ワニなつノート

福島さんとHide&こうちゃん(その14)


【14・コミュニケーション自体を楽しむこと】




「日常的に豊かなコミュニケーション」とは、
どのようなものか。
私は、すぐに、普通学級での
子どもたちの日常を思い浮かべました。

福島さんは、その中身を次のように言います。


[7]

《たとえ、コミュニケーションの技術においては、
互いに未熟であってもかまわない。
時間をかけ、ゆったりとした気分の中で、
盲ろう者と言葉を交わす習慣を持ちたい。
それは、何かの用事を済ませる為の
コミュニケーションという意味ではない。

そのコミュニケーション自体を楽しみ、
喜び合うような関係を、
盲ろう者が周囲の人との間に、
築いていけるようにすることである。》
 


   □    □   □


就学相談会で、知的・自閉の子どもを、
普通学級に入れることに迷っている母親に、
何を迷っているのかと尋ねると、
次のような答えが返ってきます。

「まだ、言葉が出ないから…」
「お友だちとコミュニケーションができないから…」


でも、福島さんのように、きちんと「自分の考え」を
表現できる盲ろう者にとっても、
「何かの用事を済ませる為」のコミュニケーションよりも、
大切なコミュニケーションがあると言うのです。

まして、1年生、6歳の子ども同士、
コミュニケーションの技術においては、
互いに未熟であって当たり前です。

技術は未熟でも、いいえ技術が未熟だからこそ
技術の壁など初めからないように
飛び越えていけるのでしょう。
目の前のありのままの姿を受けとめるのは、
大人より子どもの方がずっとずっと柔軟です。

時間をかけ、ゆったりとした気分の中で、
「障害」のある子どもと、
「言葉を交わす習慣」を持つためには、
まさに「普通学級」の場以外にはありえません。

しかも、「それは、何かの用事を済ませる為の
コミュニケーションという意味ではない」というのです。
ますます、Hideやこうちゃんにとっても、
ぴったりの説明です。

コミュニケーションは、
まずそこにいることから始まります。
「教育」のためのコミュニケーションではなく、
そこにいっしょにいることを楽しむコミュニケーション。
「発達」のためのコミュニケーションではなく、
いろんな子どもがそこに生きて出会うことを
楽しむコミュニケーション。

そのコミュニケーション自体を楽しみ、
喜び合うような関係を、
障害のある子どもと周囲の人との間に、
築いていけるようにすること。

どの子も地域の学校へ。
0点でも高校へ。
私たちが、子どもたちにとって一番大切だと思い、
求めてきたことは、
福島さんが「盲ろう者」にとって大切だという中身と、
そっくり同じだと思います。


[8]

《そうした取り組みが
他者との間に信頼関係を生み出し、
盲ろう者に生きる希望を与えていく。

「生きることの意味」を見失い、
自信を喪失した盲ろう者には、
どのような素晴らしい訓練も、
高度な技術を伴うサポートも、
何の力も持たないのである。》



 □    □   □


そうした取り組みを続けてきたからこそ、
Hideやこうちゃんは、
周りの人との信頼関係を自分のものとして身につけ、
希望を持ちながら、今を生きています。

Hideはいわゆる言葉を使いません。
こうちゃんは、言葉を話し、書くこともできます。
でも、二人の子ども時代に、何より大切だったのは、
「ことばの発達」ではなく、
日常的に豊かなコミュニケーションでした。

それがなかったら、
「どのような素晴らしい訓練もサポート」も、
大人になっていま地域の中で生活するための、
何の力も持たなかったことでしょう。

   ☆    ☆    ☆


≪いきいきと生きるとは、常に楽しく生きるということではない。
いきいきと生きるとは、喜怒哀楽を豊かに持つということである。
喜びや楽しみを豊かに持つだけでなく、
十分な怒りも、深い悲しみも大切である。≫
(野田正彰)
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