《HALの冒険》(最終回)
「ふつう学級」という場所で、子どもたちは何をしているのか。
【ふ】ふつう学級という社会的紐帯
『入院によって、予後はかえって悪くなるかもしれない。
しかし、どのような実践でも時には入院が必要となる。
患者が入院しているあいだにも、患者の心理的活動や病院外での社会的現実とのつながりが残っていることを保証するために、特に注意して積極的な社会的紐帯を保つようにすべきである。』※
「社会的紐帯」という言葉を見たのは、初めてかもしれない。
でも、意味はよくわかると思った。
特殊教育と特別支援教育が、もっとも軽く扱っているものだ。
引用文は、主に統合失調症の患者に対して、入院をせずにすむための治療について語られているなかでのものだ。
できれば入院や薬なしで済むならそれがいい。それでも入院が必要な時はあり、その時に何を大切にするかという話だ。
一時的な入院であっても、それを「特に注意」すべきだというのに、
障害をもつ子どもには、それが必要ないと扱われるのはどうしてなんだろう?
個別指導が必要な場面という現実があるとして、それでも社会的紐帯を保つことは特に注意されるべきことだと思うのだが…。
特別支援の人たちは、分けることにだけ熱心で、社会的紐帯のことを考えていないように感じる。
※『オープンダイアローグ』ヤーコ・セイラック 日本評論社
◇
「社会的紐帯」という言葉を読んで、Halのことを思い出した。
◇
11年前、妹から子どものことで相談があった。
子どもは小学校2年生。
担任から、ことばの教室への通級を勧められたという。
「行かなくていいよ。彼は大丈夫」とこたえた。
「学校にも行かないんだけど…」
「行かないのも大丈夫。彼は自分で考えているから。
行かないのは大丈夫だけど、ふつう学級をかわるのはだめだよ」
そのとき、妹を安心させるために、ある子の話を伝えた。
「小学校1年から不登校で、中学校も不登校だったけど、いま高校に来てるよ。そういうこともあるから大丈夫」
それは、はたして安心できる話だったのかどうか…。
実際、その言葉通りになった。
彼は小学校、中学校と不登校を続けた。
そして自分で高校に行くと決め、昼間の高校に通った。
野球部に入り、3年のときは部長も務めた。
私は年に1~2回、彼に会うだけだったが、「だいじょうぶ」という感覚が揺らいだことはない。
学校には行かなくても、彼にはちゃんと「自分が小学生(中学生)だ」という自覚と所属と、何より自分をまるごと信頼してくれる家族がいた。
この春、彼は高校を卒業した。
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このブログで、2008年から2009年にかけて「Halの冒険」の記事を書いていたが、わたしが書いていたのは、【ふ】《ふつう学級という社会的紐帯》のことだったとおもう。
先生から、「この子はちょっと他の子と違う」とみられ、「みんなとは違う教室へ」と言われ、子どものなかで自分の存在が揺らいでいるとき、
親が「あなたはあなたのままでだいじょうぶ。みんなと同じように、ここで大切にされるべき子どもだよ」と、ふつう学級という居場所を守ってくれること。
ふつう学級という場所に自分の席(籍)がなくならないこと。
それは、親が身体をはって、自分を守ってくれているからだと子どもは知っている。
その回路も含めて、子どもの「社会」への「つながり」は、しっかりと育っていた。
そういうことだとおもう。
私は言葉だけだから簡単に言えるけど、妹夫婦はよくHalをここまで見守り育ててきたな~と感心する。
そしてあのとき、私が絶対的に自信をもって「だいじょうぶ」と言えたのは、いままで出会った子どもたちのおかげだとおもう。