(十一)
「アイデンティティー」という言葉は昨今よく耳にしますが、本
来は「主体性、自己同一性」(大辞泉)という意味ですが、アメリカ
の精神分析学者E・H・エリクソンが「特有の含蓄をもった概念と
して用いて」「内省によってみいだされる主観的自己であるよりは、
社会集団のなかで自覚され、評価される社会的自己のことである」
(日本大百科全書[小学館]より一部抜粋)とあります。しかし、同じ
言葉でありながら「自己同一性(主観的自己)」と「社会的自己(帰属
意識)」では余りにも広義に過ぎるのではないでしょうか?「私は私
だ」と「私は日本人だ」とでは全然視点が違います。たとえ私が日
本人であったとしても、「私」と「日本人」に同一性はありません。
ですから、わたしが「自分を失う」と云う時に使う「自分」とは「
主観的自己」であって、エリクソンの云う「社会的自己」では決し
てありません。社会の視点から他者を視ると、社会性を失った人は
自己を喪失した人に映るかもしれませんが、むしろ「社会的自己」
を自覚する者こそ「自己同一性」を失った者ではないでしょうか。
つまり、我々がよく口にする「アイデンティティー(社会的自己)」
を自覚するということは、実は、信仰や組織などの社会へ自己を委
ねてしまった、本来の「アイデンティティー(自己同一性)」を失っ
た自己と言えるのではないでしょうか。
それでは、「自己同一性」のアイデンティティーとは一体どうい
う心理状況なのか。よく喩えられるように、外国へ出掛けて言葉や
習慣の違いからトラブルに巻き込まれ、疎外感に苛まれて呆然自失
に陥った時、我々は日本人としてのアイデンティティー(社会的自己)
を自覚するのでしょうが、ところが「自己同一性」とは、まさに疎
外感に苛まれて呆然自失に陥った状態から「帰属意識」に縋ろうと
するのではなく、自らの意思で自己を取り戻して、排他的な状況を
克服しようとする主体性を、本来のアイデンティティーというので
はないだろうか。つまり、茫然自失に陥ることが我々をアイデンテ
ィティー(自己同一性)に目覚めさせる契機となるのだ。「私は私だ」
は、国家や民族や肩書きや身分や性別といった社会への帰属によっ
て自己を確かめなければならないアイデンティティーよりどれほど
自立した力強いアイデンティティーだろうか。
おれ達はこれから「お前は誰だ?」と聞かれたら堂々とこう言おう、
「私は私だ!」と。
わたしは、前の章(十)で「自己は本能に宿る」と記しましたが、
ここでもう少しそのことについて詳しく述べようと思います。
我々は、否、少なくともわたしは、自分の本能と理性を認識する
ことが出来ます。わたしの理性は本能が望むことに干渉し抑制して
理性的に行動するよう命じます。従って、「自己は本能に宿る」と
言っても本能のままに生きている訳ではありません。街を歩いてい
て美しい女性を視て欲情しても、無理矢理押し倒すことは決してあ
りません。それを封じているのはわたしの理性です。理性は本能の
暴走を抑制して秩序を守ろうとします。車で云えば本能がエンジン
で理性がブレーキの様なものかもしれません。しかし、社会が大き
くなれば混乱を避けるため理性によるブレーキが頻繁に使われるよ
うになって、本能が満たされなくなります。概ね都会で暮らす人々
は渋滞に巻き込まれた車の様に、ブレーキばかり踏んで生きている
のだろうと思います。やがて我々は理性的な視点でしかものが見え
なくなり、そうやって本能を視るようになると、その浅はかな動機
を蔑むようになります。解かり易く云えば、欲情にかられて自分を
見失うことを避けようとします。しかし、本能を理性的に視ること
ほど無意味なことはありません。他人のノロケ話ほどアホ臭いもの
はないように。こうして我々は本能を矯めて理性的に生きようとし
て、本能から生まれた自己を理性に移します。ところが、理性は飽
くまでも本能を導くための手段でしかありません。だから理性には
そもそも「生きる動機」がありません。そこで、我々は「生きる動
機」を社会との共生に求めようとします。もう、我々は自らの本能
のままに社会を気にせず生きることなどできません。そして「生き
る動機」を放棄した自己は、社会が与える「幸せ」を追い求めます。
しかし、その「幸せ」とは自らの動機から生まれたものではありま
せん。社会という抽選箱の中にある「幸せ」「不幸せ」なのです。
こうして我々は移ろい易い社会の中で自分自身を見失い、社会を見
回ながら社会に縋って生きるしかなくなるのです。そして、その果
てには人格が多重化して人格障害を引き起こすことになるのです。
しかし、我々はもう一度、本能の「生きる動機」に根ざした自己
本位の生き方を取り戻すべきではないでしょうか。歓びや感動を社
会から与えられるばかりではなく、自らの動機によって生まれるよ
うな。それを人間性の回復と言ってもいいのかもしれない。しかし
それは、恐らく緊密な現代社会の閉塞の中からは決して生まれて来
ないでしょう。そして、我々が再び自己を本能に戻して、自己の動
機によって自分を生きようとする時、「近代社会の終焉」が訪れる
に違いない。
(つづく)