(二十三)
「存在というのは、ぼくは、無からの逸脱だと思ってるんですよ」
バロックの茶化した言葉を無視して画家さんは慎重に言った。囲炉
裏端の一辺を占めていた池本さんは疲れからか或いは退屈からか、
それを放棄して板の間の片隅で「く」の字になって鼾(いびき)をか
いていた。
「ほう、逸脱というのはおもしろいな」
わたしは先輩面をして応えた。画家さんは、
「もっともそれはビッグバーン理論の受売りですけど、それに実際
に『反』物質なんて存在するのかどうかも知りませんが、それでも
物質がビッグバーンの後で『反』物質との結合消滅から逃れて生
まれたとしたら、存在するものは宿命的に無から逃げなければな
らないんじゃないかと思うんです」
「『反』物質か」
「ええ、だから宇宙も無から逃れるために膨張し続けているし、そ
の中で生きている我々もまた変わり続けなければならない」
「変わり続けないと捕まって消滅する?」
「ええ。つまり、無や或いは絶対といった観念からの逃避こそが
存在の意義じゃないかと思うんです」
「それじゃあ君も近代文明が何時までも続くとは思ってないんや」
「ええ、実際、段々つまらなくなってきた」
「うんうん」
「技術革新にしてもまるで砂取ゲームをしてるかのように姑息な開
発競争になってしまった」
「もう砂山は取り尽くされて無いんや。せやから棒を倒さないよう
に地べたの砂まで掻き集めてるんや。実際、資本主義は無限にある
資源を前提に考えてるが、既に資源は枯渇しようとしているにも拘
らず相変わらず資本家たちは空手形を乱発しているんや」
「バロックなんてきっと戦争になると言ってますよ」
「一方で我々はというと、クローゼットにはかつては手に入れるこ
とを熱望し、しかし今では使われなくなった家電や電子機器が堆(
うずたか)く積み上げられて見捨てられてる」
「飽きてしまうのは我々が変ってしまったからですよ」
「例えば、ブリックス4国の経済発展はクローゼットすら持たん安
価な労働者たちによって支えられているやが、それらの国によって
産業を奪われた先進国が衰退し、対してそれらの国の労働者たちの
クローゼットにも使われなくなった製品が堆く積み上げられるよう
になったら、やがて近代社会は、資源を掘り尽くした荒れ果てた大
地と、一方でそれらが製品となって世界中のあらゆる家庭のクロー
ゼットに堆く積み上げられて、遂には需給が滞って、その限界が訪
れた時に近代文明は終焉を迎えるんやないかな」
「そのまえに環境破壊によって終焉するんじゃないですか?」
「いや、わたしはどうもそんな理性が働くとは思えなくなってきた」
「そうですか?」
「我々は便利な生活に慣れてしまって、安楽な暮らしを棄てること
など出来なくなったんやないかな」
「たとえ生存環境が脅かされても?」
「ああ、たとえ国中が核の放射能汚染に見舞われても、それでも我
々は安楽な暮らしをもたらす経済成長を望むに違いない。そしてこ
う言うんや、『安楽に生きるためなら死んだって構わない』って」
「くっくっ、それって笑い話ですよね」
「わたしだってよもや人間がそんな愚かやとは思ってへんけど」
すでにバロックも酔い潰れて囲炉裏端から退散し、池本さんの横
で「く」の字を並べたようにして寝ていた。
「あのー、ゆーさんって呼んでもいいですか?」
「ああ、かめへん、かめへん!あんたはアートって呼ばれてんのか
?」
「あっ、それだけはやめて下さい。それならまだ『ガカ』の方がい
いです、カタカナで」
「なるほど、カタカナでな」
「ええ、カタカナで。ところで、ゆーさん、こう言ったら何ですけ
ど、今の説明で近代が終わるということにもうひとつ説得力がない
と思うんですけど」
