「火箭」

2012-01-27 17:35:33 | 赤裸の心

                   「火箭(かせん)」

        
 資料を探すために図書館に行ったら、その資料は見つけられなか

ったが、年の暮れ(12月22日)に「草の葉」に記したボードレー

ルの「火箭・赤裸の心」を筑摩世界文学大系の「ポオ・ボ―ドレー

ル」の巻に偶々見つけたのでここに載せます。これは、小林秀雄の

「近代絵画」の中のボードレールの項に載っていたが、その後、そ

の文庫本を他人にあげてしまい、何十年も再読が叶わなくて後悔し

ていたのですが、と言うのも田舎の書店にはそんな本は置いていな

かったので、飛び上がらんばかりに喜びました。以下は私の人生を

変えたボードレール「火箭」の中の一節です。翻訳が現代語訳で安

っぽく感じたのですが。


                 

               「火箭 15」より抜粋


「世界は終わろうとしている。まだ存在している理由があるとして

も、それは、現に存在しているということだけだ。なんと薄弱な理

由ではないか。その逆を告げるあらゆる理由、わけても、世界がこ

れから先天空の下で何をすることがあるのか、という理由と比較す

るなら。――けだし、かりに世界が物質的に生存を続けるとしても、

それははたして生存の名に値する生存だろうか。ぼくは、世界が、

南米諸共和国のようなその日ぐらしやふざけた無秩序におちいるだ

ろうとか、――それどころか、多分われわれは未開状態に帰って、

わが文明の草深い廃墟をふみ分けながら、銃を手に食物をあさりに

いくことになろう、だとかいうのではない。否。――なぜといって、

このような運命、このような冒険は、原始時代の名残りともいうべ

き、いくばくの生命力を前提とするものだから。仮借ない道徳法則

のあらたな実例、あらたな犠牲となって、われわれは、それによっ

て生きていると信じてきたものによって滅びるであろう。機械がわ

れわれをすっかりアメリカ化し、進歩がわれわれの中の精神的部分

全体をまるで委縮させてしまう結果、理想家たちの血なまぐさい、

冒涜的なあるいは反自然的な夢想のどれをもってきても、進歩の歴

然たる諸成果とはくらべものにならぬ、ということになろう。ぼく

は、およそ物を考えるほどのあらゆる人に、生命のいかなる部分が

今日なお残っているかしめしてくれと要求する。宗教については、

これを語ったり、その残存部分を探したりすることは無用と思う、

なぜなら、いまさらわざわざ神を否定する労をとることがこの領域

で可能な唯一の破廉恥行為であるようなしだいだから。私有財産は

、長子相続権の廃止とともに実質的には消滅してしまった。だが、

いずれ人類が、復讐の念にもえた人食い鬼さながら、諸革命の遺産

の正当な相続者をもって任ずる者たちから、食物の最後の一片まで

うばいとる日がくることであろう。これとてまだ最悪の不幸ではな

いだろうが。

 人間の想像力は、いくばくかの栄光に値する共和国あるいは他の

形の自治国家というものを――神聖な人間や一種の貴族によって指

導されるとしてだが――さしたる困難もなく考えることができる。

だが、世界の破滅、あるいは世界の進歩――この際名前などはどう

でもよい――が顕現するのは、とくに政治制度によってではあるま

い。それは、人心の低劣化の結果として現れるだろう。かろうじて

残る政治的なものは万人の獣性にしめつけられてもがき苦しむだろ

うとか、為政者たちは、みずからの位置をたもち秩序の幻影をつく

り出すために、今日すでにかくも硬くなっているわれわれの人間性

をも戦慄させずにはおかぬような手段にうったえることを余儀なく

されるであろうとか、今さらいう必要があるだろうか。――この時

代になると、息子は、十八の年にではなく、十二の年に、がつがつ

した早熟さから早くも一人前になって、家庭をとび出すことであろ

う。彼がとび出すのは、英雄的な冒険をもとめてでもなければ、塔

にとじこめられた美女を救い出すためでもなく、崇高な思索によっ

て屋根裏部屋に不朽の名誉をあたえるためでもなくて、商売を始め

るため、金持ちになるため、そして破廉恥な父親と――知識の光明

を普及し、その時代の「世紀」紙をすら迷信の手先とみなさせずに

はおかぬような新聞の創立者兼株主たる父親と、張り合うためなの

だ。――この時代になると、宿なし女や淪落の女たち、何人も情人

をもったことのある女たち、すなわち、悪のように論理的なその生

