ワニなつノート

「ここにいる私」と「…できる私」 (その5)

「ここにいる私」と「…できる私」 (その5)


普通学級で暮らすということ。
それは「授業という生活」を暮らすということであり、
授業の中身の理解とはとりあえず別の話です。

学校の授業が、知的能力の発達のためにだけあると思っているとしたら、それは間違いです。

「授業という生活」でなにより身につくのは、「より豊かに人生を経験する能力」です。

たとえ授業中、疲れて眠ってしまう時間があったとしても、一日1~2時間しか学校にいられないとしても、たとえ休みの日が多いとしても、「より豊かに人生を経験する能力」を発達させる物語が教室(同級生という所属)にはたくさんあふれています。


普通学級で暮らすということ。
そこには、子ども同士の「相互行為」があふれています。
それは、受けとめられる体験、受けとめる体験が無数にあるということです。
それは普通学級という集団(所属)に、まるごと受けとめられる体験として、そして「ここにいる私」を支える環境と人間への信頼の基になります。

それは1年生に限らず、保育園や幼稚園でも、めずらしいことではありません。
なぜ、小さな子どもほど「受けとめあい」が上手なのでしょう。

それは、きっと、お母さんや家族に受けとめられて生まれた「ここにいる私」たちの集まりだからでしょう。

受けとめられ、大事にされ、抱きしめられた「ここにいる私」たちは、環境と人への信頼をもとに、お互いに出会います。

そこでは、歩けないことやしゃべれないこと、呼吸器をつけていたりすることは、たいした問題ではありません。


わたしはここにいるよ、
あなたもここにいる、
私たちはみんな、おなじ子どもとして、
ここにいるんだよね。

そう感じる子どもたちの感性を一番大切にすることを、その感性を通り過ぎた大人は忘れてしまうのでしょう。
もっと大切なことが人生にはたくさんあると、どこかで間違えてしまうのでしょう。

「相互行為」の小さな天才たちの能力を、大人たちは評価する基準を持っていないのはそのせいかもしれません。

忘れてはいけないことは、この「相互行為」できる仲間と共にいる体験は、決して消えないということです。

たとえ、その子が半年入院しても、一度始まった「ここに、ともにいるなかま」の関係は、なくなりません。
子どもたちは、その子の帰りを待っています。
「所属」とは、そういうことです。

たとえ、長い入院の後、子どもが教室ではなく空に還ってしまったときにでも、それを「受けとめ合う」関係が、子どもたちにはあります。


    ◇     ◇     ◇


『こどものころに みた空は』

工藤直子


ひとはみな
みえないポケットに
こどものころに みた 空の ひとひらを
ハンカチのように おりたたんで
入れているんじゃなかろうか

そして
あおむいて あくびして
目が ぱちくりしたときやなんかに
はらりと ハンカチが ひろがり

そこから
あの日の風や ひかりが
こぼれてくるんじゃなかろうか

「こどものじかん」というのは
「人間」のじかんを
はるかに 超えて ひろがっているようにおもう
生まれるまえからあって
死んだあとまで つづいているようにおもう



    ◇     ◇     ◇


おとなは、だれも、はじめは子どもだった。

(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)

(サン・テグジュジュペリ)



    ◇     ◇     ◇


子どもの屈辱をわかってやる感覚が、
私たちにはまだ備わっていません。

子どもを尊重しその傷ついた心を知るというのは、
知的な行為ではありません。

もしそれがそんなものだったら、
もうずっと前に世間一般に広まっていたことでしょう。
(アリスミラー)

コメント一覧

yo
森さんへ

ご指摘の通り、『たとえ授業中、疲れて眠ってしまう時間があったとしても、一日1~2時間しか学校にいられないとしても、たとえ休みの日が多いとしても、「より豊かに人生を経験する能力」を発達させる物語が教室(同級生という所属)にはたくさんあふれています。』の文章は、
会ったことのないさくらさんという6年生の女の子が、いまいる「ここ」から、いなくなってしまうことの不安から、昨日、追加しました。

でも、私はさくらさんのことを何も知らないので、「疲れて眠ってしまう子」も、「休みの日の方が多い子」も…、私が付け加えたのは、もうこの世にはいない子どもたちの声にうながされて、という感じでした。

