ワニなつノート

物語としての自立生活ケア(11)



物語としての自立生活ケア(11)


ケアをめぐる仕事を、「高齢者」と「障害者」に分ける
違和感について考えていて、
ふっとクリスティーンさんの言葉を思い出しました。

「いつの日か、痴呆とともに生きる人々への対応が
敬意のこもったものになる時が来てほしい。
私たちがどれだけ必死に一日一日を生き抜いているか、
分かってもらえる時がきてほしい」
※『私は私になっていく』


認知症という脳の機能障害を抱えた当事者の願いが、
このようなものであるとき、
その願いに応えるためには、
「あらゆる状況」「あらゆる人」が
目の前に現れるということが前提だと思います。

たとえば、ふつうの小学校の先生の多くは、
障害児が入学してくることを想定していません。

だから、「この子は、私より専門の先生の方がいいですよ」と
善意であれ、つきあいたくない時であれ、そんなふうに言います。

中学校、高校、大学と、先へ行けば行くほど、
「あらゆる子ども」が目の前に現れるという
「意識レベル」は低下します。
(簡単にいえば、意識が低い、ということですが…)

自分は関係ない、と思っている間は、何も始りません。
文字通り、意識に上らない訳ですから、
そうした子どもたちのことを考えようともしません。

「専門家がつきあうべき子ども」であり、
「自分には関係ない」と考えたとたんに、
その人に対する「敬意のない対応」が始まります。


クリスティーンさんの言葉はいくらでも書き換えられます。

「いつの日か、知的障害・自閉症・ダウン症・とともに
生きる人々への対応が敬意のこもったものになる時が来てほしい。

私たちがどれだけ必死に一日一日を生き抜いているか、
分かってもらえる時がきてほしい」

「いつの日か、人工呼吸器とともに生きる人々への対応が
敬意のこもったものになる時が来てほしい。
私たちがどれだけ必死に一日一日を生き抜いているか、
分かってもらえる時がきてほしい」

「いつの日か、韓国から・フィリピンから・ブラジルから・
ベトナムから…)来てともに生きる人々への対応が
敬意のこもったものになる時が来てほしい。
私たちがどれだけ必死に一日一日を生き抜いているか、
分かってもらえる時がきてほしい」


知的障害者も高齢者も自閉症者も、
「人への敬意を向けられないこと」
という同じ問題に苦しんできました。

差別されてきた人たちが、求めてきたものは、
人としての敬意あるまなざしとつながりでした。

ケアされる側が、同じことを求めているのであれば、
やはりケアする側の「知らなければいけないこと」
「考えなければいけないこと」「忘れてはいけないこと」
は同じだと思います。

でも、私たちはその「方法」をまだほとんど知りません。
モデルがありません。
「知的障害」があっても、「認知症」があっても、
「統合失調症」があっても、
地域で当たり前に暮らしていくための援助の手立てと、
その人たちへの「敬意あるまなざしとつながり」が
絶望的に足りません。
私たちの社会が一度も手に入れてないものだからです。

「できない」のは、相手ではなく、私たちの方です。


クリスティーンさんの言葉をあといくつか…。

「私が今日という日を覚えていなくても、
今日が何曜日か分からなくても、
そんなことはたいした問題ではない。
私たちみんながともに今日という日を
心ゆくまで楽しみさえすれば」

「私たちが自分の存在の中心へ。
魂へとより深く旅していく時、
私たちに生きる意味を与えてくれるものと
再びつながれるように、
あなたが助けてくれることが大切なのだ。」

「何をおいても、私たちが、
ひとりの人間だということを忘れないでほしい」

「私たちを介護される人、としてだけではなく、
ひとりの人間として考えてほしい」
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