活のなかにあって、気まぐれな輝きを見せる軽はずみのゆえに、ま

たそれに対する感謝の念から、時に人が天使と呼ぶことのある女た

ち、――その時代になるとこの女たちは、血も涙もない分別、金以

外のものはいっさい、色恋のあやまちまでふくめて、すべてを断罪

する、分別以外のなにものでもなくなってしまうだろう。――その

時代には、美徳に似たところのあるもの、いな、富の神への熱誠で

ないすべてのものは、とほうもない滑稽あつかいされることになる。

司法権は、もしこの恵まれた時代になお司法権が存在しうるとして

のことだが、栄達のすべを知らぬような市民の権利を剥奪するであ

ろう。――お前の妻は、おおブルジョワよ!お前の貞節なる半身は

――彼女が法律的に正当な妻であることが、お前にとっては詩なの

だが、――今や法的正当性のなかに非の打ちどころのない破廉恥さ

をもちこんで、お前の金庫の油断なく愛情深い番人と化し、つまり

はお妾の理想的タイプにほかならなくなってしまうだろう。お前の

娘は、ゆりかごの中で、あどけないままに年頃の色気をただよわせ

て、百万フランで買われる夢を見るのだ。そしてお前自身は、おお

ブルジョワよ!――今日よりさらに詩人でなくなったお前は、こう

したことになんの不満の種も見いださず、なにごとも悔やむことは

あるまい。けだし人間のなかには、ある部分が弱くなり退化するの

に比例して、強化し発達する他の部分があるからだ。――じっさい、

この時代の進歩のおかげで、お前の胸と腹のうちには、臓腑だけし

か残らぬことになろう。こういう時代は、どうやら大変近くにせま

っている。それどころか、この時代がすでに来ていはしないかどう

か、われわれの天性の鈍磨だけが、現に呼吸している環境を認識す

ることをさまたげる、唯一の障害をなしているのでないかどうか、

誰が知ろう!

 ぼくはといえば、自分の中に時たま予言者めいた滑稽さを感じる

ことはあるが、医者の慈悲心といったものはこの胸のうちに見つか

るべくもないと承知している。この汚らわしい世の中に迷いこみ、

群衆にこづきまわされて、ぼくはさしずめ一人の疲れた男――背後

の深い年月に目をやれば醒めた迷夢の跡と苦い失望としか見当たら

ず、前方には、なんの新しさも、なんの教訓も苦痛もふくまぬ雷雨

ばかりが見える、そういう疲れた男だ。この男が運命から数時間の

快楽をぬすみ得た宵には、――できるかぎり――忘れ、現在に満足

し、未来には忍従の心をきめ、みずからの冷静さとダンディズムに

酔い、目の前を通り過ぎる者たちほど下劣でないことを誇りにして、

葉巻の煙を見詰めながらひとりごつのだ――この人間たちがどこを

指してゆこうと、ぼくに何のかかわりがあろう、と。

 ぼくはどうやら、その道の人々が蛇足と呼ぶもののほうへそれて

しまったようだ。しかしこの数ページは残しておこう。自分の悲し

みの日付をとどめておきたいから。」

 筑摩世界文学大系 37 「ポオ ボードレール」阿部良雄 訳

 

 「火箭」・・・ 昔の戦いで火をつけて射た矢。敵の施設や物資に
          火をつける目的で用いたもの。火矢(ひや)
         2 艦船が信号に用いる火具。 

大辞泉



  


 「尾崎豊、再び」③

2012-01-18 01:38:07 | インポート



               「尾崎豊、再び」③


 ニューズウイーク日本版のコラム欄に投稿された冷泉彰彦氏の

「尾崎豊の再評価が不要な理由」(2012年1月11日)に対して反

論します。

 如何なる時代の状況であっても、本来「正義」は不偏であらねば   

ならない。今、必死で生きている日本の「大人」に対して、日本の

若者に「反抗せよ」というのは正義ではない、と本当に言えるだろ

うか?それでは、文字通り必死で闘っている戦争の最中に、戦争反

対を唱えることは正義に反するだろうか?かつてそういう者は「非

国民」と呼ばれた。更に、原発事故によって放射能汚染を引き起こ

し、電力不足に必死で対応に追われる国や電力会社に対して、原発

反対を訴えることは正義に反するだろうか?正義は常に権力側にあ

って「反抗」する者たちは不逞の徒である、というのは納得いかな

い。実は、どちらが「正義」かなどというのは言えないのだ。日本

社会が世界に進出しようが撤退しようが、おかしいと思ったことを

何時如何なる状況でも口にすることができる社会にこそ正義が存在

するのではないだろうか?