こうじは、小学校の門からなかには、とうとう入れませんでした。

ゆうりちゃんとけいちゃんは、たった一年間の小学校生活でした。

生まれてもすぐに死んでしまうといわれたたっくんは、二十歳の人生を生き切りました。

その人生の中で、小中学校の生活がどれほど豊かなものだったかを、いまも思います。


昨日、森さんのコメントに、直接答えることはできませんでした。
そうするには、私は、森さんの状況も、地域の状況も知らなすぎるからです。

でも、私の中では、さくらさんの13歳から15歳の所属は、地域の中学校の普通学級しかあり得ません。

だから、直接、言葉を返すと、とても脅迫的な言葉になってしまうような気がして、できませんでした。

でも、ワニなつノートを、わざわざ読みにくる人なら…と思い、昨日の原稿にあの4行を加えました。
(コメント字数に入りきらないので、本文に続きます)
ai
森さんのコメントでOKですね。
私もまだまだです。
・・・一緒にやっていきましょ。
北国の冬は長いんですよね。
だから、春がとっても嬉しい。
読んでいて、胸があつくなりました。
森晴子
【私が見た養護学校の授業はとても手厚かった、です。良いと想いました。

が,養護学校もアッ!と言う間に卒業です。
その後は、社会に出されます。

しかし、社会の人達はショウガイ者をあまりよく知りません。
出会う機械があまりに少ないからです。

先々を考えると、さくらと同じ年代の人達に、さくらを
通して多くのショウガイがある人達の事を実際に共に暮らす中で知ってもらう方が長い人生大事だ、先決だ、と想いました。

 また、さくらが暮らすこの地域で、さくらと言う名前を知ってもらい、顔も知ってもらい、状況も知ってもらい、挨拶出来る関係を築く事こそ、ここで生きるのには何より良い事だと想いました。

それを見学の時に寄り添ってくれた優しい笑顔の女の先生に伝えましたら静かに聞いて下さり、
『その通りだと想います。ここは、いつか出ていかないとならない場所です。永遠ではないんです。あなたの言う事、良くわかりますよ。』と。。。

私は嬉しかったです。

もし、、、ここが、、、、死ぬまで居れるなら、、、、私は楽な方を選び、養護を選んだかもしれません。
まだ若かった、今よりも心の幹が細かった私なら。】



森晴子
昨日より寒い札幌からおはようございます!

昨日の更新された記事は、私のコメントの答えになっている、、と感じて何度も読んでいます。

 特に『たとえ授業中、疲れて眠ってしまう時間があったとしても、一日1~2時間しか学校にいられないとしても、たとえ休みの日が多いとしても、「より豊かに人生を経験する能力」を発達させる物語が教室(同級生という所属)にはたくさんあふれています。』

 ここの文章は、さくらの今の学校生活の事と同じす。

 私がもし子ども(大人でも良い)で、さくらのクラスメートだったら、やはりいつ来るか解らない、今はきても~2時間で帰ってしまう、“その子”が来たら、やっぱり「あ♥来たっ(^^)」ってなんだか嬉しくなるでしょう。

 実際、毎回どえらく大歓迎されます。誰も飽きずに群がってきて、かまいます。
手伝います。
教室移動など、連れて行きます。
椅子に座らせ準備します。
微笑みます*

 また、さくらは小学校生活の全般はびっちり学校に行き、たくさんの時間を共有していた、という土壌が出来てるから特にそうなんでしょう。

今日は私が4時間目の国語にさくらと行こうと想います。

 昨日の投稿を読み、なんだかまた以前のようにテンションが上がって来た私は、近所の普通中のPTA会長になろうかな、、なんて妄想したりしました。

 また実際に明日は、養護学校の見学日があり初めて見て来ます。
小学校入学前にさくらが行くに妥当だ、とされた養護学校も2度見学に行きましたが、その時は、すぐに「あ、違う。ここじゃない。」と思ったので答えが早かったのです。
今回はどうか。自分の感覚を確かめて来ます。

 では、ありがとうございます!!

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