ワニなつノート

5人のアンパンマンと揺れること(その5)

5人のアンパンマンと揺れること(その5)


まだ、うまく言葉にできる自信はないのですが、
いま書いておかないと忘れてしまうので、
あらすじだけでも書いておきます。

アンパンマンの話を聞いた時、Naoちゃんママが、
どうしてこんな初歩的な《できること》の話に
とびついたのかが分かりませんでした。

就学前の親なら、いろんなことを
一通り試してみるのは分かります。
とくにNaoちゃんのように、いろんなことができそうな子どもは、
つい親も「できること」に傾く気持ちは分からなくありません。

実際、Naoちゃんママも、かなりいろんなことを
がんばってやらせたのだと思います。
一年生のときに次のような原稿を書いています。

    □    □    □

Naoちゃん(小学校1年生)

【できてもいいし、できなくてもいい】

「できてもいいし、できなくてもいい」
最近、私の頭の中でぐるぐる回っていることばです。
先日の定例会で聞いたことばなのですが、
私は今そのひと言にとても救われています。
それまでの私は、「できないよりは、できた方がいい」と考えて、
娘にあれこれ無理強いさせていたように思います。

小学1年生ともなると、
まわりは習い事をしている子どもでいっぱいです。
「娘に何かやらせなければ」と思った私は、
こども発達センターで勧められた“くもん”を
初めての習い事に選びました。

くもんのその教室の先生は、気が短いのか、
はたまた時間に追われて忙しいのか、
娘のゆっくりしたペースに全く合わせてくれません。

えんぴつを持つ娘の手を上から持ち、先生が無理やり動かしたり、
ひらがなをゆっくり読んでいる娘の声をさえぎり
先に読んでしまったりと、
「この人に任せておけないな」と思った私は、
しばらくして娘を教室に連れて行くのを辞めてしまいました。

そして、それならばとプリントを全て自宅に持ち帰り、
私が先生になって娘に教えることにしたのです。
しかし、私が必死になればなるほど娘は拒否し、
私はイライラして怒りっぽくなっていきました。

そんな状態が長続きする訳もなく、
結局半年で(半年も?)辞めてしまいました。

次の習い事として私が選んだのはピアノでした。
やさしい先生だからと聞いて行ってみると、
開口一番「楽譜は読めないんですか?」と聞かれ、
落ち着きのない娘の様子を見て1分と経たないうちに
「私には無理です」とあっさり言われてしまいました。

以前テレビ番組で、
障害児を相手に根気強く教えている先生を見て、
いたく感動したことがあり、
あっけなく断られてしまった現実とのギャップに
私はすっかり落ち込んでしまいました。

そんな矢先に定例会で聞いた
「できてもいいし、できなくてもいい」。
あせる気持ちがスーッとなくなりました。
ありのままそのままの娘を受け入れてほしいと
いつも訴えている私自身が、
実はありのままの娘を認めていなかったのです。

私の勝手な都合で、娘には嫌な思いをたくさんさせてしまったと
深く反省しています。


    □    □    □

小学校1年でこんなふうに感じ、さらにその後も、
ワニなつ道場で厳しい修行を7年もしてきているのです。
就学相談会では、新しいお母さんたちの話を聞いて、
「自分もそうだったな~。そんなふうに迷ったり、
悩んでいたな~」と、毎年思ってきたはずなのです。

そのNaoちゃんママが、釣られる話ではないんだけどなぁ
と私には思えました。
でも、実際に算数教室に行き、5人のアンパンマンで
はっと我に返ったのでしょう。
そこの教室が悪いという話ではありません。
ただ、そこには、私たちが大事にしているものとは、
どこかすれ違う要素がそこにはあります。

そう、すれ違う要素は、いまの学校にもたくさんあります。
だから、私はいつもこうして、遺言のように書き続けているのです。

さて、実を言えば、5人のアンパンマンが登場する前から、
naoちゃんママは、自分が場違いな場所にきた自分を
感じていたようです。
私が引っ掛かったのはここのところです。

そこで、すぐに場違いな自分を感じる人なのに、
なぜ行く前に思いとどまらなかったのか。
Naoちゃんママが、見つけようとしたものは何だったのか。
そのことが気になっていました。

Naoちゃんママは、その辺のことを、
「やっちゃん計算するの早いよ~!」
「Naoちゃんヤバイよ~!」というamiちゃんの言葉や、
「養護学校に行かないのなら、その分は家で
教えなければならない」というおばあちゃんの言葉に
惑わされたように書いています。

でも、私にはそれだけが原因とは思えなかったのです。
それだけなら、踏みとどまるくらいの修行は
終えているはずなのに…という感じがしていたのです。
スーパーサイヤ人にはなれないにしても、
クリリンくらいなら…(-。-)y-゜゜゜

何が、最後にNaoちゃんママの背中を押したのか。
それが、【Hello Nao♪】を読んで分かる気がしました。
原稿を読んで、私はすぐにNaoちゃんママに聞いてみました。
「5人のアンパンマンと陽気なスウエーデン人は、どっちが先?」

