(三)
「ハッブルって知ってるやろ、エドウィン・ハッブル」
「天文学者の?」
「そう。おれ、この頃、ハッブルのようにただ星を眺めていたいと思
うようになって」
「何や、このツリーハウスは天文台なんか」
「そうです」
エドウィン・ハッブルは、学生の頃は専ら運動能力の優れたスポ
ーツマンとして知られ、大学ではプロ顔負けのボクサーとして活躍
しながら数学と天文学の学部を卒業したが、戦争が始まるとすぐに
入隊して少佐にまでなり、終戦を迎えると再び天文学の研究に戻っ
て博士号を取得し、天文台の職員として高地の天文台に赴いて酷寒
の中で毎夜欠かさず天体を観測し続けて宇宙の謎を解き明かした。
その功績が認められてノーベル賞が授与される筈だったが、その直
前に死去してしまい、「墓碑を記すな」という彼の希望通りに、遺
族は葬式も行わず埋葬し、さらにその場所を問われても頑なに拒ん
だ為、未だハッブルの墓は明らかになっていないという。如何にも
宇宙物理学者らしい死に方ではないか。
「ハッブルは帷(とばり)に空いた無数の小さい穴を凝視し続けて世
界の裏側を覗こうとしたんや、きっと。たった一つの星を見続ける
だけでも様々な想像が浮かんで来るんやないかな」
「確かに太古の人は星の光を帷の穴から差し込む別世界の光と思っ
たかもしれんな。実際、ワシらは余りにも多くの星を追い求め過ぎ
て、結局は何一つ手に入れることが出来なくなったんだよね」
「何でアメリカの映画界はハッブルの生涯を映画化しないんやろ?」
バロックは、彼の波乱に富んだ人生はアメリカンドリームそのもの
だと言った。
「まず、冒頭は装置の故障で帰還させることになったハッブル望遠
鏡が地球の映像を3D映像でズームして、その地上ではハッブルの
墓が確認されたという架空の事実を下にハッブルの生涯を再現する
んや。やがて成長して陸上選手として活躍する学生時代の彼やボク
サーとして闘う決闘シーン、そして入隊した軍隊での戦争シーン、
復学して天文台の職員として酷寒の中で宇宙の彼方の星座を望遠鏡
で眺めるハッブル。やがて、宇宙物理学が注目されはじめ、彼は集
めたデータから宇宙の膨張を確信しアインシュタインと議論する場
面、そして、ノーベル賞授与の内定を受けた直後の死。どれも映像
として、或はドラマとしても優れてアメリカンシネマとして成り立
つと思うんやけどな」
「なるほど『アラビアのローレンス』に比して劣らぬ映画が創れる
かもしれんな」
ハッブルの生涯を映画化した作品は未だない。
蔓(つる)だけで繋がれた竹梯子を登って、二つの踊り場を越えて、
いよいよ「スカイツリーハウス」へと辿り着いた。
「すごいっ!」
「スカイツリーハウス」の中は六畳ほどの広さだったが、その見晴
らしの良さに感嘆せずにいられなかった。
「ほら、あそこにゆーさんらが前に居た町も見えるやろ」
「町どころか住んでた家も見えるわ」
俯瞰して自分達の暮らしをもう一度見つめ直すことはそれ程無駄な
ことではないかもしれない。家族三人で大阪から引っ越して来た当
時のことが思い出された。
竹で作られた「スカイツリーハウス」の屋根は切り落とした竹の
笹で葺かれていた。竹で作られた家は釘が効かないので随分苦労し
たらしい。結局、山に生えてるカズラの蔓(つる)で繋ぎ合わされて
いた。
「ゆーさん、おれ、実は、閃(ひらめ)いたんや」
「何を?」
「この葛(カズラ)を都市緑化に利用でけへんかなって」
「どうやって?」
「ビルの壁面に這わせるねん」
「そんなに伸びる?」
「信じられんくらいに伸びよる」
バロックが言うには、カズラは夏になると爆発的に繁茂して樹とい
う樹、枝という枝に絡まり付いて宿木を枯らすほどに葉を茂らせる。
そのカズラをヒートアイランド現象を鎮める都市緑化に利用しない
手はない。
「そのうち都市という都市をカズラで蔽(おお)い尽くしてやるんや」
「それ面白いかもしれんな」
娘のミコが随分遅れて登って来た。
「何やっ!登るんやったらさっき降りんかったらよかった、もうっ!」
そう言って竹を敷き詰めた床に身体を腹這いにして投げ出した。
「練習中やろ」
「せやかて、」
「練習というのは同じことを何度も繰り返すことなんや」
「解かりました、上官!」
「おい、あそこに母さんの家(うち)が見えるで」
「知ってる」
「何や知ってんのか」
「ズーッと見てたもん」
「ズーッとって、もしかしておまえ帰りたいんか?」
「何言うてんの!」
彼女の母親は月に一度は訪れて娘の様子を伺った。化学物質に対す
る彼女の身体の過敏な反応は中山間地の生活でさえ、否、むしろ農
薬が何時散布されるか解からない田園に囲まれた市街地の方が、密
室に籠もって生活できる大都市よりも大きな不安に苛(さいな)まれ
た。
「わたしはもう一生ここから出られへんのや」
「あほ言うなっ!」
そんな会話を私たち親子は何度繰り返しただろうか。初めの頃は涙
に咽びながら叫んでいた彼女も、今では何の感情も表さずにまるで
常套句を述べるように口にするようになった。それが親として辛か
った。
「体質は変わるって先生も言うてたやないか」
「解かってるって」
「ほらっ、高いとこがダメやったけど、見てみ、おまえ、えらい高
いとこに居るやないか」
「うん」
「ええかっ、諦めるな!絶対に諦めるな!」
事実、成長期の彼女の身体は以前に比べて見違えるほど逞しくなっ
ていた。
「回りを見ずに自分の足下だけを見て一歩ずつやね」
「何や、それ?」
すると、バロックが口を挟んだ。
「あっ、おれが教えました。ほら、登る時にミコが怖いって言うか
ら、回りを見るなって」
バロックが続けた、
「お腹すいたからご飯にせえへん?」
そう言って、わたしが背負ってきたバックから缶ビールやミコが作
った弁当を広げた。わたしとバロックは久々にビールで、ミコは水
筒に入ったお気に入りの湧き水を自作の陶器のコップを掲げて、
わたしが、
「スカイツリーハウスの完成を祝って・・・」
と言うと、バロックが口を挟んだ。
「スカイツリーハウス?」
「そう!ここを『スカイツリーハウス』と呼ぶことに決めたんや」
「別にええけど」
「それじゃあ、もう一度。スカイツリーハウスの完成を祝って、」
「乾杯!」
山頂を撫でる初夏の風が若葉に癒されてやさしく吹き抜け、心地
よかった。
(つづく)