(十六)
おれの反儒教革命は、教師だけに止まらず保護者達からも、社会に
出て敬語や礼儀が身に付かないようでは困るとの理由から、冷たい
眼で見られるようになったが、それでも、徐々に生徒たちは温かい
眼を返してくれるようになった。夏休みの間に福沢諭吉を読み漁り、
教師の北森さんに教えられて古文の引用が多くて読み難い丸山眞男
も読んだ、お陰で古文の成績は良くなったが。彼は、著書「日本政
治思想史研究」の中で、明治時代の比較的「保守的」な倫理学者・
西村茂樹の以下の文章を引用として次のように紹介している。
「儒道は尊属の者に利して卑属の者に不利なり、尊属には権利あり
て義務なきが如く、卑属には義務ありて権利なきが如し、国の秩序
を整ふるは、此の如くならざるべからずと雖ども、少しく過重過軽
の弊あるがごとし」西村茂樹『日本道徳論』岩波文庫版、29頁
つまり、明治の「保守的」な倫理学者でさえ、今の言葉で言えば、
儒教は依怙贔屓(えこひいき)が過ぎると認めているのだ。
更に、福沢諭吉は「学問のすヽめ」の中で、
「名分と職分とは文字こそ相似たれ、その趣意は全く別物なり。」
と云い、名分と職分の混同を諌めている。本来、肩書きというのは
職分であって決して身分ではない。ところが、我が国民は封建社会
の奴隷根性が棄て切れないまま文明開化を迎えて、職分の何たるか
を知らずに「肩書き」を身分と勘違いしてしまい、自らの異見を述
ずに上意に渋々諾々と従うことが大義だと思っているのだ。
以下はおれの考えだが、そういった上下貴賎の名分を甦らせたの
は思想道徳ではなく、序列の低い者だけが強いられる敬語や礼儀が
残されたままであるからだ。我々の恭しい敬語や礼儀は相手の職分
に対して払われるのではない、身分に対してなのだ。しかし、グロー
バル化した世界はやがて言語をもグローバル化されるに違いないだ
ろう。その時、恐らく日本語は複雑怪奇な敬語やまどろっこしい漢字、
回りくどい言い方など情報伝達手段としての能力が疑われ陶汰され
るに違いない。幾通りも在る主語の中から相手の立場を慮って使い
分ける日本語が英語のYOUに駆逐され、やがて日本語は伝統文化
を懐かしむ一部の国粋主義者の慰みに過ぎなくなって絶滅すること
だろう。IТ化によって更に公用語として英語が使われるのは間違い
ないだろう。だって、キーボード入力すればそれだけで文章が作れる
んだ、つまりややこしい漢字変換など不要なのだ。加えて、日本語
を使っている限り上下貴賎の身分を意識せずに自由に語り合うこと
など出来ないからだ。そんなまどろっこしい言葉がグローバル化した
世界の公用語として採用されるわけがない。
朝立ちのない目覚めを迎えて、久々に登校時間に間に合うように
学校へ行った。校門には、あの国家主義者の、つまりは社会主義者
の山口が待ち構えて生徒の身形や言動を検査していた。おれはシカ
ゴから教えてもらったアメリカンスタイルで「ハーイッ!」と言っ
て通り抜けようとした。
「待てっ!古木」
「はあ?」
「何じゃ今の挨拶は」
「アメリカ式」
「なんやと、お前は未だにまともに挨拶もできんのか」
「『ハーイ』って言うたやんか」
「お前は教師をなめとんのか!」
「反対やて、山口さんが生徒をなめているからそう思うんや」
「どういうことや?」
「あんたがちゃんと挨拶するんやったらおれもするって」
「ほんまか」
「する!」
「日本語でやぞ!」
おれは真っ直ぐ立って、
「お早うございます」
そう言って頭を下げた。すると教師の山口さんが、
「お早うございます」
と言って頭を下げた。少し気持ち悪かったけど対等な関係での等価
交換が成立した。大袈裟に言えば、それは憲法で保障された「法の
下の平等」が実践された瞬間であった。その様子を登校してくる多
くの生徒が立ち止まって見ていた。気まずそうに山口さんが、
「早よう行け、授業が始まるぞ」
「はい」
これを読まれた年長者の方々は忌々しく思われたかもしれない。実
は我々は序列を越えて対等の立場で話せる言葉を持っていないのだ。
いきおい若者の言葉が乱暴に聞こえたりするが、標準語そのものが
立場の違いによって言葉を遣い分けるように仕組まれている。我々
は言葉遣いによって序列化されている。しかし、言葉は情報が優先
されるべきならどんな言葉であれ権威や都合によってその質を変え
られてはならないはずだ。グローバル企業が挙って敬語のない合理
