「スマートグリッド」

2011-03-30 05:10:25 | 「パラダイムシフト」



          「スマートグリッド」




K-帯からですので読み辛いかもしれません。


 福島第一原発の事故は、もちろん、そのこと自体大きな出来事だ

が、同時に、政府と経済界が推し進めていた、エネルギー政策と環

境問題の二兎を追った「スマートグリット」構想が破綻したことを忘れ

てはならない。実は、原発はCO2を排出しない環境に優しいエネル

ギーとして、これまで環境問題を克服する切り札としてその根幹に据

えられていた。つまり、ガソリン車を電気自動車へ転換させるために

は欠かせない電力供給源と見做されていたのだ。しかし、今回の大

事故は、その「スマートグリッド」構想を破綻させ、我が国の環境政策

をも崩壊させ、さらには、電気自動車の普及によって、再び経済を回

復させようと願っていた経済界の目論みも頓挫してしまった。おそらく、

電気自動車社会への転換は電気供給が追いつかずに進まないだろう。

 
 さすがK-帯じゃ辛いわいっ!


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 「あほリズム」 (132)

2011-03-28 04:08:45 | アフォリズム(箴言)ではありません
         「あほリズム」



           (132)


 (或るコメントに答えて)

 私はアイデンティティーを「社会的自己」として捉えることに違

和感を覚えます。それでは自己を何に依って認識するかといえばや

はり自分しかない。自己には本能と理性があって、我々が生きよう

とするのは本能で、他者と関わってそれを援けるのが理性です。そ

もそも本能は生きる「意味」や愛する「意味」など求めないが、理

性が先行するとその意味を本能に求める。端から存在しないものを

求められても本能は答えようがない。このようにして理性に自己を

委ねてしまえば、我々は生きる意味や愛する意味を見失ってしまう。

否、そもそも本能には意味など存在しない。理性的に生きるという

ことは自分を別の視点から眺めて生きることになる。つまり自分と

いう他者を生きることになる。理性に自己を委ねるということは、

自分を活かせることができても自分を生きることにはならない。歓

びや哀しみといった感情は本能にあるからです。私は、もう一度本

能に回帰して理性にとっては無意味かもしれない人生を、それでも

本能にとっては楽しい人生を取り戻すべきではないかと思っています。              

                               ケケロ脱走兵



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「捨てえぬ心地」(4)

2011-03-28 02:08:21 | 「パラダイムシフト」
   


       「捨てえぬ心地」


          (4)


 現代は、ルソーが生きていた頃よりも文明社会が遥かに発達して、

我々は更に感情を封じて理性に頼って生きなければならなくなった。

近代社会というのは理性によって構築された共同体で、理性は、主

観的自己とは異なったもうひとつの自己、社会的自己を育む。社会

的自己は当然社会とのかかわりの中から生まれ、社会がなければ存

在し得ない。その社会的自己が求める幸福とは社会が評価する「相

対的な幸福」である。従って、社会的自己は社会が発展することを

望み、成長が滞ると忽ちその幸福は価値を失う。例えば資産や地位

の類である。一方、未開人たちは本能から生まれた主観的自己に従

って生きている。主観的自己は、仮に社会がなくても存在し得る。

主観的自己が求める幸福は直接感情に届く「絶対的な幸福」である。

たとえ経済成長が滞ったとしても主観的自己にとってその価値はほ

とんど変わらない。例えば自然環境や芸術文化の類である。

我々は、もちろん、本能と理性を持ち合わせるように、主観的自己

と社会的自己を持ち合わせているが、一方は内へ向かい他方は

外へ向かい、方向性が異なるので同時には体現できない。さらに、

社会的自己にとって主観的自己が求める幸福は発展性のない自

己撞着に映り、他方、主観的自己にとって社会的自己が求める幸

福は自分自身を見失った虚栄に映る。しかし、ふたつは糾(あざな)

える縄の如く自己を形成している。ただ、一方に止まって他方を望

むことはない。 ところが、もしも「近代文明の終焉」を迎えようとし

ているなら、いずれ、経済の停滞によって社会的価値が暴落し、

社会的自己が求める幸福は充たされなくなる。すると、人々は社会

的自己を捨て、主観的自己へ還ろうとする。しかし、社会的自己は

主観的自己が求める幸福を理解できない。我々が近代社会を棄て

ることが出来ず尚も閉塞した社会に止まろうとするのは、社会的自

己を主観的自己に転換できないからだ。しかし、先にルソーの文章

を引用したように、例え、ただ独りで森の中でその一生をすごすこと

になったとしても、自らの主観に従って生きることはそれほど不幸な

ことではない。実際、ルソーという人はその思想や宗教批判がもとで、

自らも社会から迫害を受け孤独のうちに死んだ。しかし、彼が残した

「孤独な散歩者の夢想」を読むと、そのみずみずしい自然描写は孤

独を忌む者が残した文章とは到底思えない。彼は非道い迫害を受

けても決して自分自身を見失なかった。

 そして、

「世の中を捨てて捨てえぬ心地して都離れぬわが身なりけり」

と、詠んだ西行が死ぬまで「捨てえ」なかったのは、自らの社会的

自己だったのかもしれない。


                                (おわり)   

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「捨てえぬ心地」(3)

2011-03-26 02:29:13 | 「パラダイムシフト」
           「捨てえぬ心地」


              (3)



 ホッテントットの話もさることながら、ヨーロッパ文明の中で育

った人々が未開人たちの生活に魅了され、「非常に奇妙な生活様式

をもはや棄てることができなくなって、そこでその全生涯をすごし

たというような記事をわれわれは無数の箇所で読んだり、分別に富

んだ宣教師たちさえ、それほどに軽蔑されているそれらの民族のも

とで過ごした平和で無垢な月日を感動をもってなつかしがっている

のが見かけられたりするではないか。」というのには驚かされる。

もしかすると、文明社会というものはそれほど人を幸福にするもの

ではないのかもしれない。文明のあるなしに拘わらず、人は人と係

わり合って幸福を見出す。近代的な高層マンションの一室でさえも

絶望は忍び寄る。ところが、ただひとりで森の中でひとりで暮らし

ても快楽に適った一生を送ることもできるのだ。それは、「幸福の

評価は理性よりもむしろ感情にかかわる」からだ。果たして、我々

は感情を諌める理性に幸福の評価をかかわらせていないだろうか?

経済成長しなければ本当に幸福になれないのだろうか?ルソーは、

我々文明人の関心はただ二つのこと、「すなわち、自分のためには

生活の安楽と、他人の間では尊重されることにむけられている」と

未開人たちは容易く見抜くが、我々の理性は彼等が幼稚ともいえる

快楽に浸る精神状態を理解出来ないと言う。彼等は何もなくてもた

だ生きているだけで幸福を「感ずる」が、我々は幸福を手に入れる

ためなら不幸も厭わずに「図ら」なければならない。つまり、我々

は感情を封じて、自身の安楽と世間体のために幸福を追い求めてい

るのだ。


                                 (つづく)

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