 尾崎豊を代表とする「反抗カルチャー」が校内に吹き荒れた原因

が教育現場の誤りにあったとすれば、私は、朝日新聞の社説が、今

の「大人」社会の誤りを正すために、若者たちにアンガージュマン

(「当事者意識を持て」)を呼び掛けてもそれほど過っているとは思

えない。「時代は、尾崎のころよりずっとずっと生きづらい。」そ

れにも拘らず、今の若者たちが「服従カルチャー」(儒教文化)に浸

るのは、若者たちの「その先の社会へ」進むというモチベーション

に今の教育が応えているからだと言えるだろうかろうか?否、そも

そも今の若者たちは「その先の社会へ」進むというモチベーション

を抱いているのだろうか?果たして「反抗カルチャー」に促されず

に「その先の社会へ」進む独立心が育まれるのだろうか? 私には、

「若者たちの防御的な成熟」に「その先へ」と進んでゆく可能性な

ど微塵も感じられないのです。私は、新しい時代を生きる若者たち

に、反抗(攻撃)も知らずに「成熟した防御の感覚」など備えてほし

くないのです。何故なら、そんな若者に新しい社会を築くモチベーシ

ョンなど生まれるはずがないと信じるからです。

 


「尾崎豊、再び」②

2012-01-16 03:51:12 | インポート



              「尾崎豊、再び」②


 年の瀬に尾崎豊の遺書が二十年ぶりに月刊誌に公開されて、俄か

に尾崎豊が甦って来たような感があるが、朝日新聞の社説に彼のこ

とを取り上げた人物も、もしかするとそれがきっかけだったのかも

しれない。前にも記したように、私は「尾崎豊」世代ではないので、

彼の歌が流行っている頃も所謂「青春の葛藤」は卒業していたので、

それに彼の歌にも少なからず「ズレ」を感じていたので、心を奪わ

れるということはなかった。

 私が小説を書こうと思ったのは、この国に根付いた差別的な序列

道徳をぶっ壊さなければならないと想ったからで、その根底には未

だに儒教思想が色濃く残っている。だから私は、その小説の中でひ

とりのストリートミュージシャンを主人公にして、その男の反儒教

的思想の拠り所を尾崎豊の歌に求めたことが彼と関わるきっかけに

なった。それと言うのも、尾崎豊亡き後、失われた二十年と謂われ

ながらも閉塞的な社会と真面に向き合ったミュージシャンは終ぞ

誰一人としてその「歌声」を発しなかったからだ。朝日新聞の社説

によると、社会学者、古市憲寿さんの近著「絶望の国の幸福な若者

たち」では、20代の7割が現在の生活に満足している、との調査

結果が紹介されていて過去40年で最高らしい。

 もしも、人間がただ安楽のためだけに生きているのなら何の文句

もない。我々は文明社会が与えてくれる安楽な生活を享受して一生

幸せに暮らせばいいし、何も、「身近な幸せをかみしめる」者に「も

っと怒れ」などと言っても詮ないことである。「いいじゃないの、幸せ

ならば」だ。文明社会の檻の中で生まれ育った者を「自由に生きろ」

と言って野に放しても、すでに我々は空の飛び方を忘れてしまったの

だ。たとえ自由であっても、自然の中で飢えや襲われる恐怖に苛まれ

て生きるよりも、その自由と引き換えに、飢えや恐怖のない檻の中で

管理されて生きることの方が安楽であることは言を俟たない。自立し

て生きることや権力に抗うことは決して安楽な生き方ではないのだか

ら。つまり、我々は家畜化してしまったのだ。しかし、そもそも家畜に

はただ安楽だけが与えられるわけではない。受けた恩は身を以って

報いなければならない。我々が奪われた自由は、我々を縛る者の自

由になることを忘れてはいけない。

 かつて、福沢諭吉は「学問のすゝめ」の中で、「もとこの国の人

