ワニなつノート

福島さんとHide&こうちゃん(その15)


【15・違い】


[9]
一般に、精神医療の現場では、医師と患者との面接に伴う
相互コミュニケーションには、二重の役割があるだろう。

第1は、患者の状態を把握し、
医師が正確な診断を下すうえでの材料になるという役割であり、

第2は、その「相互コミュニケーション」自体が、
いわば、治療行為としての役割をも担っているということである。

ところが、盲ろう者は、多くの場合、
コミュニケーションにハンディを抱えているため、
先にあげた二つの役割のいずれもが
不十分にしか果たせないという問題が生じかねないのである。

そうした意味で、精神医療の現場における
通訳・介助者のサポートは極めて重要であり、
どこまで患者である盲ろう者と医師とのコミュニケーションを
豊かに保障するかは、通訳・介助の力量にかかっている。
 


□     □    □


前回までの、福島さんの説明は、
そのまんま頷けるものばかりでした。

盲ろう者にとっての苦労の中身を、
きちんと言葉にしてもらうことで、
少しでもその苦労の中身を想像するための
緒につくことができました。

中でも、その「孤独」という苦労は、
知的・自閉の子どもにとっての苦労の中身と重なりました。

「しかも、それは単なる《孤独》ではない。
すぐそばに人がいて、楽しく会話している中での
《孤独》なのである。
これほど心をかきむしる寂しさはない。」


自分のすぐそばに誰がいるかも分からない。
何が起こっているのかも分からない。
それは、確かに孤独な状況だと、想像することができます。

そして、思い出すのです。
見えて、聞こえていて、
それでも、自分のすぐそばに誰もいないような環境。
何が起こっていても、自分だけが放っておかれる状況。
それは、見えない聞こえない苦しみと同じような、
もしかしたらそれ以上に苦しい思いをしてきた
子どもたちのことを思い出すのです。

そして、もっともそういう扱いをされてきたのが、
知的・自閉の子どもたちでした。

その子どもたち、一人一人の顔を思い浮かべるとき、
ここで、福島さんが求めていることが、
少しすれ違ってくるのを感じるのです。

盲ろう者の苦しみとその支援のあり方と、
知的・自閉の子どもたちへの支援のあり方の違いを、
ていねいに考えなければいけないと、
あらためて思うのです。


《知的・自閉の子ども》は、
「多くの場合、コミュニケーションにハンディを抱えているため、
先にあげた二つの役割のいずれもが
不十分にしか果たせないという問題が生じかねないのである。」
ここは、そのまま書き換えできます。

でも、その後を、
「そうした意味で、精神医療の現場における
通訳・介助者のサポートは極めて重要であり、
どこまで患者である《知的・自閉の子ども》と
医師とのコミュニケーションを豊かに保障するかは、
通訳・介助の力量にかかっている。」
と書き換えることはできない気がするのです。

「通訳・介助の力量」について語る前に、
語らなければならないことがいっぱいあるのです。

(ここが、一番書きたいことであり、
でも、なかなか言葉にするのが難しいところです。)


(つづく)
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