「捨てえぬ心地」
(4)
現代は、ルソーが生きていた頃よりも文明社会が遥かに発達して、
我々は更に感情を封じて理性に頼って生きなければならなくなった。
近代社会というのは理性によって構築された共同体で、理性は、主
観的自己とは異なったもうひとつの自己、社会的自己を育む。社会
的自己は当然社会とのかかわりの中から生まれ、社会がなければ存
在し得ない。その社会的自己が求める幸福とは社会が評価する「相
対的な幸福」である。従って、社会的自己は社会が発展することを
望み、成長が滞ると忽ちその幸福は価値を失う。例えば資産や地位
の類である。一方、未開人たちは本能から生まれた主観的自己に従
って生きている。主観的自己は、仮に社会がなくても存在し得る。
主観的自己が求める幸福は直接感情に届く「絶対的な幸福」である。
たとえ経済成長が滞ったとしても主観的自己にとってその価値はほ
とんど変わらない。例えば自然環境や芸術文化の類である。
我々は、もちろん、本能と理性を持ち合わせるように、主観的自己
と社会的自己を持ち合わせているが、一方は内へ向かい他方は
外へ向かい、方向性が異なるので同時には体現できない。さらに、
社会的自己にとって主観的自己が求める幸福は発展性のない自
己撞着に映り、他方、主観的自己にとって社会的自己が求める幸
福は自分自身を見失った虚栄に映る。しかし、ふたつは糾(あざな)
える縄の如く自己を形成している。ただ、一方に止まって他方を望
むことはない。 ところが、もしも「近代文明の終焉」を迎えようとし
ているなら、いずれ、経済の停滞によって社会的価値が暴落し、
社会的自己が求める幸福は充たされなくなる。すると、人々は社会
的自己を捨て、主観的自己へ還ろうとする。しかし、社会的自己は
主観的自己が求める幸福を理解できない。我々が近代社会を棄て
ることが出来ず尚も閉塞した社会に止まろうとするのは、社会的自
己を主観的自己に転換できないからだ。しかし、先にルソーの文章
を引用したように、例え、ただ独りで森の中でその一生をすごすこと
になったとしても、自らの主観に従って生きることはそれほど不幸な
ことではない。実際、ルソーという人はその思想や宗教批判がもとで、
自らも社会から迫害を受け孤独のうちに死んだ。しかし、彼が残した
「孤独な散歩者の夢想」を読むと、そのみずみずしい自然描写は孤
独を忌む者が残した文章とは到底思えない。彼は非道い迫害を受
けても決して自分自身を見失なかった。
そして、
「世の中を捨てて捨てえぬ心地して都離れぬわが身なりけり」
と、詠んだ西行が死ぬまで「捨てえ」なかったのは、自らの社会的
自己だったのかもしれない。
(おわり)
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