「あほリズム」
(676)
貧乏人にみやびなし、故に貧乏人に天皇なし。
あしひきの山にしをればみやびなみ我がする業をとがめたまうな
大伴坂上郎女〈万・七二一〉
現代訳(山の中に居るんやから風流(みやび)なんか言うてられんわ)
「あほリズム」
(676)
貧乏人にみやびなし、故に貧乏人に天皇なし。
あしひきの山にしをればみやびなみ我がする業をとがめたまうな
大伴坂上郎女〈万・七二一〉
現代訳(山の中に居るんやから風流(みやび)なんか言うてられんわ)
「三島由紀夫について思うこと」
(3)
平岡公威が所謂処女作「花ざかりの森」を書き上げたのは昭和1
6年、従って彼が16歳の時だった。作品に感銘を受けた国語教師
の清水文雄によって彼が参加する同人誌に掲載され、その際に「三
島由紀夫」の筆名が決まった。中でも同人の蓮田善明は早くから三
島由紀夫を認めてその後も多大な影響を与えたが、敗戦後すぐに蓮
田善明が出征地で自栽したという訃報を翌年の6月に知った三島由
紀夫は私淑していた恩人に弔詩を献げている。この蓮田善明という
人は1904年(明治37年)熊本県のお寺の住職の子として生まれ
た。三島由紀夫よりも二十歳も年上である。教員生活の傍ら執筆活
動に励んでいたが、二度目の召集によって南方戦線へ出征する。そ
の時「蓮田は三島由紀夫に、『日本のあとのことをおまえに託した』
と言い遺した。」(ウィキペディア[蓮田善明]) 彼が配属された熊本歩
兵部隊は不敗を誇っていたが、しかし1945年8月15日、日本軍
の降伏により終戦の詔書(玉音放送)が昭和天皇よりなされた。それで
も部隊は降伏か抗戦かで分れた。徹底抗戦を主張する蓮田は、責任を
天皇に帰し降伏を受け入れようとする上官に「国賊!」と叫び拳銃を
2弾連発し射殺した。そして彼自身も自らのこめかみに拳銃を当て引
き金を引いた。享年41歳だった。(ウィキペディア[蓮田善明]より)
蓮田善明が生れた熊本県の植木町には、維新後に「神風連(敬神党)
の乱」を起した士族たちが師事した国学者林桜園の尊崇する鐙田杵築
神社がある。「神風連の乱」とは近代化を求める明治政府への不満を
募らせた士族170余名が、鉄砲などを一切使わずに武士の魂である
刀だけで戦った反乱で、それは素より死なんとする戦いであり、当然
近代兵器を駆使する政府軍の前に一溜まりもなく鎮圧され、「神風連
の死者、自刃者は計124名、残りの約50名は捕縛され一部は斬首
された。政府軍側の死者は約60名、負傷者約200名。」(ウィキ
ペディア[神風連の乱])この事件が嚆矢となって各地でも立て続けに
士族の反乱が起こり、その翌年には西郷隆盛が武士道を貫いた西南戦
争へとつながる。そして、その西南戦争の最大の激戦地、田原坂は彼
が生れ育った植木町にある。彼は当然出生地で起こったこれらの事件
に無関心ではいられなかっただろう、まして国学を志す者にとっては
神道に帰依する「神風連」に強い関心を寄せたことは間違いない。そ
して、それは後の彼の死生観に大きな影響を与えた。三島由紀夫は詩
人 小高根二郎が発表した「蓮田善明とその死」の序文で彼の作品「青
春の詩宗――大津皇子論」の一節、「予はかかる時代の人は若くして
死なねばならないのではないかと思ふ。・・・然うして死ぬことが今
日の自分の文化だと知つてゐる」を引用して、「死ぬことが文化だ」
という考えに傾倒する。そもそも「死ぬことが文化だ」などいう思想
はまるでイスラム教のジハードのようですが、しかしすべての物語は
「死ぬこと」から生まれる。三島由紀夫は最後の作品「豊饒の海」全
四巻の第二巻『奔馬』で「神風連」を加筆してモチーフとして使って
いる。
(つづく)
「三島由紀夫について思うこ」
(2)
三島由紀夫、本名平岡公威(1925年生れ)が生れた時代は、
そのすこし前には4年以上にも及んだ第一次世界大戦が終結(1
918年)したばかりで、それは「ジェノサイドの犠牲者を含た
戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡した。」(ウィ
キペディア「第一次世界戦争」) しかもその最中にスペイン風邪
のパンデミック(1918年1月から1920年12月)が発生し、
感染による全世界の死亡者数は4000万人以上と推測され(W
HO)、一方、日本では関東大震災(1923年)が発生して「死者
・行方不明10万5千人あまり」(ウィキペディア「関東大震災」
)が犠牲になって、国内外ともに混乱の真っ只中に、さらに追い
打ちをかけるように世界恐慌(1929年)が起こった。それは当
然日本経済にも深刻な影響を与えて、特に農村ではデフレ政策な
どによる米価下落とその後にも冷害による凶作から疲弊して娘の
身売りや一家離散が絶えなかった。そして不況を克服するために
満州事変を起こし、政治対立から政情不安になり、暗殺事件が横
行した。
私は以前に当ブログに「順逆不二の論理――北一輝」(2)で「
今の混迷の時代がその頃と重なって見えて仕方がない。」と述べ
たが、今日ではさらにウイルス感染のパンデミックまでもが重な
った。https://blog.goo.ne.jp/wser8ucks4atwg/e/35fd6a726506a30598796dd54500737b
