(十五)
「ほら、古木・・・」
祭りの後片付けをしながらシカゴがおれに声をかけた。おれはギタ
ーケースのお賽銭を掴んではコンビ二袋に投げ込んでいた。どうし
て人は金を弄(いら)ってる時には周りのことが見えなくなるんだろう
か。シカゴに言われて顔を上げるとアンちゃんの妹が、縄跳びの輪
の中に入り逸(そび)れて何時までも佇(たたず)んでいる女の子の
ように所作無く立って居た。
「あれっ、どうしたの?」
おれが屈み込んだままそう言うと、
「こんばんは」
と別世界から答えたっきり畏(かしこ)まって黙り込んだ。
「あっ、『城天』見に来たんか?」
そう言うと小さく頷いた。彼女は学校の制服のままカバンを正面に
提げてその柄を正しく両手で握り締めていた。カバンの下から覗い
てる白い靴下が眩しかった。おれは腰を起こして立ち上がった。
立ち上がると彼女は後退りした。
「おれ等のライブ見てくれた?」
また頷くだけだった。
「何や、言うてくれたらええのに、来てんの知らんかったわ」
彼女は答えずにただ頷くばかりで、その頷く意味が全く理解できな
かった。
「アッ!思い出した、良子(よしこ)ちゃんや、なっ!」
「はい」
「何んや、やっと答えてくれたわ。久し振りやなぁ、元気にしてた
?」そして、「あっ!そうや、シカゴ紹介したるわ」
そう言って彼の方を振り返ると、彼女はそれを拒むように、
「あの―、実は、相談があるんですけど・・・」
と急に早口で喋った。それは独りで何度も暗誦してきたセリフ
みたいだった。
「えっ!相談?」
「あの―、ここでは出来ないので兄の部屋まで来てもらえませんか?」
「え?ああっ、別にええけど・・・」
アンちゃんの部屋は彼が居た頃のまま残されているとお母さんから
聞いていた。ステージを片付けてから、シカゴと約束していた打ち
上げを断って、良子ちゃんが待つアンちゃんのマンションへ行くこ
とにした。するとシカゴは、
「何や!祝杯あげへんの?」
「ちょっと、用事がでけたんや。ゴメン」
「どんな用事?」
「まあ、ええやないか」
「あれっ?言うてくれへんの、水臭さ―っ!」
「悪い!今日は水に流してまた今度水入らずでしようや」
それでも、おれには良子ちゃんがどんなことで悩んでいるのか皆目
見当がつかなかった。ただ、思い詰めた彼女の眼は、市役所の動
物愛護(?)センターで殺処分を待つ犬のように何かを訴えている
眼だった。おれはシカゴを城天に放置してアンちゃんのマンション
に向かった。
「相談があるんですけど・・・」良子ちゃんはそれだけしか言わ
なかった。つまり、部屋には彼女ひとりだけとは限らなかった。
「しまった!もう少し聞けばよかった」と思いながらエントランス
のインターホンで、一時は入り浸っていたアンちゃんの部屋の番号
を押した。
「古木です」
良子ちゃんは何も言わずに玄関ドアのロックを解錠した。馴染みの
エレベーターも心做しか冷たく感じた。部屋の前でチャイムを鳴ら
すとすぐに部屋のドアが開いた。すると、生活感のない脳の視床下
部を刺激する香りが部屋の中から漂ってきた。
「すみません、呼び出して」
良子ちゃんは学校の制服を着替えて、紅いТシャツに紺のショート
パンツ姿で現れた。後ろで纏めてあった髪は解かれて、城天で恥ず
かしそうにしていた彼女とはとても思えないほど大人びて見えた。
良子ちゃんは加減を越えたパヒュームばかりか口紅まで差していた。
「部屋を間違えたかと思った」
そう言うと嬉しそうに笑ったが、その笑い顔にはまだ少女っぽさが
残っていた。
「どうしたん?相談って」
こっちから先に切り出さないと永遠に相談にのる機会を失うかもし
れないと、つまり相談なんてどうでもよくなってしまわないうちに、
進路相談の担当教師のような素っ気ない聞き方をした。すると、
「中に入って下さい」
彼女はおれの言葉を無視して、どちらが年上かわからないほど冷静
に部屋の奥へ案内した。彼女が悩みを打ち明けてくれないので相談
員のおれは言葉を失って黙ってソファに座った。正面の奥には笑っ
てるアンちゃんの遺影と新しい花が飾られた祭壇があった。
「あっ!そうや、アンちゃんに挨拶せんと」