「しやから言うてるやろ、ほら、我々の認識はことが起こってから
でないと語れないって」
「ま、そうですけど」
「つまり、人の行いは結果からその原因を見つけ出すことはできて
も、逆に原因が必ずしもその結果を生むとは言えんのや」
「ええ」
「例えば、ある男が強い恨みからある人を殺そうと固い決意をした
とする。ところが、その決意こそが恨みを慰さめて躊躇わせること
だってあるんや。また反対に、生きることの絶望から全く関わりの
ない人を然したる動機もなく巻き添えに殺めてしまう者だっている
やないか」
「わかりますよ、でも近代文明が終わってしまうという限りは振り
返った時にこれが原因だったのかと思えるようなものがいま無いと
おかしいですよね」
「それはある!」
「いったい何ですか、それは?」
「我々の誤った認識や」
「我々の認識の何が誤っているんですか?」
「豊かさを享受するために、経済合理性だけしか見ようとしない人
間の驕慢な享楽主義こそが、自然循環性のない欠陥だらけの近代文
明の誤りを見て見ぬ振りをさせているんや。実際、もうすでに到る
所で終焉をもたらす予兆というか原因が現れてるやないか!ただ、
見ようとしないだけや」
わたしは興奮して声を荒げた。すると、隅で寝ていたバロックが、
「なあ、戦争にでもなれば少しは変わるんとちゃうの?」
そう言った。やおら起き上がったバロックは再び自分の席に戻っ
て来て、ピッチャーの水をグラスに入れて一気に飲んだ。そして、
「おれはそんなハッキリした原因なんて後から振り返っても絶対見
つからんと思うで。まして近代が終わるとかいう場合は。たとえば、
第二次世界大戦は何が原因で始まったかなんて簡単には言えんやろ」
すると「ガカ」が、
「まあ、そうかもしないけど」
バロックは続けた、
「それよりも、つまらなくなったてあんたがさっき言うたけども、
そういう気分の方が大きいんとちゃうかな」
わたしはそれを聞いて、
「そう言えば、確か司馬遼太郎はあの戦争をもたらした日本の帝国
主義は日露戦争の講和条約の後から始まったって書いてたな」
「勝ったんですよね?日本」
「それが良うなかった」
「勝ったことが?」
「世界中の誰もが負けると思ってた。なんせ相手は文明国ロシア帝
国なんやから」
「ええ」
「日本言うたらつい昨日まで鎖国をして近代文明に乗り遅れチョン
マゲをした未開国やで」
「誰も勝てるとは思いませんよね」
「それが勝ってしもた。せやから世界中が驚いて、日本人も一等国
の仲間入りを果たせたと大喜びしたんや」
「奇跡ですね」
「奇跡かもしれんが、それがこの国を見失わせる大きな原因になっ
たと司馬遼太郎は言っている」
「ふん」
「ただ、勝ったといっても実はもう限界でもうそれ以上は戦えなか
った。相手のロシアはさほど敗北感がなかったから締結を拒んだほ
どや。せやから日本は賠償金も獲れずに締結するしかなかった」
「ポーツマス条約ですよね」
「期待外れに終わった国民は日比谷公園に集まって耐えてきた不満
を爆発させ暴動が各地に拡がった」
「日比谷焼打ち事件ですね」
「それから、それまで冷静に判断していた政治家でさえ怪しい力に
縋ろうとした。だから、もしかしたらそういう社会の気分みたいなもん
が時代を変えていく大きな原因なのかもしれんな」
それまで黙っていたバロックが口を開いた。
「なあ、ゆーさん、それって今の日本と似てると思えへん?」
「そう言われてみれば、奇跡的な経済成長を果たした後にバブル経
済が崩壊して、確かに喪失感に苛まれた国民の不満は高まってる」
すると「ガカ」が、
「まさかバロックの言うように日本が戦争するとは思えないんだけ
ど」
それにバロックが応えて、