答えはやはり、陽気なスウエーデン人が先でした(^^)v

《今まで1度も習い事をしたことのないNaoが、
突然「英会話を習いたい!」と言い出したこと》
それが先にありました。

たぶん、私がひっかかっていたことの一番は、
アンパンマンの話にはNaoちゃんがいない、ということでした。
でも、そんなはずはないのです。
だから、英会話の話で、つじつまがあいました。
Naoちゃんママは、ただ「算数ができるようにさせたい」とか、
「少しでも普通の子に追い付きたい」、
そのために「いい教室」があると、
飛びついたのではなかったのだと思います。
やっちゃんとの比較や、養護学校との比較で、
揺れたのではなかったのだと思います。

揺れたのは、Naoちゃんの夢や
Naoちゃんが何かをやりたいという動機を、
できるだけ大切にしたい、かなえてあげたい、
という気持ちが、ふだんなら読み流す記事に
吸い寄せられたのでしょう。

それは、また、Naoちゃんが親の予想を超えて
成長していること、もう親が思っているような
「子ども」ではない、ということに、
心の準備ができていなかった親の動揺でもあります。

Naoちゃんママは、こんなふうに書いています。

「Naoが中学生になって予想もしなかったことが次々とおこりました。
まず部活に入るなんて思わなかったし、
転部するとも思ってなかったし、
ましてや習い事を始めるなんて考えてもいませんでした。
これからも私はNaoの応援団長として、
Naoの人生を応援していきたいと思います。」


予想もしなかったことを次々と始める子ども。
まだまだ、子どもだと思っていたけど、
もう自分で自分の道を歩き出している。
日本語もおぼつかない子どもが、英会話をやりたいと言い出すなんて。
もしかしたら、この子は、「できなくていい」というのではなく、
もっともっといろんなことをやってみたいのかもしれない。
あまりに早すぎる学校の授業にはついていけなくても、
この子が自分のペースで学びたいこともあるのかもしれない。
…そうした思いは、とても自然なものだと思います。

きっとその先に、5人のアンパンマンが立っていたのでしょう。

通り過ぎてみれば、または傍から見れば、違いはあきらかです。

「子どもについていく親」であるか、
「子どもを追い越してしまう親」であるか。

英会話はNaoちゃんが自分から言い出したことです。
Naoちゃんママは、Naoちゃんの後からついていって、
しっかり応援してあげたのです。

でも、アンパンマンは最初から最後まで、
Naoちゃんママの一人舞台でした。
《一人じゃないや。アンパンマンが5人だ(>_<) 》

大切なのは、子どものことは、
子どもをいつも真ん中において考えることです。
よく分からないときは、子どもを待つこと。
子どもについていくこと。
そうすれば、少なくとも、
子どもを置き去りにする間違いだけはしなくてすみます。

  □    □    □


先日も、紹介した安積さんは、次のように書いています。
安積さんが子どものころに最も苦しんだのは、
骨が弱いために何度も骨折したことと、
それ以上に苦しかったのが、
何度も何度も手術を繰り返したことだったと言います。
だから同じ障害をもって生まれた娘には、
自分が受けたような治療は一度もしなかったそうです。

    □    □    □

私の場合、母親からは、比較や競争のキズは
まったくといっていいほどもたらされなかった。
しかし、彼女が私に願った、一日でも長く生きてほしい
という愛情ゆえ、私に対する過酷な治療が
混乱のうちになされることになったのだ。

あまりに過酷だったので、私はそのつらさに学び、
娘の宇宙には、治療という名の虐待はまったく与えていない。

私が幼児期にほしかったのは、
ただただやすらかな眠りだけだったのだ、
と自分のからだが教えてくれる。

どんなに重い障害をもって生まれても、
そのことが不幸だとはまったく考えない親であれば、
子どもに安らかな眠りは保証される。

私の母は、障害自体を不幸だとは
思っていなかったようだが、
「長生きしないだろう」という
医者の脅迫的な宣告が彼女を追いつめたことは明らかだ。

だから、障害をもつ子を産んだ親たちに心から言いたい。

その子はあなたのもとに完全に
安心して生まれてきたのだから、
その安心感をできるだけ長く
保たせてやってほしい。

安らかな眠りと、
子ども自身が自分のからだの声をよく聴いてとる食事、
この二つを保証してやってほしい。

そして、子どものいのちに別状がないかぎり、
医療の介入は可能なかぎり小さくしていくこと。


親は子どもになにかをしてやらなくてはならない存在ではない、
と私は信じている。
そうではなくて、
「子どものしたいことをできるだけ応援する人たち」
として留まることがたいせつだ。
それは、障害をもつ子に対してもまったく同様だ。

親は自分の優性思想や、そこからくる不安・心配を
子どもにはぶつける必要がないのだと、まずは気づくこと。
障害をもつ子の存在は、比較や競争とは無縁の、
そして優性思想からもまったく自由なものなのだから、
親は価値観の大転換を迫られているということを、
大いに楽しんでほしい。


「いのちに贈る超自立論」安積遊歩
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