的な英語を社内の公用語として採用するのには、日本語では身分の
「肩書き」を越えて忌憚のない異見を交わせないからではないだろう
か。
グローバル社会では、挨拶だけでなく頭を下げるなどの礼儀もま
た「卑屈である」という理由で削除されるに違いない。我々は子供
の頃から意見を述べただけでも「口ごたえするな」と言われて弁明
など許されなかった。何らかの瑕疵(かし)があってその経緯を説明
しようとすれば未だに「言い訳がましい」と言われる。黙って過失
を認めて頭を下げるのが責任を負う者の清い「姿勢」なのだ。しか
し、責任を当事者に負わせるだけで果たして問題が解決するのだろ
うか。「何故そうなったのか?」という原因を探ることよりも非難
の的にして頭を下げさせて謝罪させることの方が大事だろうか。果
たして、社会的な非難に曝された者がそれでも挫けずに真実をあり
のまま洩らす勇気を持ち続けられるだろうか。説明責任という言葉
を近頃頻繁に耳にするが、説明責任を果たされて経緯が明かされて
納得した例がない。何れも平身低頭して「私が悪う御座いました」
と言って終わってしまう。敢えて言うなら、社会は責任者を非難し
て形ばかりの謝罪を求めるのではなく、もちろん被害をあたえた方
にはそうしなければならないが、責任を負う者の「言い訳がましい」
説明責任こそ求めるべきではないだろうか。
以前、ビジネスホテルのオーナーがホテルを建てる際に建築審査
後に身障者用の部屋を違法改造していたことがバレて、その説明会
見で正直な心の中をあからさまにして世間の顰蹙を買ってしまった
が、こと説明責任に関して言えば、あれほど正直な説明責任を果た
した人物はいなかった。しかし、彼は非難に曝されると一転して何
を聴かれてもひたすら頭を下げるばかりで芝居掛かった涙の謝罪ま
で演じた。それでは何故彼は態度を一変させたのだろか?社会の非
難を真摯に受け止めて反省したからだろうか。それとも本当のこと
を話したことに後悔したからだろうか。
果たして我々は、「謝ったら終いや」と黙ってひたすら頭を下げ
て非難をやり過ごす者と、腹立たしいことが明かされるだろうが経
緯を正直に語る者と、どちらが今後の社会に活かせると思っている
のだろうか。これは責任者だけの問題ではなくそれをどう受け止め
るのか、我々もまた問われている。ただ非難すれば問題が解決する
わけではない。個人的な感想を言えば、前出のホテルオーナーが言
った「時速60キロ制限の道を67~68キロで走ってもまあいい
かと思って」いる経営者は、決して彼一人だけではない。
人が他人からどう呼ばれているかで凡そのその人の立場が把握で
きる。学校の中で、生徒は教師を呼び捨てに出来ないが、教師は生
徒を呼び捨てにしても何の疚しさも感じない。互いに年齢、性別や
立場による「序列を弁えて」いてことさら問題にもならない。もち
ろん序列を越えて親しみから呼び捨てで呼び合うこともあるが、そ
れは個別の問題なので措いて、社会の中で言葉によって他人と係わ
り合う限り、我々の言葉は平等性を担保し難い。年配者のほとんど
はそんなことはないと言うかもしれないが、それは序列の上に居る
から気付かないだけで、例に二十歳前後の若者とどんな話題でもい
い、例えば「日本は再軍備すべきかどうか」を聞いてみればいい。
幾ら話しても恐らく会話はかみ合わないだろう。意見の対立を言っ
ているのではない、それなら未だしも言葉が通じ合っているが、言
葉そのものが通じないのだ。社会性を帯びた若者は、というのはど
うしようもない野郎は措いて、恐らくあなたの話しにも快く頷いて
くれるかもしれないが、しかし多分、自らの考えは決して話そうと
はしないだろう。結果、あなたが一方的に語るばかりで彼等の乏し
い反応に、あなたは「何を考えているのか解からない」と吐き捨て
るかもしれない。ところが、若者たちは自らの言葉を矯められ目上
の者に対する敬語を強いられて、その上で年長者に自らの意見を述
べることに戸惑っているのだ。こうして我々の差別言語は世代間を
越えた議論が生まれないまま、序列によって権力を手にした老人た
ちによって、もはや新しいものなど何も生み出せない彼等によって、
旧い石板に書かれた秩序や道徳や価値が再び見直されようとしてい
る。
若者たちよ!敬語を棄よう!
頭を下げてばかりいたら前が見えんようになる、
間違ってもええやん、自分の言葉でしゃべろう!
それから、「学問のすヽめ」を読もう!
(つづく)