「あほっ、戦争は日本だけでするんとちゃう」
「中国?」
「さあ、それは解らん」
「ガカ」はそれ以上は問わなかった。そして、
「気分か・・・」
そうつぶやいて上体を後ろに倒して板の間に仰向けになった。そし
て、
「それでも今は近代文明を終らせようという気分なんて何処にも見
当たらないんだけど」
と話を変えた。わたしは、
「そらそうや、わたしかって何も文明を棄てて自然に帰れなんて言
うつもりはない」
「じゃあ、近代を終った後にはどんな世界があるというのですか?」
「それなんや、画家ーっ!それが大事なんや!」
「あれっ?今、ゆーさん、漢字で呼ばなかった?」
封を切った一升瓶はすでに空だった。ご亭主がそれを見てもう一
本用意するかと聞きにきたので、わたしは誰にも訊かずにお願いし
ますと答え、そして話を続けた。
「まず、近代文明は欠陥文明であることを認識せなあかん」
仰向けになって聞いていたガカは、上体を起こして傍らにある空瓶
を取って囲炉裏越しにご亭主に渡しながら、
「何が欠陥なんですか?」
と言いながら再び胡坐に戻った。わたしは、
「つまり、人間が生産する製品は、製品そのものもまた製造する過
程でも大量のゴミを生むんや」
「ええ」
「わたしの言うゴミとは自然にとってのゴミということやけど」
「違うんですか?」
「たとえば、我々の体内から排出されるものはゴミとは違う」
「自然だから」
「しかし、人間の手を経ずには生まれなかった素材やモノは再び分
解されて自然循環に回帰するまでには果てしない時間が要るんや」
「それでも元はと言えば自然に在ったものですよね」
「あっ、ここで言う自然とは人間を含めた生態系を維持させるため
の狭い自然環境のことやけど、たとえば、放射能だとかは自然に存
在するけど、わたしの言う自然環境とは全く違う。ましてや人間に
よってもたらされる放射能汚染など論外や」
「生態系の自然ですね」
「そう。ただ、ゴミと簡単に言うけど主体が変わるとゴミだって宝
になるんやから」
「原発とか」
「まあそういうことやけど、自然にとってゴミを作り出すのは人間
なんやけど、近代になって大量生産できる技術が生まれ爆発的に増
大した」
「そうですね」
「その結果、自然にとってのゴミとは生態系を破壊する自然循環さ
れない膨大な量の物質のことだと言うてもかまわん」
「たとえば温室効果ガスだとか」
「知ってるやん」
「もちろんそんなことはよく解ってますよ。それじゃあ、どうすれ
ばその欠陥を補うことが出来るのですか?」
「簡単や。ゴミを出さんようにすることや」
「ゲッ!そんな」
「しかし実際はそうなんや。ゴミは拾い集めてそれから捨てんよう
にするしかないんや」
「それで新しい時代が開けますか?」
「そのためにはまず第一に我々の価値観を転換させなあかん」
「どう?」
「狭い経済合理主義だけを重視した社会を改めて、地球の中でしか
生存できない『地球』人としての現実を認識した『自然合理主義』
というか『地球合理主義』というか、もっと広い視野を持った自然
サイクルに則した生き方が求められているんとちゃうやろか」
「それじゃあ、自然に帰れと言ってることになるじゃないですか」
「確かにもっと便利な社会を創ろうなどとは言ってないけど、もっ
と豊かな社会にすることはできる」
「そうかなあ」
「わたしは何も近代文明の総てを否定しているわけでもないし、そ
のためには近代文明の欠陥を改善して積極的に利用すべきだと思う。
ただ、汚染された地球に一体どんな明るい未来があるというんや」
「要するに経済合理主義を改めるべきだと言ってるんでしょ」
「そう、経済性だけのために安易に棄てることが後々になって大き
