「あほリズム」
(790)
「管理社会」、私はそれを「幸福の檻」と呼ぶ。
「精神の片輪」
科学技術の《進化》はその一方で我々の生存能力を退化させ、
退化した生存能力は我々の精神を《片輪》にする。
では「精神の片輪」とは何か?
それは管理された生命、つまり自らの力で生きられなくなった
ものたち、家畜のことだ。管理社会「幸福の檻」の中で家畜た
ちはこう言う、
「なんでもないことがいちばん幸せなんだ」と。
ただ私は、どれほど幸せだったとしても檻の中の決められた人
生は望まない。
ところで自由についてニーチェはかく語っています、一部です
が、
「最後に一つ、自由になろうと欲する者は誰でも、自分自身によ
ってそうならなくてはならぬ、誰にとってにしろ自由は奇蹟の賜
物よろしく棚ぼた式に落ちてくるものではない」(『ヴァイロイト
におけるリヒアルト・ヴァーグナー』、第一巻585頁)
「二元論」
(2)
そもそも西洋形而上学は「存在とは何か?」と問うことから始ま
り、そこで古代ギリシャの哲学者プラトンは、変遷流転する仮象と
しての存在を《事実存在》として、そして永遠不変である真の存在
こそが《本質存在》であると捉え、それに沿って世界を、遷り変る
仮象の存在でしかない実存の世界と、永遠不変の真の世界としての
「イデアの世界」に二分化し(プラト二ズム)、その後、キリスト教
世界観の下で「イデアの世界」は「神の世界」へと引き継がれ、《
本質存在》の《事実存在》への優位は揺るぐことがなかった。
ところが、哲学者ニーチェは「私の哲学は逆転したプラト二ズム
である」と言明し、プラトンの「イデア論」から引き継がれた「神
の世界」を「神は死んだ」と諷刺して、存在概念を《事実存在》と
《本質存在》に分ける「二世界論」を逆転させた。しかし、逆転さ
せたからと言って二元論が消滅した訳ではない。そもそも二元論を
もたらすのは我々の存在根拠によるからである。つまり、我々は精
神なのかそれとも物質なのか、或は、本能なのかそれとも理性なの
かの二元性が二元論を生むのである。
形而上学的境涯、つまり「存在とは何か?」を問うことに生涯
をかけたニーチェにとって最終結論である実存主義思想はもの足
りなかった。「神は死んだ」「この世界が全てだ」では何よりも
精神の居場所がなくて忽ちニヒリズムに陥る。事実存在がすべて
であれば世界は意味を失う。しかしモノが消えても想いは残る。
そこでニーチェは新たな精神をニヒリズムにこそ求めた。超人思
想とは精神主義者ニーチェの実存主義からの転回にほかならない
。永劫回帰説とは「この世限り」の実存思想の全否定である。つ
まり、ニーチェもまた事実存在としての実存と本質存在としての
精神の二元論に逡巡した。形而上学的境涯とは最終結論が出たと
しても形而上学的思惟から離れることができない。
(つづく)
「あほリズム」
(788)
国権の最高機関である国会で118回も平気で嘘を吐く虚言癖
のある政治家が、今更改まって本当のことを言う訳がないではな
いか。
https://mainichi.jp/articles/20201221/k00/00m/010/234000c
「安倍前首相の「虚偽答弁」118回 衆院調査局 桜を見る会前夜祭」