「私想」
仮に、世界は「ビッグバーン」によって誕生したとすれば、もち
ろん想像でしかないが、その現象を思い描けるのは人間の理性だけ
である。そして「宇宙〈存在〉誕生」の秘密を解き明かし世界を客
観的に把促した理性は、謂わば〈存在〉を超えた能力を手にしたと
言える。今や我々はベッドの上に寝転びながら、その能力を駆使し
て時空を超えた世界に思いを巡らす。やがて、曲がりなりにも「存
在とは何であるか」を了解した人間の理性は、目の前の世界(日常)
を思い通りに作り変えようとする。作り変えることができる能力を
持っているということはスゴイことで、そもそもその創作の能力な
しに創造力は生れない。昔のギリシャの哲学者は、人間は二足歩行
できたことによって前足(手)を使えるようになって理性に目覚めた、
と言ったが、われわれの理性にとって、世界とは作られたもの、作
り変えるべきもの〈存在=現前性=被制作性〉という存在概念によ
って構成され、そしてその存在概念の下では自然とは単なるそのた
めの材料にすぎない。かつて、生きることのほとんどを〈本能〉に
委ね、木一本切ることさえも罪の意識から憚った二足歩行の動物は、
理性を獲得すると躊躇うことなく自然を作り変え始めた。
理性によって世界とは作られたもの、作り変えられるべきもの
とされ、社会環境が作り変えられると、その環境に適合した生き方
が求められる。それまで生存のすべてを〈本能〉に従っていた人間
は、社会に適合するために、つまり〈理性〉に促されて自分自身を
も作り変えなければならなくなった。こうしてわれわれの〈理性〉
はわれわれ自身にも変化〈進化〉を求めてくる。今の自分を超えて
更に「進化」したいという志向は、〈理性〉による社会適合への強
い欲求からもたらされる。生物が〈本能〉によって自然環境に適合
していくことを〈生物進化〉と呼ぶなら、われわれ社会人が〈理性〉
によって〈社会環境〉に適合していくことを、すでに「社会進化」
という言葉は別の意味で使われているので、ここでは〈社会「的」
進化〉と呼ぶことにする。〈社会的進化〉をもたらすのは一にわれ
われの〈理性〉であり、理性は技術能力を進化させることによって
社会を進化させる。そして、IT化社会の「社会進化」についてい
けない者は古い社会に取り残されるしかないように、そこでは〈社
会的淘汰〉が繰り広げられる。しかし、それはあくまでも〈社会的
進化〉であって、決して〈生物進化〉と同じではない。それどころ
か、〈社会的進化〉が〈生物進化〉を妨げている場合も少なくない。
たとえば、視力の低下をメガネの制作技術の進化によって見えるよ
うになることは〈社会的進化〉の優れた成果に違いないが、しかし、
それによって本来の視力が回復せずに劣化するとすれば、〈技術進
化〉、つまり〈社会的進化〉が本来の〈生物進化〉を阻んでいるこ
とになる。こうしてわれわれは、〈社会的進化〉によって本来備わ
るべき生存能力を退化させているのかもしれない。
(おわり)