「技術と芸術」
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随分と寄り道をしましたが、では「芸術とは何か?」と問われれば、
それは「精神」だと言えるでしょう。そして「精神とは何か?」と言
えば、理性では解き明かすことのできない「イデア」であり、「神」
であり、「物自体」であり、「意志」であり、そして「力への意志」
ではないかと思います。つまり、「技術」が排除したものが「精神」
ではないかと思います。
さて、これからの情報社会はますますAI技術が進化して「精神」
などという前時代的なものは顰蹙を買う時代がくるのかもしれません
が、しかし、生成の世界は理性によって創られたのではありません。
つまり、合理性がすべての近代社会で、唯一不合理な存在が人間であ
り、生成の世界です。我々の理性は様々な科学技術を「人間のために」
考案しますが、その人間こそが非科学的な存在なのです。
ところで、我々は古くから肉体はいずれ滅ぶが精神だけは永遠に生
き続けるという二元論を信じてきましたが、科学技術はいずれ滅ぶ肉
体に貢献しても永遠に生き続ける精神には何の関与もできません。い
や、そもそも科学技術によって何もかもが思い通りになるなら精神な
どという如何わしいものは存在する必然性がないのかもしれませんが、
我々は科学の進歩によって精神を退化させてしまった。しかし、果た
して我々は「真の世界」を失っても憂いなくこの仮象の世界世から消
え去ることができるだろうか?
生成の世界とは変遷流転する世界であり、たとえば、これは前にも
記しましたが、道端に転がっている石でさえも、それを構成する最少
物質の素粒子は粒子としての性格だけでなく波動の性格も併せ持ち、
仮に「意志」とは運動から芽生えるとすれば、運動能力のない存在
に自由意志が芽生える必然性がないので、もちろん時間のタームは大
きく異なるが、道端の石でさえも変化する「意志」を持ち得る。さら
に宇宙に目をやれば、天体に輝く星々はあたかも生命体のように数億
年単位で成長と衰退の周期を辿ることが分っている。つまり、この世
界は変遷流転する生成の世界であり、それはニーチェの言う「力への
意志」にほかならない。そして「力への意志」とは何かと問えば、根
源的「情動」であると答えている。そして、意志は《情緒》である、
意志は《情熱》である、意志は《感情》である、意志は《命令》であ
る、とも述べている。即ち、それらから派生するのは「精神」であり、
「力への意志」とは「精神」にほかならない。
(つづく)