民、主客の二様に分かれ、主人たる者は千人の智者にして、よきよ

うに国を支配し、その余の者は悉皆何も知らざる客分なり。」と記

している。主人の持て成しに口を挟むことは客人として「余計なこ

と」として厳に戒められてきたのだ。しかし、我々が客分であるうち

は未だしも主人は持て成しを気遣うこともあるだろうが、やがて、

我々は客扱いされなくなり、主客が主従へと推移してその憤りさえ

失い物言わぬ家畜へと堕落した時、主人は家畜を蔑ろに遇うよう

になるだろう。

 朝日新聞の社説を物した執筆者にしても、自身はマスコミという

一方の権力(檻)の中に居ながら、檻の外で震えている若者たちを高

見から嗾(けしか)けているだけなのだ。そして、それはその社説に

反論する有識者でさえも同じではないのか。彼らの反論は、「若者

よ、当事者意識を持て」と呼び掛ける朝日新聞の社説には直接答え

ていない。彼が抗った過去の学校教育や、彼の音楽的評価を持ち出

しても、何か「ズレ」ている。厳しい時代状況の中で日本の大人た

ちは必死で生きているのだから、若い者は黙ってろというのは、家

畜を管理する者の言葉である。どんな時代であれ自分の意見を言え

る社会でなければならない。憤りは声に出さないと伝わらない。更

に言うなら、新しい時代は「抗い」の中から生まれるのだ。彼らは

まるでこう言っているように思える、つまり、「自由になりたけれ

ば服従しろ」と。

 ところで、私は、安楽に生きるために生まれてきたのなら、寧ろ、

生まれて来なかった方が遥かに安楽だったと思っている。ただ安

楽を求めて生きることは、何か大きな意義を見失った生き方では

ないか。他人が与えてくれる安楽に縋るほど精神は堕落していな

い、とやせ我慢を張っている。

 「尾崎豊、再び」

2012-01-12 01:06:27 | インポート
  


        「尾崎豊、再び」


 私は親父の代からの朝日新聞の読者で、他紙を読んでもそのまま

信じようとしないほどの。ところが、ネットでも読むことが出来る

ようになったのでこの年末に購読を止めてしまった。すると、これ

までの習慣が崩れて、サイトの一覧から気になる記事に直接アクセ

スして、天声人語や社説などと言った報道とは関わりのない記事を

読まなくなってしまった。だから、1月9日の朝日新聞に以下の社

説が載っていたことを今始めて知って驚いた。もちろん、それは私

自身もそれまでに尾崎豊のことを取り上げていたからだ。


アサヒ・コム 

  「成人の日に――尾崎豊を知っているか」

           朝日新聞1月9日社説より

「ああ、またオヤジの「居酒屋若者論」か、などと言わずに、聞い

てほしい。キミが生まれた20年前、ロック歌手・尾崎豊が死んだ。

その時のオヤジより少し下の26歳。雨中の追悼式に、4万人が長

い長い列を作ったものだ。

 新聞には「高校を中退し、自由を求めて外に飛び出した彼の反骨

精神が、僕を常に奮い立たせていた」と投書が載った。

 彼が「卒業」「15の夜」といった曲で歌ったのは、大人や社会

への反発、不信、抵抗。恵まれていないわけじゃないのに、「ここ

ではない、どこか」を探し、ぶつかり、傷つく。

 その心象が、若者の共感を呼んだ。尾崎の歌は高校の教科書にも

採用されたほどだ。ところが最近は、うんざり顔をされることが多

いらしい。

 オヤジと同世代、精神科医の香山リカさんは毎年、大学の授業で

尾崎豊を聴かせ、感想を問うてきた。ここ数年「自己中心的なだけ

じゃないか」「何が不満かわからない」と、批判的な意見が増えて

いるという。

 教室に居並ぶのは、親や世の中に従順な若者たち。キミと同い年

なら、石川遼くん?

