「順逆不二の論理 ―― 北一輝」
高橋和巳(著)
(2) 『国家改造案原理大綱』
高橋和巳が「まえがき」で指摘していたように、北一輝は、もちろん彼
の才能を乞われてのことだが、国内の「均しからざるを患う」前に、中国
で起こった革命「武昌起義」のすぐ後で中国革命同盟会に招かれて「革命
顧問としての北の活躍がはじまる。」彼の革命家としての活躍はここでは
割愛するが、やがて、北一輝は「中国革命からは疎外され、革命は彼のき
らう孫文派が中核となり、彼はもはや中国革命の見透しを失っていた。」
皮肉なことに彼が孫文を嫌った理由の、内乱を治めるに他国の力に頼らな
いという主張が、ここではその孫文によって外国人である北一輝に向けら
れた。彼は、已む無くその地での経験を生かして日本の改革を構想する。
「1919年(大正八年)、ほとんど『国家改造案原理大綱』の執筆を終わ
ろうとする上海の北一輝のもとへ、大川周明が迎えに来た。中国より、日
本のほうがあぶないからと。」その頃の日本の状況は、「第一次世界大戦
後急速に発達した資本主義と台頭する労働運動が激突し、言論界はそれを
反映しつつ吉野作造の指導される大正デモクラシーと反動との戦いがたた
かわされていた。シベリア出兵の失敗とワシントン会議による軍部の威信
失墜は、軍隊内に革新運動をうながし、農村は疲弊して、貧農はその娘を
妓娼に売って飢えを凌いだ。前年18年、悪徳商人の買占めと投機、財閥
資本家の買占めと輸出によって米価は高騰し、ついで富山県の一漁村の主
婦たちの『米よこせ』の蜂起をきっかけに八月から三か月にわたる大規模
な暴動が起こっている。」
彼の著わした『国家改造案原理大綱』は固より国家体制の転換を迫るも
のだ。その要旨は、「天皇大権により三年間憲法を停止し、戒厳令施行中
に、国家改造内閣をおき、二十五歳以上の男子の平等普通選挙による国家
改造議会によって革命政治を協議施行しようとするものである。」そのほ
か現政権下で施行されている様々な法律の廃止や要職官吏の罷免など、要
するに現政府機能を停止させてすべての権力を一時的に天皇に預け国家の
大改造を行う。「国家改造内閣および議会がなすべき改造の大綱は以下の
ようである。私有財産を三百万円、私有土地も同様、一家時価三万円分に
限定し、一切の超過分はそれを国有化する。」等々。もうこれは社会主義
国家そのものである。そして、彼はこう言う、「戦ナキ平和ハ天国ノ道ニ
非ズ」と。
その後、1923年9月1日には関東大震災が起こり戒厳令が敷かれ大
正デモクラシーの灯は消え世情は一気に不穏な空気に覆われた。私は、東
日本大震災が起こった時、再び歴史は繰り返すのではないかと怖れたが、
その歴史とは、度重なる経済恐慌の後、1929年には世界恐慌が起こり
人々の暮らしはさらに追い詰められた。そして、31年に満州事変が起き、
相次ぐ軍部によるクーデターが企てられ、1932年2月9日、前蔵相、
井上準之助が暗殺され、3月5日三井合名理事・団琢磨が暗殺される。続
いて5月15日、犬養首相が暗殺された。(五・一五事件) そして、33年
には凶作に苦しむ東北地方を昭和三陸地震が襲い津波で多くの人が被害に
遭った。暗澹たる世相に「北は、国家改造の機運を感じつつ」行動に向け
て動こうとしていた。しかし、「軍隊内では、いわゆる皇道派と統制派の
暗闘がしだいに激しさを加えつつあった。いわゆる皇道派青年将校は、ほ
ぼ北の思想的影響下にあった。」そんな対立から皇道派のクーデター計画
が統制派によって密告され(士官学校事件)、その責任から皇道派の真崎教
育総監が更迭、それを憤った相沢三郎中佐は統制派の永田鉄山軍務局長を
刺殺した。
すると、「統制派は、皇道派の勢力を一掃するために、その根城である第
一師団を満州に派遣しようとした。満州に派遣されてしまっては、すべて
の計画は無に帰する。」2月26日、降り積もる新雪を血気に逸る青年将
校たちの軍靴が踏締めたが、頼るべき肝心の天皇は彼らの蹶起趣意書を言
下に斥けられ、世の中の「均しからざるを患いて」立ち上がった「正義軍」
は「賊軍」と看做された。
革命家・北一輝は、恐らく覚悟を決めていただろう。2月28日憲兵隊
に拉致され、裁判で死刑が宣告され、1937年8月19日執行された。
54歳だった。
私は、今の混迷の時代がその頃と重なって見えて仕方がない。もちろん、
国家の在り方も違うし同一に語ることの誤まりは分っているが、その時代
背景が奇妙に一致しているように思えてならない。隣国との領土を巡る軋
轢や世界恐慌が取り沙汰される世界経済、更には、長引く不況から抜け出
せない閉塞感に追い打ちをかけるように襲う大震災、にもかかわらず民意
を蔑ろにした官僚政治と猫の眼のように入れ替わるトップリーダーたち。
ただ、その時代と異なっているのは新しい社会を描くことのできる傑出し
た人物が現れないことだと言えば、やはり危険すぎるのかもしれない。た
だ、「寡なきを患えず」とも「均しからざるを患う」社会であらねばなら
ない。
(おわり)