そこに気付いた自分が一歩社会人に近づいた思いがしたが、さて祭
壇には遺骨は置かれていたが、パーカッションの類いが何もなく蝋
燭や線香すらなかった。仕方がないので横に立掛けてあるアンちゃ
んが愛用していたギターの弦を爪弾いてから掌を合わせた。
「無信仰やから何もするなって、お兄ちゃんが」
彼女がアイスコーヒーのグラスを二つ持って来て、一つをアンちゃ
んの祭壇に置いた。
「それはおれもしょっちゅう聞かされた」
アンちゃんは儒教は言わずもがな、自殺者の一人も救えんくせに来
世での救済を説く仏教も批判した。そのくせ「死人の上前を撥ねた」
上がりを世襲すると罵った。良子ちゃんはもう一つのグラスをおれ
が座っていた前のテーブルに置いた。
「どうぞ」
おれはソファに戻ってアイスコーヒーを口に含んだ。そして、良子
ちゃんはおれの前に立ったまま、突然こう言った。
「実は、相談というのは、私とセックスしてくれへん?」
「ブッふぁ―ッ!」
おれは驚きのあまり口に入れたコーヒーを誤って鼻孔へ流し込んで
吹き出してしまった。それはまるでド真ん中のストレート勝負を挑
まれて手も足も出せない打者のように言葉がなかった。それでも彼
女は落ち着いていて、テーブルにあったクロスで拭こうとしたが、
おれはそのクロスを引き取って自分の粗相を始末しようと屈んだ。
すると目の前にはショートパンツから伸びた彼女の脚が塩化ビニー
ルのような光沢で艶やかに聳えていたが、それ以上見上げることが
出来なかった。
「嫌っ?」
「どっ、どうしたん?急に」
「やっぱり嫌なんや」
「いっ、嫌やないけど、急に言われた誰でもびっくりするやろ」
「そしたら、してくれる?」
おれはそのストレートの球には手を出さず、
「きれいになったね」
そう言って彼女の肩に手を伸ばすと、良子ちゃんはギラついた眼を
ゆっくり閉じた。その彼女の背後ではアンちゃんが笑っていた。
ところが、良子ちゃんにとっておれは単なる手段にすぎなかった。
キスを交わした後で、
「ごめん、歯磨いてくれへん?」
タバコ臭いと言われた。
「歯ブラシないで」
「ある」
彼女は「おれ用」の歯ブラシまで用意していた。おれはエサを前に
「待て」と言われお預けを強いられた座敷犬のように、その気など
端からなかったように装いながら、
「ごめんごめん、ライブやると無茶々々タバコ喫うてしまうからな」
そう言ってバスルームに行くと、今度はバスタオルと陳列用のフッ
クが付いたままのブリーフを渡された。おれはもう女王様の命令に
はどんなことでも従おうと思った。シャワーを浴びただけでは納得
できないと言うのであれば香水を頭から浴ったて構わなかった。臭
いというのは不思議で人が鼻を曲げる程には自分の臭いに気付かな
い。それどころか自分だけはそれほど臭わないのではないかと思っ
てしまい、やがて他人もそうなんじゃないかなどと、とんだ勘違い
に到る。この臭いに対する認識の違いが自己と他者の差異を生む根
源なのだ。そして、他人の臭いが許せる許せないの分水嶺を人はど
のような条件の下で、環境や習慣や体調や利害、或は人間関係とい
った全く臭いとは関係のない理由で、受容したり或は拒絶したりす
るのかという研究は、心理学や行動学においても等閑(なおざり)に
扱われていることが信じられない。凡そ我々が愛着を感じる匂いと
はクサイのだ。そして共同体とはその臭いを共有することである。
「はい、これっ」
良子ちゃんはバスルームから出てきたおれにコンドームを差し出し
た。そんなものまで用意していたのだ。
「何これ?」
「それ、つけて下さい」
「付けられないよ」
「どうして?」
おれは彼女が用意したブリーフを履いていた。元々はトランクスし
か履かなかったが、彼女がブリーフを隆起させて反り返る男根に妄
想を逞しくしているので女王様に従ったが、そのブリーフを下ろし
て萎えた風船を曝してやった。
「キャ―っ!」
「ほらっ、付けられへんやろ」
「何で大きならへんの?」
おれはその原因を彼女と一緒に丁寧に探りながらコトは始まった。
「ほら、ここで付けるんや」
もう良子ちゃんは何も聞いていなかった。そして、良子ちゃんが女
に生ろうとしているベットは、かつて、おれが彼女のお兄さんに誘
