ワニなつノート

みつこさんの右手



浜田寿美男さんの『ありのままを生きる』という本に、
≪みつこさんの右手≫という話がある。

みつこさんは5才のときに、右手の4本の指を失った。
残ったのは小指だけ。
幼稚園から帰り、掘りごたつで寝入ってしまっての事故だった。

「目をさましたとき、自分の指が炭の棒のようになっていた、
その光景が忘れられません」

母親は、傷が癒え、短くなってしまったみつこさんの手をなでながら、
「もみじのようにかわいい手だったのにね」と言った。
その言葉が、みつこさんの耳にこびりついている。

小学校の入学のとき、母親は、みつこさんのために、
黄色いミトンの手袋を編んでくれた。
みにくい手をさらすことは、みつこさんにとって恥ずかしいこと。
なにより仲間にバカにされることを恐れた。
家から、外へ出るときは、いつも手袋で右手を隠す。
手袋さえしていれば、他人に見られることはない。
手袋は彼女にとって、なにより大切なものになっていった。

「なにしろ、手袋だけが私を守ってくれる、
そう私は思っていました」

しかし、次第に守ってくれていた手袋が、
今度は彼女を苦しめるものに変わる。
つまり、「手袋」が目立ってしまうのだ。
「なぜ手袋をしているの?」
「手袋をとって、手を見せて」


≪手袋だけが私を守ってくれる。≫
手袋は何から何を守ったのか。
世間の目から、みつこさんの右手を守った。
しかし同時に、みつこさんの右手は、
人前にさらしてはいけないネガティブなものとなってしまった。
彼女は自分の右手を、
「受けとめられない」ものとしての体験を繰り返した。

そして、自分自身でも、自分のありのままの右手を
「受けとめる」ことができないまま大人になる。

大学のときに、手袋をはずしたみつこさんだったが、
すぐに自分で自分の右手を受けとめられるようにはなれなかったという。

浜田さんは、みつこさんにこうたずねた。

「誰かに手を握られたことはあります?」

「そんな! ………自分で自分の右手を握ることもめったにないんです」

「でも、学校ではフォークダンスなんかさせられることもあるでしょう?」

「ええ、でもそんなときは、みんな手袋をそっとつまむって感じで……」

5歳の事故以来、…みつこさんは右手を他人から触られた覚えがなかった。

卒業後、みつこさんは、ある通所授産施設に勤める。
そこで、「みつこさんの右手」は、
はじめての「受けとめられ体験」に出会う。

知的障害をもつ人たちは
「いやー、この手、どうしたん?」と遠慮なく聞く。
「きたない手やね」とストレートに言う人もいれば、
「わぁ、ちっちゃくてかわいい手」そんなふうに言いながら、
彼女の手を握りにくる人もいる。

「人と右手で手をつなぐなんて、ほとんど20年ぶりでした」


信頼できる人たちに「受けとめられる」ことで、
人は「自分を受けとめる」ことができるようになるのだと思う。

最後に次のようなエピソードが紹介されている。

【つい先日、久しぶりに出会ったみつこさんは、
来年小学校に入るという、五歳の女の子を連れていました。
女の子は、母の手に、右手といわず左手といわず、
ごく自然にまつわりついていました。】


「受けとめられなかった自分の思い。忘れていた自分の思い」
それを、自分の子どもに「受けとめられる」ことで、
救われることがある。

ありのままで、無条件で、
受けとめられ体験をしたことがなかった人にとって、
子どもに、ありのまま、無条件で、
「受けとめられ体験」を、初めて体験することがある。

信頼しきった子どもの笑顔、握りしめてくる小さな手に、
親である「私」が救われることがある。

私もまた確かに、娘に「受けとめられて」きた。
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