「同じものの永遠なる回帰の思想」⑦
ハイデッガー著「ニーチェ」ⅠⅡを読んで
「真理とは幻想であり、誤謬である」とすれば、我々の認識(理性)は、た
とえ「真らしきもの」を認識できたとしても、本質そのものを捉えること
はできない。存在とは不断に変遷する無常な生成(カオス)の世界であるか
らだ。つまり、我々の理性はその本質を捉えて絶対化しようとするが、変
遷流転する生成の世界に的中しない。何故なら、世界とは生成であり存在
者の存在とは「力への意志」だからである。理性は存在の本質(真理)を掌
握することが出来ないとすれば、我々はニヒリズムに陥らざるを得ない。
ニヒリズムこそが生成から導き出される理性の結論である。つまり、理性
は「生きることは意味がない」と答えるしか出来ない。ただ、理性が生成
の謎を解き明かすことが出来ないならば、その決定を理性に委ねるのは間
違いではないだろうか。生成は理性からもたらされたのではないのだから
。
存在の本質を問う形而上学的思惟(理性)は、変遷流転し何れ消滅する生
成の世界を仮象の世界と捉え、プラトンは仮象の世界を超越した「イデア」
こそが真の世界だと説いた(プラト二ズム)。存在を事実存在と本質存在に
分ける形而上学的思惟は、のちにキリスト教世界観へと受け継がれ(二世
界論)、本質存在としての超感性界(神の世界)の優位は揺るぐことはなか
った、ニーチェが現れるまでは。
そのニーチェはプラト二ズムを逆転させ世界とは生成(事実存在)であり
、生成とは「力への意志」であると説いた。「力への意志」とは、すぐに
は理解し難い言葉ですが、たとえば「力」だけがあっても、また「意志」
だけがあっても思い通りにはいかない。つまり「力」と「意志」は分かつ
ことのできない相互関係です。ところで「意志」とは、自らに変化を、或
は変化しないことの決断を迫りますが、「かくあれ」と命じる「意志」に
対してそもそも「力」が備わっていなければ変化させることは出来ない。
そこで「意志」はまず「力」を高めることを命じ、そして高まった「力」
は「意志」を昂揚させ、「意志」は自分を超えた新たな「価値」を定立し
て更なる高みを目指すことを命じる。そして、意志するとは自分を超えて
意志することであり、変遷流動する生成の世界の下で新たな価値を求める
ことは「投企」に他ならない。こうして存在者は「力」への「意志」によ
って、自己を超えて新たな「価値定立」の下で「自己超越」を意志する。
「力への意志」とは生成変化を繰り返す世界の根本性格であり、存在者の
存在とは「力への意志」である。
(つづく)