な代償を支払わされることになる。我々の合理性は自然にとって決
して合理的とは言えんからな」
「でも、そんなこと出来る?」
「地球が狭くなったんやから、もう一個地球を造れない限り、そう
する他はないやろ」
「ぼくはもう後戻りなんて出来ないと思うけどな」
すると、
「おれも後戻りなんか出来(でけ)へんと思う」
バロックはそれまで黙って聞いていたが、ご亭主から一升瓶を受け
取って封を開けながらそう言った。そして、わたしの方へその瓶を
傾けてグラスで受けるように促した。グラスは零れんばかりの酒で
満たされ、口まで運ぶことができずにわたしは仕方なく口を近づけ
てそれを啜った。次に、ガカも同じ目に遭っていたが、バロックの
隣りに居ることが幸いして途中で瓶の口を掴んで強引に上に向けて
事無きを得た。荒っぽい気遣いを為し終えたバロックは自分のグラ
スには自ら手酌で注いで一気に呷った。彼はもう相当酔っていた。
「さっき、ゆーさんは司馬遼太郎の話をしたやろ。歴史は繰り返す
言うけど、この平成デモクラシーの時代はいやに大正デモクラシー
とシンクロしてると思えへん?」
「なるほど、平成デモクラシーね」
「民主主義が野放しにされ何もかも政治家の責任にして、首相を取
っ換えることで主権を行使し、せやから政治家はポピュリズムに傾
き、官僚たちは思惑通り政治家を操ってる。つまり、この国の誰も
がこの国の未来のビジョンを持ってないんや」
「それじゃあ、次は世界恐慌かな」
「実際、東アジアは緊張を高めてるんで、失業者対策だと言って自
衛官を増やすことなんか訳ない」
「実は、わたしの言う近代文明の終焉とは取りも直さずアメリカ自
由主義経済の破綻なんや。彼らの際限のない消費が負債をもたらし、
負債が足枷になって景気が悪化し、景気を良くするために金をばら
撒き、その結果、負債が膨らむ。つまり、我々が経験した失われた
二十年のアメリカ版をやってんのや。ただ、世界におけるアメリカ
のプレゼンスが弱まると世界から警察官が居なくなって一触即発の
危険性は高まるやろな」
「それでもアメリカは警官を退職しても自給することができるんや
ろ」
「ああ、グローバル経済を主張してきた当のアメリカが再びモンロ
ー主義に戻るかもしれん」
「そうなると日本はどうなるの?」
「輸出国を失った日本はアメリカの没落よりもずーっと早く破綻す
るやろな。そして次の輸出国中国の言いなりにならざるを得ん」
「それじゃあ、東アジアの覇権は中国のもんかいな」
「おそらく」
「それでも、ゆーさん、まだアメリカのプレゼンスには自由と民主
主義という大義名分があったけど、しかし、中国の覇権主義にはい
ったいどんな大義名分があるの?」
「何の!アメリカの対テロ戦争の大義名分なんて一般市民への空爆
で元も子もなくなってしもたやないか。それが泥沼化するきっかけ
になってアメリカの没落が始まったんや」
「じゃあ、大義名分なんていらない?」
「ああ、そんなものは何でもええんや。アメリカが撤退した後、中
国が武力を背景に軍事同盟を求めてきたら拒否できるか。かつて日
本がやったように」
「じゃ、やっぱり軍備増強しかないんや」
「ただ、その前に台湾があるわな」
「そうか。台湾が併合された時は次は日本か」
「いや、その前に中国自身が抱える国内問題があるよ」
「おお、日本は中国の民主化運動を積極的に支援すればええんか」
再び仰向けになっていたガカが口を挟んだ。
「もしかしたらその頃には、今の時代を平成ロマンなんて懐かしん
でいるのかもしれないね」
わたしは元嫁から託された任務のことなんかすっかり忘れて、バロ
ックとガカと日本の行く末を按じながら酒を酌み交わした。
(つづく)