 でも、就活の道は険しいし、滑り落ちたら、はい上がるのは難し

い。時代は、尾崎のころよりずっとずっと生きづらい。

 だけどキミたちは「自分にスキルが欠けるから」と、どこまでも

謙虚だ。格差も貧困も「自己責任さ」と、受け入れてしまっている

ようにみえる。

 尾崎豊はどこへ行ったのか。

 あの時の尾崎と同じ26歳、気鋭の社会学者、古市憲寿さんには

「オヤジよ、放っておいて」と言われそうだ。

 近著「絶望の国の幸福な若者たち」では、20代の7割が現在の

生活に満足している、との調査結果を紹介している。過去40年で

最高だ。

 将来の希望が見えないなか、未来を探すより、親しい仲間と「い

ま、ここ」の身近な幸せをかみしめる。そんな価値観が広まってい

るという。

 なるほどね。いくら「若者よもっと怒れ」と言っても、こんな社

会にした大人の責任はどうよ、と問い返されると、オヤジとしても、

なあ……。

 でも、言わせてもらう。

 私たちは最近の社説でも、世界の政治は若者が動かし始めたと説

き、若者よ当事者意識を持てと促した。それだけ社会が危うくなっ

ていると思うからだ。

 だから、くどいけれど、きょうも言う。成人の日ってのは、そん

なもんだ。

 ともあれ、おめでとう。」



 この社説に対する意見も多数発せられているようで、その中から

ニューズウイーク日本版のコラム欄で冷泉彰彦氏の「尾崎豊の再評

価が不要な理由」を少し長いのですが載せます。


Newsweek

 「尾崎豊の再評価が不要な理由」

             2012年01月11日(水)11時16分               

           
            (ニューズウイーク日本版「コラム&ブログ」より)

