ワニなつノート

高校相談会

今日は、これから《高校相談会》に出かけてきます(^^)v
今日の資料用に書きなおした「タイガーマスク」を載せておきます。




《タイガーマスクとランドセル》

今年の春、タイガーマスクとランドセルという言葉を幾度となく目にしました。
タイガーマスクは孤児院出身で、小学校もろくにいかずに虎の穴で修行して、プロレスラーになりました。タイガーマスクが敵の組織と戦いながら、孤児院にお金やおもちゃを送り続けたのは、そこにいる子どもたちが自分のようにならず、安心して生活できるようにでした。そこで普通の家庭の子どもと同じように、安心して暮らし、学校に行けるようにと願ったのでした。
自分の正体を隠したのは、自分が「悪役レスラー」だったからでしょう。それは、子どもたちに「悪役」ではなく、陽の当たる未来を歩いてほしいという願いでもあります。

そうした思いが、時代を超えて広がるのは、その思いが多くの人の共通した願いだからだと私は思うのです。大人や社会が、親をなくした子どもや親に虐待された子どもを守るのは、当たり前のことだと。なぜ当たり前かといえば、私たちの誰もが、親や大人に守られ、社会に守られて、成長することができたからです。人の手をかり、守られ、温かな世話をされなかったら、私たちは誰一人、いまここにいられなかったからです。だから、大人になった私たちが、今度は子どもたちに手をかし、子どもたちの生活と希望を守るのは当たり前のことなのです。

タイガーマスクの時代は、1960年代です。中卒者が金の卵といわれ、中卒で就職が普通の時代でした。確かにいまも、「義務教育」は中学までです。高校は「義務教育」ではありません。

私は思うのです。養護施設の子どもたちへランドセルを送った人の思いを受け継いではじまったタイガーマスクの支援の輪。東北大震災で被災した子どもたちのために、送られた大量のランドセル。その暖かい人々の気持ちは、すべての子どもたちへの思いだと。誰を分けたり、区別するのではなく、すべての子どもたちを守りたい、暖かな思いだと。


そのタイガーマスクの思いを現代に引き継げば、私は、98~99%の子どもが高校に進学する今の時代、せめてすべての子どもに高校生を体験させてあげたいと思うのです。なぜなら、いまを生きる子どもたちにとって、高校はランドセルだからです。

6歳の子どもが、入学前にランドセルを手にするときの喜びの気持ち。それは、「新しいカバン」を買ってもらった、ということではありません。6歳の子どもが、入学前にランドセルを背負って家で遊んでいる子どもを、誰もがうれしそうに見守る笑顔は、ランドセルがただのプレゼントではないことを、子どもたちは感じています。「学校に行く前にこわれちゃうよ。学校に行くまでちゃんとしまっておきなさい」と、叱られときでも、子どもはそこに未来や希望を受け取ります。何の迷いもなく。お母さんもお父さんも、お姉ちゃんもお兄ちゃんも、おばあちゃんもおじいちゃんも、近所のおばちゃんも幼稚園の先生も、通りすがりの人も、テレビのなかも、サザエさんやドラえもんの世界でも、どこにも「ランドセル」の意味を疑わせるものが、何一つありません。

ランドセルとは、6歳で始めて家から一人で出かけていく(社会に出ていく)「子どもの希望」の象徴です。カンボジアやアフガニスタンで、内戦で壊れた学校が復活したときに生まれる、村中の人々の喜びと希望と笑顔と同じものが、一つのランドセルには隠れています。そのことを、子どもは感じる。何の迷いもなく。

だから、今の日本で、みんなと一緒に小学校・中学校を過ごした子どもたちにとって、高校はランドセルだと、私は思います。何の迷いもなく。

そう、ランドセルがなくたって学校くらい行けます。カバンなんかなくても、スーパーの袋でも教科書くらい入ります。でも、東北大震災で家ごとを流された子どもたちに、全国からまっさきに届けられたものの一つがランドセルだったのは、それがただの「カバン」ではないからです。

高校も同じです。高校もまた、ただ「教科書を勉強する場所」ではなく、いまを生きる子どもたちにとって、その後の30年、40年、50年を生きていく未来を支えになるものだからです。
少なくとも、私にとっても、小学校、中学校、高校を含めて、いまの私の人生をまるごと支えてくれています。高校はランドセルなのです。私はそう思います。だから、養護施設の子どもにも、生活保護家庭の子どもにも、障害のある子どもにも、そして自立援助ホームにくる子どもにも、すべての子どもに、私は高校をランドセルのように送りたいと思うのです。

        ◆   

【僕のランドセル届いたよ 仙台の親子へ徳島から贈り物】
(朝日新聞 2011年3月29日)
 ランドセルを買うために大切にしまっておいた入学祝いを被災後に盗まれ、困っていた仙台市の親子のもとに28日、ランドセルが届いた。朝日新聞の記事で親子のことを知った徳島県の夫婦からのプレゼントだった。
 「やったーやったー。これで1年生になれる!」。約300人が避難する仙台市宮城野区の市立岡田小学校。新品のランドセルを箱から取り出した幼稚園児の米山兼生君(6)が跳びはねて喜んだ。ランドセルを背負って体育館を走り回る兼生君。「格好いいね」「よかったね」。避難所の人たちが声をかけた。  兼生君の家は津波で1階が浸水した。地震の2日後、母親の美枝さん(33)が自宅に戻ると2階が物色され、タンスに保管していた封筒の中身が無くなっていた。祖父母がランドセル購入用に贈った入学祝い3万円だった。
 26日、朝日新聞朝刊の「いま伝えたい 被災者の声」でこのことを知った徳島県の夫婦が、避難所に電話をかけてきた。「同じぐらいの孫がいるんです。力になりたい」。遠慮する美枝さんに「今一番つらいだろうけど、これからは良いことだけだから」と言って電話は切れた。
 28日、避難所に届いたのは濃い緑色のランドセル。満開の桜の写真が印刷されたはがきも添えられ、 「皆、仲間です」 と結ばれていた。
美枝さんは 「生きるための励みになりました。 災害を通じて、兼生も人の心の温かさを学んでくれたはずです」。兼生君は「遠くのおじいちゃんとおばあちゃんにありがとうって電話するんだ」と話した。

       ◆



「本人の意思」と「親の思い」と、もう一つ大事なものがあります。それは、子どもと親の思いを、「そうだよね、みんな同じ思いだよね」と支える社会の思い。『子どものランドセルへの希望』と『親のランドセルへの思い』そして、『ランドセルへの思いを支える社会』
6歳の子どもにとって、ランドセルを持つことが、仲間であるということと同じ意味。所属があるということ。帰属感を感じるということ。一人じゃない、孤独じゃないと感じるための、それが自己肯定感につながります。親や社会に尊重されることが、子どもが自分を尊重することにつながります。それが自尊感情を育てることです。
教育するために、そこに子どもがいるのではありません。社会化されるために、子どもがそこにいるのではありません。いま、ここいる子どもが、みんな大事にされて、その先に、子のたちの未来と希望と社会があるのです。子どもたちが、安心して楽しく暮らせる社会であるために。年を取り認知症になっても楽しく暮らせる社会であるために。
私たちはその思いを、子どもに伝えるために、保育園とか公園とか、学校とか、そういう手段を持っているのです。子どもたちを振り分け、競わせ、傷つけるために、学校を持っているのではありません。
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