つまり三島由紀夫こと平岡公威が生れた時代は、第一次世界大戦、
スペイン風邪のパンデミック、関東大震災、世界恐慌、満州事変、
暗殺の横行、さらには第二次世界大戦へと続く、人が不慮の中に死
ぬことが今日よりも当たり前の世の中だった。そして彼自身も5歳
の時に自家中毒に罹り死の一歩手前まで行き、さらに妹の美津子は
終戦すぐの疎開先で腸チフスに罹って17歳で死んだ。可愛がって
いた妹の死に公威は号泣したと言う。
そして、彼が学習院初等科6年の冬、1936年2月26日未明、
「昭和維新、尊皇斬奸」を掲げる皇道派青年将校らに率いられた兵
士1483名の軍靴が首都東京の市街地に降り積もった雪を踏み固
めた。所謂「二・二六事件」である。それは、少年公威の正義心と
何よりも視覚に忘れることのできない印象を刻印した。
(つづく)
「三島由紀夫について思うこと」
先ごろ、1969年5月に東京大学駒場キャンパスで行われた三
島由紀夫と東大全共闘との伝説の討論会の様子の映画が公開されま
したが、おそらくそれは50年を経て著作権が切れたからだと思い
ますが、私はずーっと前にYouTubeに投稿されたそのビデオを観た
覚えがあって、そこでもう一度観ようと捜してみたら多分映画にす
るためなのか削除されていました。ただ、三島由紀夫の小説への関
心がそれほどなかったので、それでも「花ざかりの森」「仮面の告
白」「金閣寺」「午後の曳航」は読んでいましたが、もちろん文章
そのものは描写が繊細で傑出していましたが、やがて「兵隊ごっこ」
を始めた頃から凡そ何が書かれているかは予感できて、そしてそれ
が好きではなかったので敢えて読まなかった。ところが最近になっ
て何度か三島由紀夫の名前を耳にするようになって、たぶんそれは
安倍政権下で改憲論議が盛んに交わされ始めたからで、と言うのも
凡そわが国の保守派が唱える防衛論は三島イズムそのまんまで何も
新しいものはないのですが、たまたま三島由紀夫の父が回想録「倅
、三島由紀夫」の中で彼がニーチェを何度も絶賛していたと語って
いたことを耳にしたことから少し気になり始めました。その程度の
理解で三島由紀夫を語るなと言われればまったくその通りで、まさ
にその程度の理解しかないからに違いないが彼の自決がまったく理
解できなかった。ですから私はここで大上段に構えて「三島由紀夫
論」や「天皇国体論」を批判するつもりはまったくありませんし、
実はそんな情熱が燃え上がってきません。それは、たとえば彼は学
習院高等科を首席で卒業するほどの頭脳明晰であるにもかかわらず、
ビデオの中で東大生にいざ天皇を語るとなると、すこし躊躇いがち
に「論理的ではないが」と前置しながら、「つまり天皇を天皇と諸
君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言っ
てくれないから、いつまでたっても殺す殺すと言っているだけのこ
とさ。それだけさ」(ウィキペディア「三島由紀夫」)と言い、天皇へ
の崇拝を吐露します。天皇とは論理的な存在でないことを認めながら
天皇崇拝を語ります。しかし、肝心な是非は論理ではなく感情に訴え
るのなら意味ないじゃんと思うのですが、論理性を重んじる彼が「国
体とは天皇のことである」と主張する背景には育ってきた環境が大き
く影響したことは間違いありません。たとえば、「プロレタリアート
に国家なし」と言いますが、三島由紀夫の生い立ちはそれとはまった
く正反対に「国家なしには生きられない」官僚一家に育ちました。
三島由紀夫、本名平岡公威(ひらおかきみたけ)は大正14年1月1
4日(1925年)に生まれ、ところが翌年の年末12月25日に大正
天皇が崩御されたために年号が「昭和」に改められ、年末の僅か六日
ばかりが昭和元年となり、翌年昭和2年には彼が満2歳になり、彼の
満年齢と昭和の年数が一致して昭和の時代と共に年を重ねることにな
った。
そもそも官僚一家の始まりは祖父である平岡定太郎(1863年生れ)
から始まる。彼は兵庫県の農家の生まれで、時代が明治へと大きく転
換する中、苦学の末に26才で帝国大学法科大学(東京大学法学部)に入
学し、卒業後は内務省に入省し内務官僚となる。その翌年、幕臣であっ
た永井岩之丞の長女なつと結婚し、やがて三島由紀夫の父平岡梓を授か
る。彼もまた東京帝国大学法学部を経て高等文官試験に1番で合格する
ほど秀でていた。その妻倭文重(しずえ)は漢学者橋健三の次女でのちに
長男公威(三島由紀夫)の文才に気付くと協力を惜しまなかった。
生まれたばかりの公威(三島由紀夫)は、「赤ん坊に2階は危い」と
いう理由で、姑であるなつが坐骨神経痛を病む病室内で養育すること
になり、母倭文重が我が子と接することが出来るのは授乳の時や、許
された僅かな散歩の時間だけとなってしまった。こうした、父母と引
き離された生活は彼が学習院中等科に入るまで続いた。彼は、小学生
の頃より祖母の好きな歌舞伎や能、泉鏡花などの小説に親しみ、高学
年になると学習院の同学友誌『輔仁会雑誌』に詩や俳句を発表するよ
うになっていた。(ウィキペディア「三島由紀夫」より抜粋)
(つづく)