちが、小学校の入学をどれほど楽しみにしているか。
「年長」の子どもの一年は、身の回りのすべてが4月の入学に向けて流れていく。親やきょうだい、おじいちゃん、おばああちゃん、そしてお店の人も近所の人も声をかけてくれる。

社会全体が、子どもへの信頼を伝えようとしている。
一年生になることの「希望と誇り」がそこにはある。

だから、一度も行ったことがなくても、学校にはきっと肯定的な社会交流があふれている。そう、子どもたちは信じている。
     

「社会交流」の始まりとしての入学。
新一年生として、同級生や上級生、先生たちとつながり合う肯定的な体験の日々。

この子もそれを求めていたのに。


肯定的な社会交流と、学びの機会を奪ったのは、障害ではない。
教育委員会が奪ったのだ。

「冷酷」と闘うためには、まずそれが「冷酷」であると認知する能力が必要だ。

6歳の子どもがもっとも求めている「肯定的なつながりへの希望」を奪うやり方。

それを「子どもへの冷酷」とよぶ。


     
「おはようございます」「おはようございます」と、くり返す声がいまも聞こえる。
学校へのあいさつ、友だちへのあいさつ、先生たちへのあいさつ。

そのあいさつに込めた彼の思いに、一学期の間、大人は誰も応えなかった。


2学期からは、彼の周りに、たくさんの「おはよう」と「さようなら」「一緒に帰ろう」という声が、あふれることを願う。
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