われて初めて男に成ったベットでもあった。ただ、アンちゃんが笑
ってる写真はこの部屋からは視線が届かなかった。
おれは良子ちゃんと合体して、世界征服を企(たくら)む悪人共を
やっつけようと愛とセイギの為に立ち上がった。しかし、横の壁か
ら悪人どもの嘲笑うような声がした。
「・・・ゲキョウ、なむみょう・・・、南無妙法蓮華経、南無・・」
「何、あれ?」
良子ちゃんは合体に集中してそれどころではなかった。作業を一時
停止して彼女の頬を叩いて気付かせると、
「ええっ?」
「何か聴こえるで」
良子ちゃんが言うには、隣の部屋のおばあさんがお経をあげている
というのだ。おれが、アンちゃんが居た頃はそんなことはなかった
と言うと、どうもアンちゃんが死んでから入信したらしい。おれも
隣のおばあさんとは何度か廊下で出会って挨拶を交わしたが、年は
いっていたが穏やかな人柄で、何よりもアンちゃんを孫のように可
愛がっていた。
「出てくるんだって、お兄ちゃんが夜になると」
「ほんとっ!」
「管理人さんから聞いたんやけど、お兄ちゃんがこっちへ来いって
呼ぶんやて」
「どうする?」
「えっ!」
「やめる?」
「いややっ!」
良子ちゃんはおれの身体を引き寄せた。まったく大阪に住む者は宗
教などを畏れていては暮らしていけない。夕方に裏通りを歩けばこ
の種の独唱は何時でも聴ける。いや独唱どころか輪唱も時にはコー
ラスさえ耳にする。休みになればそれぞれの新興宗教の信者が新聞
の勧誘員と競うようにして家々を訪れ、人々は洗剤ではなく霊験に
縋って三ヶ月契約で入信し「あすこはご利益がない」と言っては別
の神仏に乗り換えるのだ。高校野球を観れば一目瞭然で、大阪と謂
わず関西から甲子園に出場するのは神仏の加護に縋る高校ばかりだ。
さながら大阪は新興宗教のメッカ(?)のようだ。ただ、それほどま
でに神仏が蠢き信仰に篤い人々が集いながら、何故か大阪の街の暮
らしは悪くなる一方だ。
「音楽流そうか」
たまたまCDに入っていたアンちゃんの唄をかけてボリュームを上
げて再始動した。すると、おばあさんはその歌を「祓い」除けるか
のように更に大きな声で唱え出した。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、・・・・」
しかしおれも愛とセイギの為に止めるわけにはいかなかった。おれ
はおばあさんのお経に負けまいと必死で合体し続けた。おばあさん
もまるで二人の動きを見透かしているかのように早口で唸り始めた。
いつの間にかおれはおばあさんが唱える五字七字のお題目のリズム
に合わせて腰を動かしていた。良子ちゃんも我を忘れて節目ごとに
喘ぎ声を発した。全く関係ない話しだが、民謡の合いの手はこれが
由来に違いない、そう思えるほど三人の息が合っていた。一回裏表
の攻防が終わるとおばあさんも同じように休んだ。我々が再びCD
をかけて二回の攻防を始めるとおばあさんは遅れてならじと応援席
からお経を唱え始めた。我ら愛とセイギの味方と世界征服を企む教
団の闘いは熾烈を極め、二人は不浄を祓うお経の中でさながら冥府
魔道に堕とされた餓鬼のように求め合い、深夜を過ぎても決着がつ
かず夜が白み始める頃、遂におばあさんのお経も絶えて、戦いは若
さに優る我々の五回裏コールド勝ちで決着した。悪人どもから愛と
セイギを守った二人の戦士は、世界が黄色くなってしまったことに
驚いたが、夕方まで死んだように眠った。
良子ちゃんが聞いたところによると、あの夜、おばあさんはいく
らお教を唱えてもアンちゃんの呼ぶ声が消えなかったらしい。どう
もアンちゃんのCDを流したのがいけなかった。
それから、良子ちゃんは路地を歩いていてあのお経が聴こえてく
ると欲情すると罰当たりなことを言っては、おれがライブをしている
城天に現れた。それでも良子ちゃんの眼は、新しい飼い主が現れ
て間一髪でガス室送りを免れた座敷犬のように穏やかさを取り戻
した。一方、おれは、何も明かす必要もないのだが、あの日から
下着を長年愛用していたトランクスから女王様お気に入りのピッチ
ピチのブリーフに変えた。
(つづく)