「アメリカには成人式というものがありません。18才で法的に成人す

る若者に、社会全体で期待をしたり説教をしたりという習慣はないの

です。成人式的なメリハリは宗教が担っているという理由もあります

が、もしかしたら世代ごとに世界観の論争をしたり、反抗と抑圧の抗

争をしたりというカルチャーが弱いからかもしれません。そもそも核

家族イデオロギーが機能する中で親子が比較的仲が良いということ

もあると思います。それがアメリカの強さと弱さを輪郭づけています。

 そんなアメリカとの比較で言えば、日本から聞こえてきた成人式の

日の「今の若者に尾崎豊のような反抗を期待」するという朝日新聞

の社説と、その社説を批判した常見陽平氏の『「成人式はバカと暇

人のもの」若者に「尾崎豊」を強制するのはやめなさい』というアゴラ

の記事を巡る論争は大変に興味深く思えました。


 尾崎豊と言えば、校内暴力の時代の「反抗カルチャー」の象徴とさ

れています。常見氏は別の場所で尾崎のラブソングには一定の評

価を与えていますが、それはそれとして尾崎の多くの歌詞が80年代

後半から90年代にかけての「若者の反抗」というカルチャーを代表し

ているのは事実でしょう。

 日本が最も豊かであったあの時代に、どうして校内暴力の反抗が

起きたのでしょうか? そこには2つの理由があると思います。1つ

は、日本が高度成長から二度の石油ショックを乗り越え、自動車と電

気製品を中心に輸出型ビジネスを大成功させる中、ようやく「豊かな

社会」を実現したという時代背景です。物質の豊かさは精神の豊かさ、

つまりより高度な抽象概念への関心や、より高度な付加価値創造へ

の欲求へと若者を駆り立てたのです。

 ところがそこに、教育カリキュラムとのミスマッチが起こりました。教

育カリキュラムはせいぜいが「前例を疑わない官僚」や「主任教授の

忠実な弟子である研究者」「代々受け継がれてきた職人的な創造者」

などをエリートとして養成しつつ、多くの中間層に関しては定型的な労

働における効率を追求する人材育成のプログラムしかなかったのです。

 つまり、若者の中には無自覚ではあっても「その先の社会へ」と進む

モチベーションが高まっていたのに、教育がそれに応えなかったのです。

やがて、ずいぶん後になってから「ゆとりと総合的学習」などという半端

なコンセプトが提出されましたが、基礎訓練を強化した上で抽象的な概

念のハンドリングへ進むのではなく、基礎訓練の劣化を伴いつつ指導

者の育成もせずに「総合」などというのでは破綻するのは当たり前でした。

 ちなみに、この「ゆとり」に関して言えば、前思春期には基礎を叩きこ

んで、思春期から先に抽象概念にチャレンジさせるという定石も外して

いました。実際はその反対だったのです。前思春期に「おままごと」のよ

うな「総合」をやらせておいて、思春期以降は「受験勉強」に戻って定型

的な訓練と規範への盲従を強いるという、まるで人格を成長「させない」

ようなプログラムになっていた点も厳しく批判されなくてはなりません。

 もう1つ、校内暴力の背景にあったのは教員の質の低下でした。80

年代の世相の中では、「利害相反の中でコミュニケーションの仲介をす

る」という当たり前の社会的行動を「忌避する」タイプが多く教員になって

いったように思います。バブルの拡大を前にして「ビジネス志向」の若者

が企業社会に飛び込む中で、「そうではない」タイプが教壇を目指したの

です。

 拝金主義を嫌って本質的な人格育成を担う志があるのならまだ良か

ったのですが、利害相反の調整行動を「イヤ」だ「辛い」というタイプを教

員にしたのは間違いでした。世代間のカルチャーがどんどん変化する中

で、教員に求められるのも「高度な利害相反の調整能力」であったので

す。そのスキルのない教員には、生徒の「変化への衝動」や「権威への

疑い」に対処できるはずはありません。

 そこで当然の帰結として管理教育が導入されました。管理教育という

のは、強者ゆえに管理に走るのではなく、無能な弱者ゆえに細かな規

則などによる管理でしか学級運営(クラス・マネジメント)ができない、教

育のレベル低下であったのです。原理原則を軸として柔軟な価値判断

や現実的な紛争調整をすることができない無能な教員が、生徒の「変

化や破壊の衝動」を圧殺するという悲劇が繰り返されたのでした。

 尾崎は少なくともこの点は見抜いていました。その意味で歴史的な意

味合いはあると思います。ですが、20年を経た現在、この点で尾崎を

最評価しても何もならないと思います。

 1990年の時点では「高付加価値」や「抽象概念」が扱えない大人に

は、反省はまるでありませんでした。自分たちが日本社会を「先へ進め

る」ことを妨害しているのに気づかず、過去の成功体験や代々受け継い

できた訓練ノウハウを疑うこともしない彼らに対して、当時の若者が激し

い異議申し立てをしたのは当然だと思います。

 ですが、現在は時代状況は違います。今、日本社会が直面しているの

は一種の撤退戦です。国際競争の中で負けた部分を放棄しながら、何

とか生き残るために必死に戦うというのが、現在の「大人」の姿ではない

でしょうか? そこには豊かさの中で変化を圧殺し続けた1990年の時

点での「大人」のような罪深さはないように思うのです。今、必死で生きて

いる日本の「大人」に対して、日本の若者に「反抗せよ」というのは正義

ではないと思うのです。

 勿論、生きるために必死な人間が「下の世代にフレンドリー」だという

保証はありませんし、下の世代からしても「現実の中で必死な姿勢の全

てが尊敬に値する」わけではないと思います。必死である大人は、時とし

て若者の利害も踏みにじろうとするでしょうし、撤退戦に必死な姿をマネ

しているだけでは生き残ることも難しいからです。

 若者は若者で、困難に満たされた社会、危険と隣り合わせの現実社会

の中で、成熟した防御の感覚を備えているのだと思います。現状に満足

かと問われれば、とりあえず「イエス」と答えておくその姿勢の防御的な成

熟には、「その先へ」と進んでゆく可能性も感じられるのです。そうした若者

には「戦略なき反抗」などという破滅志向はないのであり、それはそれで正

しいのだと思います。尾崎の歴史的意義はあるにしても、再評価は不要と

いうのはそういうことです。」



 

「あほリズム」(183)

2012-01-10 06:23:03 | アフォリズム(箴言)ではありません



                 「あほリズム」


                   (183)


 オリンパスが再び信頼を回復させ立ち直るには、一にも二にも不

当な解雇によって放擲したウッドフォード前社長の名誉を挽回させ

地位の回復を図るしかないと思っていたが、いまを糾せないでこれ

からを語ってもいったい誰が信じるだろうか?事によると、彼が気

づいた不正はごく一部でしかなく、その背後には決して表沙汰に出

来ないもっと大きなコンプライアンス違反が隠されていて、その発

覚を懼れた経営陣や主要銀行が隠蔽するために不正に関わった人物

であってもそれをよく知る人物に任せるしかほか無かったのではな

いかと勘繰られても仕方がないではないか。果たして、そんな会社

のこれからをいったい誰が信用するだろうか?

 我々は、中国で起きた列車事故で当局が事故車両を埋めようとし

た行為に驚かされたが、オリンパスが決定した対応はそれと大差な

い。東電による事故調査委員会然り、毎度のことではあるが、この

国では「第三者委員会」という組織は過ちを検証するために置かれ

るのではなく、過ちを隠蔽するために置かれるのだ。