(十八)
「美」が対象に在るのではなく、我々の意識の中に在るとすれば
、それは「美」だけのことではなく、「真理」もまた我々の都合の
いい認識に過ぎないのではないか。我々は膨張する宇宙の片隅で、
物質の物理現象や化学反応で生成されたガラクタを眺めながらその
「美」に感嘆したり「真理」を見つけ出して狂喜したりしているの
かもしれない。膨張する宇宙とは時々刻々と変化する空間だ。つま
り昨日の宇宙と今日の宇宙は違うのだ。昨日は正しかった事が今日
も同じように正しいとは限らない。膨張する宇宙とは相対的な宇宙
だ。宇宙は空間を歪つにして拡がり、或るところでは裂け、また或
るところでは重なり合う。ここで「真理」であってもそれが宇宙の
「真理」であるとは言えない。つまり、我々の「美」や「真理」な
どの様々な認識は、この世界に在るものではなく、我々の都合のい
い思い込みに過ぎないのだ。変化の記憶が昨日や今日という時間を
生み、時間の経過はやがて生命をもたらし、生命は地球の変化に促
されて命を繋いで進化する。生存の記憶は受け継がれ認識を共有す
る。こうして我々の認識は生在からもたらされ、その認識で存在の
意味を求めたとしてもその先には認識された存在しか認められない
だろう。
牛乳の宅配は軽トラで配達した。朝の五時から始めて八時には配
達を終え、片付けをして九時には解放された。それから都心にある
絵画のアトリエで、まずはデッサンから始めた。その教室はネット
で探し出した。美大受験の為の教室では無いので、定年を終えてか
ら初めて絵筆を持つ初老の男性や、暇つぶしに趣味で始めた主婦が
ほとんどで、それでも僅かではあるが熱心に取り組む若者もいて、
結構大勢の者が無言でモデルの裸婦を囲んでいた。私はマンガしか
描いたことが無いので、一つのデッサンに何日も費やすことに苦労
した。どうしても線で描いてしまい質感の無い絵になってしまった
。先生は美術会の理事をしていて、美術界では一応名前の通った人
だった。ただ生徒にはほとんど教えることをしなかった。それは絵
画はこう描かねばならないという事は無いんだと言って、それぞれ
の個性を矯めることに慎重だった。彼は印象派全盛の時代に時流に
流されずに多くの個性的な画家を輩出したギュスタブ・モローの教
え方に甚く心酔していた。御蔭で私のデッサン力はトンと進歩せず
、いつまでたってもマンガの域を出なかった。
「描く前に対象をよく見るんだよ」
そう言われて若いフランス人の裸婦を穴が開くほど見つめていると
(下ネタじゃないからね!)やがて人体の奇妙さに心を奪われた。長
い腕や膨れた乳房、裏っぽい背中、その不均衡な身体を覆う痛々し
い皮膚、一体人間は何て皮膚をしているんだ!もし、人間と動物の
違いは何かと問われれば、間違い無くこの剥き出しになった皮膚だ
!そもそも「裸」という奇妙な状態で存在する動物が他にあるか?
体毛が身体を保護する為にあるとすれば、人間はそれを衣服に換え
ることで体毛を退化させ、剥き出しになった神経は直接伝わる鋭敏
な刺激を脳に伝え、脳が過剰に反応して我々を神経質な複雑な動物
に生まれ変わらせたのだ。剥き出しの神経は恐怖に敏感になり不安
から身を守る為に自我を目覚めさせ、その剥き出しになった自我を
偽装するために衣を纏う。衣服は身体を保護する役割を終えても、
我々が裸でいる事の羞恥に耐えられないのは、剥き出しの皮膚の神
経が人の視線に反応するからだ。神経は露出を嫌う。こうして人間
の二面性、剥き出しの神経に繋がった裸の自我と、社会という衣を
纏って偽装された自己が現れる。この二面性こそ我々人間だ。剥き
出しにされた鋭敏な神経、それは恐怖を増幅して猜疑を生み、過剰
な反応が更に我々を不信に陥れる。その震える神経を悟られまいと
して、我々は華やかな衣服で偽装を図るのだ。
霊長類のサルとヒトをどう分けているのかはしらないが、決定的
な違いは何かと尋ねられたら、私は自信を持って皮膚だと答える。
それよりも、名立たる霊長類の研究者が、こんなにもはっきり解か
る違い、体毛が有るか無いかを見逃して、つまり裸になれるかどう
かを見逃して、遺伝子や脳の比率に違いを求めようとしていること
が信じられない。それでは、サルの体毛を退化させる為に代々服を
着せて、やがて皮膚が剥き出しになって、ついには衣服を着用せず
には居れなくなった時に、彼等の衣服を剥ぎ取って裸のままで放っ
ておくと、彼等は必ず「恥ずかしい」と言葉を言葉を発するに違い
ない。
私がいつまでも彼女を見ていると、普段は何も言わない、頭の剥
げた先生が、
「どうして描かないの?」
と私の後ろから言葉を発した。
(つづく)