まじめにきょういくのはなし(その3)
(学力と、歩きなおす道と、ホームと、15~18歳という年齢の子どもと)
1《学力とは何か?》
昔、「Achievement」を翻訳するときに、誰かが「学力」とした。
しかし、本来の意味は「学校で教える内容」についての「学びの到達」を表すものであって、「力」ではない。
「力」がつくと、日本語では「能力・パワー」を連想するからややこしくなる。
翻訳が下手だったのだ。
わかりやすく説明しよう。
ダイゴ流にいえば、GNではなく、むしろGGとすべきだった。
GN=学習する能力ではなく、GG=学校で教えることの・現在地。
2《GNとGGの違い》
たとえば「筋力」とは、「筋肉」の「力・パワー」がどれだけあるか、という能力を表す。
「跳躍力」とは、跳躍する「力・パワー」がどれだけあるか、という能力を表す。
たとえば3メートル、ジャンプできる子がいる。
それは、いま現在その子が3メートルジャンプできる力(能力)を表す。
過去にジャンプし続けて、到達した今の場所が3メートルではない。
何度でも繰り返すことができる。
その「力」のことを「跳躍力」とよぶ。
何度ジャンプしても、約3メートルを跳ぶことができる。
(もちろん、この先、4メートル、5メートルと力を伸ばすことができるかもしれない。)
では、学力は?
仮に、学力をジャンプする距離に例えてみる。
たとえば3メートル、ジャンプできる子がいる。
それは、いま現在その子の「学力」で3メートルジャンプできる能力を表しているのではなく、
過去にジャンプし続けて、到達した今の場所が3メートルだということ。
何度も繰り返すことができる「力=能力」を表すものではない。
単に、これまでの経験の結果の「現在地」(現在値)を「学力」とよぶのだ。
だから何度ジャンプしても、約3メートルを跳ぶことができる、とは限らない。
もし、その子が6才に戻って、「両親」がいない環境で「学校」をスタートしたら、いまと同じ「3メートル」まで、到達できるとは限らない。
能力がないのではない、「それどころではない」のだ。
3《一人の子どもが歩いてきた道に敬意を》
「学力」は、Achievementの翻訳語。
学力(Achievement)とは、「学校で教える内容」についての「学びの到達」を表している。
学びの「到達度」は、テストで測られる。
それだけの意味。
つまり、「学校知」の到達点=現在地のこと。
学校の授業という道を歩いてきた、今の場所、を表すのが「学力」であり、「テスト」の点数のこと。
だから、「学校の授業」という道を歩いてはこなかった子が、「学校で教える内容」を、持っていないのはあたりまえのこと。
☆(「学校の授業」を通して測っている「学力」と、普通学級の「授業という生活」を通して測る「ふつう力」とは、また別のもの。これについては、また別の機会に。)
学校に通っていても、安心して学ぶ環境にはいない子どもたちがいる。
たとえば家庭で虐待を受けている子どもは、学校に通って授業を受けていても、それどころじゃない、場合がある。
家庭の中に暴力があるとき、両親が離婚の危機にあるとき、貧困、虐待、病気、いじめ、不登校、「それどこじゃない」事情は様々ある。
そうした子どもたちは、安心して授業を受け勉強に取り組む子どもたちの「現在地」とは、違う道の現在地にいる。
「高校入試」という「学力試験」で「現在地」を測れば、ずいぶんと違う場所に、いることになる。
だけど、それは「学力」(現在地)を比べているだけであって、
「能力=学ぶパワー」(可能性)を比べているのではない。
生まれてから、6歳から15歳までの「子ども」の時期に、「学校どころじゃない」「勉強どころじゃない」子どもがいる。
生き延びるので精いっぱい。
食べることに精いっぱい。
自分の身を守るのに精いっぱい。
そうした子ども時代を送った子どもは、「学力」以外にも、「子どものまま=未熟なまま=経験不足なまま=学び不足なまま」な「現在地」がたくさんある。
高校とは、いや15歳~18歳とは、子ども時代に歩き損ねた「学校」という道を、ちゃんと歩きなおす最後の機会でもある。
学力とは、学校での学びの「到達点」「現在地」なのだから、その「到達点」が低い子、現在地がまだ「未経験の子どもの場所」であるとき、その子の歩きなおし、学びなおしの道があっていい。
定時制高校や単位制高校は、その歩きなおしの道、学びなおしの道のためにこそあったのだし、そこから1%の子どもを見捨てる理由はない。
そこで学ぶのは、学校知だけではない。
すでに15,16、才という年齢になって、学校知以外の現在地は、ちゃんと「仕事」ができる「現在地」だったり、赤ちゃんができる「現在地」だったりする。
学力が小学校5年生だからといって、18の子が「歩きなおす」道で学ぶもの、体験するもの、身につけるものは、より人生に直結するものになる。
そこでは、誰もが誰かの力を借りて生きているということ。
どんなに勉強ができる子も、学校の先生も、知らないこと、分からないこと、一人では解決できないことが無数にあるということを、知ることも大切なことだ。
15~18の学びなおしの道と社会のないまま、その「自分を切り捨てた」社会で生きていくことと、
15~18で学びなおし、歩きなおして、社会に出て生きていくことは、まったく違う道を行くことになるのだとおもう。
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