ワニなつノート

普通学級の配慮の専門性(003)

普通学級の配慮の専門性(003)


養護学校義務化のころ、普通教育には100年以上の歴史があり、特殊教育にも100年以上の歴史がありました。それぞれに、専門の免許があり、教科書がありました。
しかし、統合教育には、歴史も教科書も専門性もありませんでした。

「普通学級の配慮の専門性」など、思いもつかないことでした。
その証拠に、日本中どこでも、「親の付き添い」を条件にし、不思議に思うことがありませんでした。

親以外の介助員の場合にも、そもそも介助員の資格というものがなかったため、介助員の役割は、子どもが周りの迷惑にならないように見張ることであったり、担任や親がつけない場合のただの「人手」としての役割でした。

「教員免許」をもった人が介助員としてつく場合でも、普通学級の配慮のモデルはなかったので、やはり、「先生のいう事をだまって聞く」「みんなと同じにできなければ、個別対応をする」といった配慮が前提となっていました。

しかし、本来普通教育のなかに含まれるはずの子どもを分けて追い出して成立してきた「普通教育」と、そこから対象外として分けられた場所で成立した「特殊教育」は、どちらも、「普通学級の配慮」のモデルにもヒントにもなり得ないものでした。

それまでの「普通教育」は、基本的に健常児中心です。
言葉での指示が行き届き、健常者である先生と、同じように成長発達して、同じように学ぶやり方に適応できる子どもたちが対象です。そこでは、個別指導の効果が上がるのも、もともと同じやり方で学ぶ能力と適性が、子どもの側にあるからでした。

また、特殊教育の専門性は、「管理」と「従順」の中で通用することばかりです。
入学した特殊学級を追い出され、転校先の養護学校でもこんな子は見れないと追い出され、入所させられた施設で薬漬けにされたたあげく、5年生から地域の普通学級に戻った子どもを知っています。

専門性があると思われている「リハビリ」も、「一人ひとり違う身体」には全く合わないこともあります。そのことは、養護学校を卒業して小児科の医師になった熊谷晋一郎さんが『リハビリの夜』に詳しく書かれています。
また、長い間、ろう学校では、手話が禁止されてきたことも、「特殊教育」の専門性の怪しいところです。

これらの事実は、教える側の教師の「学び経験」と、学ぶ側の障害児の「学ぶ回路」が、かみ合っていなかったり、子どもの主体が全く大事にされていないことでもあります。
そういう関係で、個別指導で効果があるのは、「管理」と「従順」です。

どちらにしろ、普通教育も特殊教育も、統合教育のモデルにはまったく使い物になりませんでした。

手話や点字といったスキルであれば、同じ経験をした教師、同じコミュニケーション手段を使う教師が、「普通教育」と同じように、経験を伝承するという形で「教える」ことができるでしょう。
しかし、知的障害・自閉症といった、同じ障害名でも一人ひとりまったく違う個性、学び方をする子どもに対して、教師が自らの経験と同じように学ばせるのは難しいことです。

では、何に頼るか。それは目の前の、子ども、目の前の子どもたちの関係。
そこにある現実から、子ども自身が学ぶ現場、学ぶ関係、成長しあう子どもたちの姿を、じゃましないように後ろから見守りついていくことだと、心底思えるようになりました。

みんなの仲間であるという自負を持ち、仲間でいたいという希望を持ち、一生懸命にその場に居場所を確保しようとがんばっている目の前の子どもの姿に、踏み止まることです。
その生活の仕方。学ぶスタイル。障害のある子どもがその障害を持ちながら、その学びの場に適応しようとする姿を、応援するのが、統合教育の教師や介助者の専門性です。

もちろん、普通学校は長い間、障害児を排除してきたため、設備も整っていない。そのために、移動や、学習が困難なこともあります。
だからといって、それを個人の責任にして我慢させるのはまったく見当違いです。
それでは、排除と同じ、分けることと同じです。
分けることや、親に全面的に任せてしまうという特別なやり方をするのではなく、障害があっても、ふつうの学校生活が送れるように、特別な工夫を、するのが、統合教育の専門性です。

だから、普通学級の配慮を考える時、普通教育の専門性も、特殊教育の専門性も、まして医療や看護の専門性も使い物にならず、6才の子どもたちの言葉や工夫、気持ちが関係性に学ぶことの方が、ずっと大事なことを教えてくれていたのだと分かります。

統合教育のなかで、授業という生活を作るために必要なのは、教育の専門性や医療の専門性ではなく、子ども同士の一緒に暮らしている「常識」です。

また、子どもの姿をみて、「わからない授業はかわいそう」と憐れむのではなく、子どもの主体に立って、学びのスタイルを考えることもできます。

入学してしばらくは、教室を出て行ってしまう子どもたちのなかに、その自身の学び方を探っている子がたくさんいます。
たとえば、教える側と学ぶ側の両方を観察して、その全体の動き、毎日の繰り返しという学校生活の中身、授業という生活の中身、それを観察して、集団を観察して、自分の立ち位置、生活の仕方、自分の居場所を自ら学び、自ら選び取っていく、自分の生き方、学び方のスタイルをも、そこで学んでいる。そんなふうに見えます。

それは、健常者中心のこの社会での、自分の生活するスタイル、自分と仲間との関係づくりにつながります。

そこでは、「分からない授業はかわいそう」という見方は通用しません。
その評価は、教える側が、学ぶ側を一方的に見て判断する評価の枠組みの中の価値だからです。

もちろん、子どもは一方的な評価の矢印も見ています。
学校、授業、子どもへのまなざしのなかにある、評価としての枠組み、矢印を、ちゃんと見ています。

だから、自分の自由度、自分の観察学習の仕方、自分のふるまい・作法の自己学習を、その矢印にじゃまされると、身動きが取れないこともあります。それは、学べなくなることでもあります。
そうして子どもが、落ち込んでいる姿や、できない姿を、また「障害だから」と一言でかたづけられることもあります。
そうして、自分の学び方ができなくなるとしたら、それは「かわいそうだ」と私も思います。
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