ワニなつノート

『オーケ・ヨハンソンさんの講演』 (前半)

『オーケ・ヨハンソンさんの講演』 (前半)

『さようなら施設』(オーケ・ヨハンソン)という20世紀の名作があります。オーケさんが、日本で行なった講演記録をネットで見つけて、大事に大事にしまってあります。


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『オーケ・ヨハンソンさんの講演』 (前半)

(札幌「地域生活支援を考える会」1997年11月6日)


皆さん今日は、私は、私が32年間も生活してきた施設での暮らしについて、話を聞いていただくために参りました。

私の話の最初に、私のスウェーデンで出版した本の表紙にあります医者の診断書を読みたいと思います。 この診断書は、1954年に書かれたものですが、それにはこうあります。
 
「オーケ・バルティル・ヨハンソン ハーランド県ヴィンバリェ教区、1934年11月4日生まれ。その身体的および精神的な遅滞のため、おそらくその生涯、本人による自立生活の可能性はないことを、ここに証明する」とありました。

そういう訳で、私は32年間も施設で住むことになって、現在は66歳の年金生活者です。

私の施設生活は、大きく二つの生活の時代に分けることが出来ます。一つは8年間の「ハラゴーデン」と呼ばれる知的障害児の教育養護施設です。それから24年間を過ごした成人の労働居住施設で、これはスコーネ地方の「ロンネホルム城」という城のなかにあった施設でした。
 
私の話の半分の時間を、この二つの施設でどんな生活を送ったかを話したいと思います。残りの半分の時間は、私が今どんな活動をしているか、現在のスウェーデンの知的障害をもつ人が、どういった経緯で現在の生活を送れるようになったかについて、お話していきます。
 
私は施設に住むと言うことは、まったく人間的なことではないと思います。そして私は、知的障害がある人だからといって、地域を離れ施設で生活するという理由がまったく理解できません。
 
私が施設に強制的に入れられたのは10歳の時でした。10歳の子どもにとって、施設へ送られるということは、子どもから両親を、家庭を奪うこと。寝る時に側に居る母親が居なくなることであり、自分が頼るべき者、自分をかばってくれる者の全てを奪うものだったのです。
 
そして先ず第一に、普通の人がもっている社会的な関わり、周りとの関わり、皆と一緒に生活するという事が奪われてしまうのです。
 
「ハラゴーデン」という施設は、知的障害をもつ子どもが入所する教育療育施設です。どうして、私が知的障害というレッテルを貼られたかと言うと、小学生の年代から私は 文字を読んだり計算をすることはある程度出来た のですが、文字を書くことが非常に苦手だったのです。難しかったのです。アルファベットの綴りの理解が出来なかったのです。
 
現在は私のそうした障害も含めて「難読症」と呼んでいますが、その当時は「知的障害」だったのです。
 
1940年代のスウェーデンでは、文字を読むことが出来ない、書く事が出来ない、あるいは大変時間がかかるという子どもは、知的障害者のレッテルを貼られたのです。
 
「ハラゴーデン」は、学校、教育施設としてありましたが、私はそこでの8年間の「教育」で文字を書くことを覚えたでしょうか。答えはノーです。
 
ここにある私の本は、私の話を元にクリスティーナ・ルンドグレンと一緒に書いたものなのです。今度日本語版が出ましたから、これを読んでいただければ、私が話す以上に、四つの壁に取り囲まれた施設での暮らしがどんなものだったのか、良く解るのではないかと思います。
 
私が、施設での学校教育というものを体験したのは1940年代でした。スウェーデンでは1954年に知的障害をもつ人の学校教育制度が法律として出来るまでは、子どもを二つのタイプに進学年齢で分けていたのです。「教育可」と「教育不可」とにでした。私は「教育可能」「教育可」だったのです。
 
私が「ハラゴーデン」に入所した当時は、入所後3ヶ月は休暇であっても両親の元に帰ることを許されなかった。両親もまた面会に来ることを許されませんでした。これは施設での一人の生活に早く慣れさせるという名目でした。 そういうことが、小さな子供たちにとってどういうことなのか、皆さんは想像できるでしょうか。
 
「ハラゴーデン」は、大変規則の厳しい施設でした。学校教育というよりは、行儀作法を躾るということに重点をおいて、厳しい規則をこれも厳しい罰則で守らせる施設でした。殴るなどの体罰から、沢山の様々な罰があって、その中の一つで私が忘れられないのは「冷たいシャワー」という罰です。これは裸にされた僕たちに、氷のような冷たい水を掛けるものでした。
 
そういう環境の中で、小さい子どもはどうやって耐えて行くのでしょうか。ただ黙って歯を食いしばってジーッとして、いわれたことに黙って服従するしかないのでした。
 
現在、私は強く後悔しています。もっと、その時に抗議をしていれば良かったとね。
 
スウェーデンでは、宗教儀式として「堅信礼」というのがあります。これは神を堅く信じていますということを誓う通過儀礼です。

私は1949年、私が17歳の時にその「堅信礼」を迎えることとなりました。私たちのグループに、施設所長のサーラ・グスタフソンという女性がいいました「あなた達もこの『堅信礼』を受けて大人になり、社会に出て行くのです。でもその前にファルケンバリー病院へ行って、ちょっとした手術をやらなければならない」と。
 
その手術は、「強制不妊手術」でした。当時のスウェーデンでは、法律で知的障害をもった人であったり、いわゆる普通でない人たちには強制的に不妊手術を行うと決められていたのです。
 
何故、知的障害をもっ人に「強制不妊手術」をするかというと、これ以上知的障害の人を増やさないためだとか、知的障害をもつ人は感情がない、性的な欲求もないとされていたのですね。
 
まったく違っていますね。私たち知的障害をもつものにも感情はあります。私たち知的障害をもつものにも性的欲求はあります。
 
その「強制不妊手術」の法律は、今はありません。20年以上前に廃止されました。
 
さて、私は成人して「ロンネルホルム城」の施設へ移されることになりました。
そこは「ハラゴーデン」に比べれば、わりと開放的で自由であると言われる、男ばかり150人ほどが暮らす施設でした。
 
ここで言う自由とは、私たちが現在もっている自由とは比べることが出来ないものでした。決められた中での自由であって、自分の意志は生かされない。あってないような自由でした。
 
「ハラゴーデン」に比べ、良いこともあった施設ですが、悪いこともありました。ここでは皆が、やる気がなく、無気力になってしまうのです。このことが今でも私たちに影響を与え続けているのです。
 
ここでの生活での事は、詳しくこの本に書かれていますから、どうぞ読んで下さい。 私の「施設生活の体験」をご理解いただければ、私が時に激しい怒りに駆られることを理解してもらえるのでしょう。
 
私は個人的には、知的障害をもっているからといって人間を「施設」に入れてしまうような事を決めた、行政や政治家には罰則を加えなければならないと考えています。

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今日、私はここで改めて立ち止まりました。同時通訳感覚で、次の言葉に聞こえたのです。

『私は個人的には、知的障害や発達障害をもっているからといって、子どもを「特別支援学級」に入れてしまうような事を決めた、行政や政治家には罰則を加えなければならないと考えています。 」

私たちは、本当に、特別支援教育や特別支援学校を、このまま爆発的に増加させていていいのだろうかと。
私が「特殊教育」に反対の考えだからではなく、子どもたちみんなにとって、このままで本当にいいのだろうかと、不安になりました。

特別支援教育に入れられた子どもが、いつかオーケさんのように、言葉にする日がくることを、分かっていながら、このまま子どもたちを特別支援に囲い込み続けていいのだろうかと。












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