《差別とは、相互行為が起こらないこと。》
ここで「相互行為」とは、会話やキャッチボールをするという「行為のやり取り」でなく、その「はじまり」(きっかけ)を指します。
それは、ある人が、他の人の行動の意味を解釈するときに、起こります。
「行動の意味を解釈」というと難しく聞こえますが、私たちはいつでも、これをしています。
朝、駅に向かう人たちを見れば、「この人たちは、電車に乗って、学校や仕事に行くんだな」と解釈しています。
ラーメン屋のドアを開けて入る人を見たら、「この人はお腹が空いていて、何かを食べるために、ドアに手をかけたんだな」と解釈しています。
朝、6歳くらいの子どもがランドセルを背負って、黄色い帽子をかぶって歩いていたら、「ああ、この子は小学校に行くんだな」と解釈します。
その子が、背負っているのが、リュックサックだったら、私たちは違う解釈をします。
その子が、おんぶしているのが、赤ちゃんだったら…。
他にも、私たちは日常の中であらゆることを、解釈しています。
他の人が、「眠そう」だと「分かる」のはどういう時でしょう。
他の人が、「うれしそう」だと「分かる」のはどういう時でしょう。
他の人が、「怒っている」と「分かる」のはどういう時でしょう。
他の人が、「悲しそう」だと「分かる」のはどういう時でしょう。
ヒントになるのは、自分の「経験」です。
たとえば、真夜中の公園で3歳くらいの女の子が、一人でブランコに乗っている。
周りには誰もいない。
あなたは、どう感じるでしょう?
ただ、「子どもが楽しそうに遊んでいる」と考える人は少ないでしょう。
近くの子どもが、寝ぼけて家を出てきたのかもしれません。
交通事故で亡くなった女の子の幽霊かもしれないと思う人もいるかもしれません。
狸が、人を化かそうとしているのかもしれないと考える人もいるかもしれません。
もしかしたら、障害のある子どもかもしれません。
解釈は幾通りもあります。
その「解釈」が、相互行為の始まり(きっかけ)になります。
その次に、どんな言葉をかけるか、どんな行動を起こすかにつながります。
女の子のいる公園を、何も感じることなく、ただ通り過ぎるとき、そこに「相互行為」はありません。
◇
同じ地域で、同じような家族構成で、同じように日々を暮らしているのに、「相互行為」が欠ける場面が、障害の当事者と家族にはあります。
地域の小学校ではなく、遠い特別支援学校にバスで通う時、子ども同士の「相互行為」はなくなります。それだけでなく、親同士の「相互行為」もなくなることがあります。
近所のスーパーに買い物に行っても、子ども同士の顔見知りもいないこと、親同士の顔見知りもできないこと。他の同じ年頃の子どもと親たちは、誰もが同じ小学校の子ども同士だというつながりがあります。
そうした日常の何気ない暮らしの一コマ一コマが、親子にとって重くのしかることがあります。
特にいじめられる訳でもなく、地域から追い出される訳でもなく、でも、安心して暮らす気持ちが揺れ動きます。
「何もしてない」と、人は思うでしょう。
「本当に何もしてない」と、本気でそう思うでしょう。
実際、そのとおりです。
「何もしてない」
「何も言ってない」
それこそが、「相互行為がない」ということになります。
そうして、「何もしてない」「何も言ってない」が、永遠に続く社会が、この社会です。
いつ、だれが、この子の人生に、「何か」声をかけてくれるのだろう。
「どんなふうに」関わってくれるのだろう。
「関わる」とは、理解とか優しさのことではありません。
私の人生が、いいこと、楽しいことばかりではなかったように、この子にも、悲しいことや辛いこともある人生を味わってほしい。悲しいとき、寂しいときにこそ、寄り添う人に出会ってほしい。
そのためには、この子と、この子が出会う子どもとの間に、「相互行為」が必要です。
保育園や幼稚園、そして小学校に障害児が入ろうとするとき、小さな子どもたちに、さまざまな相互行為を期待するのは難しいと、大人は考えたりします。
でも、私たちは、幼い子どもたちが一緒に育ちあうなかにこそ、豊かな相互行為が生まれることを知っています。私たち大人が、思いもよらない豊かな希望を、子どもたちは見せてくれます。
その豊かな可能性を信じられない大人が多いのはなぜでしょうか。
それは、その大人たちには「相互行為」が起こらないからです。
それが起こらないのは、「経験」がないからです。
その人の人生の中に、「ともに育つ」という「経験的資源」がないのです。
それは、その大人たちの責任ではありません。
社会が、「ともに育つという経験的資源」を与えない学校しか持たなかったのですから。
「相互行為」が起こらないようにすることは簡単なことです。
私や、多くの大人が育ってきたのと同じ環境を用意することです。
障害のある子どもがいない学校。
障害のある子どもを分ける学校。
障害のある子どもがいない地域。
それだけで、「相互行為」など、初めからなかったような大人になることができます。
そういう大人が社会の大多数である現実。
そこで暮らす「少数者」にとっては、その現実が「差別」です。
「相互行為」が起こらないこと。
障害のある人との「相互行為」の発達を止められた大人は、時によって、わが子とも出会うことができなくなります。
わが子と、相互行為を行き交わすことさえ、できなくなります。
だから、これからの子どもたちには、同時代を生きる、出会うべき仲間にちゃんと出会ってほしいと願うのです
当たり前に「相互行為」があること。
それがまず一番に大切なことだと思います。
たとえば、初めて出会う、脳性麻痺の子どもや、手足がない子どもは、6歳の子どもにとって、不思議に見えるかもしれません。
呼吸器をつけたり、喉に管を通している子どもは「不思議な存在」に見えるかもしれません。
一人で手をヒラヒラさせていたり、水道の水を何時間も楽しそうに見ている子どもの行動は、不可思議に感じるだろうと思います。
はじめは、お互いにコミュニケーションがうまくいかないことで、ケンカしたりいじめたりということがあるかもしれません。
でも、事情をわかっている大人がそばにいれば、て必要なときに、手をかしてあげることができます。それだけで大丈夫です。
子どもは、初めて見る子どもと、大人が、ふつうに付き合っているのをみれば、自分もふつうにつきあえることが、すぐに分かります。
その子が「相互行為」が不可能な子どもではないということに。
相互行為があり、事情をわかる大人がいれば、そこでは「いじめ」も「ケンカ」も希望につながることがあります。
いじめもケンカもないこと。
それは、「相互行為」がないということであり、それは差別と孤立の始まりでしかありません。
「知らない」、「わからない」「何もしない」、それが差別につながります。
いつも「個別」でいること、それが孤独につながります。
特別支援教育とは、そのことに無自覚な教育だと、私は思います。
子ども同士の、豊かな「相互行為」の可能性を摘んでいるのが、「早期療育」であり「特別支援教育」だと思います。
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yo
やすハハ
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