「明けない夜」
(1)
「ずっと容子の匂いを嗅いでいたい」
寛(ひろし)は、その匂いだけが残こされたベッドで、容子に囁いた
言葉を思い出しながら胎児のように丸まって彼女の追憶に浸ってい
た。容子と別れれてほぼ一月が経った。今となっては追憶の中でし
か彼女に会えなかったが、それでも彼女の居ない今を忘れさせてく
れた。
寛は、容子と大学のゼミで出会った。彼はそれまで専攻を変更し
たりして留年を繰り返したので彼女より年は2コ上だったが、彼女
は二人姉妹の次女で現実的で、傍目にも二人の年の差はまったく感
じられなかったし、それどころか口論になればいつも寛の方が鼻白
んでしまい、彼女の鼻を明かすことができなかった。やがて就活の
時期を迎えると、就職氷河期と言われて久しい時代だったが、それ
でも容子はあっさり大手スーパーの採用内定を得たが、いったい自
分が何をしたいのかさえ定まらない寛は、仕方なく卒業後の生活の
糧を得るためと、何よりも容子を安心させてこれからもずっと一緒
に居たいという思いから、進まぬ気持ちを無理やり就職という進路
へ追いやったが、まるでその思いを見透かしているかのようにこと
ごとく面接で落とされた。それは進路の選択というより迷路の選択
だった。そして、
「何だ、社会とはそういうことで成り立っているのか」
と、つまり組織に従属しない者は社会で生きていけないことを改め
て知らされた。もちろん、これまでにも書店でのアルバイトや深夜
のコンビニでのレジ係、また、いわゆる「マックジョブ」と呼ばれ
る仕事も経験してきたが、それらは地方出身の彼が東京で糊口を凌
ぐためのもので自らの本分ではなかった。つまり、彼の家庭は彼が
学生としての本分を修めさせるために援助できるほどの経済的余裕
はなかった。
迷路から抜け出せないまま四回生になって、卒論に追われてそれ
に没頭しているうちに、ところで彼の卒論のテーマは「マルクス『
資本論』への生物学的批判」というものだったが、それは、そもそ
も彼は経済学部専攻で入学したのだったが、マルクスが云うところ
の余剰価値は労働者の搾取によってたらされるという考えに生物学
的視点から違和感を覚え、つまり、すべての生命体は増殖、即ち剰
余価値を生むために生存しているではないか。そして、資本の生産
過程が細胞の分裂増殖過程と類似していることに着目して、逡巡の
末に生物学部に専攻を変えて再入学し直して、とくに生命体を形成
する細胞が分裂増殖するしくみを解明しなければ資本主義の本質は
見えてこないと思ったからで、たとえば、細胞はやがて成体を形成
すると増殖を制御して安定するのだが、ところが資本主義は生産さ
れた剰余価値を資本に蓄積して制御なき増殖を繰り返す。それは生
物学的に見れば明らかに偏った姿であって、制御できない細胞の増
殖とは細胞のガン化であり、成体を志向できない資本主義はやがて
破たんするにちがいないと思ったからだ。ただ彼は、自分の研究課
題がいまや全盛の万能細胞の研究からかけ離れていることから教授
陣に疎んじられ、再び文学部へ再転部して容子と知り合った。
そうだ、容子との関係を説明するつもりだったが話が逸れてしま
った。いずれ機会をつくって寛の考えを詳しく述べたいと思うが、
こんなふうにして寛は卒論に取り組んでいる間は容子のことは最小
化してタスクバーの片隅に追いやった。一方、容子は社会心理学の
ゼミも掛け持ちして、分けても消費者心理に興味を持ち、もちろん
それは就職に有利になると思ったからで、希望していた大手スーパ
ーに履歴書とともに学習の成果をレポートにして提出すると、すぐ
に担当者から直接デンワが掛ってきて称賛され、間もなく内定をも
らった。もっとも、それらは先進国であるアメリカの研究論文を翻
訳した文献からのパクリがほとんどで、他人の引用文を自分の言葉
で繋いだだけのレポートだった。そして、卒論さえもそのレポート
を拡大して焼き増しただけの使い回しでひと月も費やさずに書き終
えて提出した。進路も決まって後は学生生活最後の青春を思いっ切
り楽しみたいと思っている容子にとって、いつまで経っても迷路か
ら抜け出せずに、昨日認めた文章を今日は否定する思索に耽る夜々
を送る寛が次第に頼りなく思えてきた。じっさい寛は容子の何でも
ない買い物の誘いさえも断った。暗闇に慣れた寛の眼に容子の居る
光あふれる世界は眩しすぎて、自分を失いたくなかった。
「いまは女の時代だから」
寛のことばを容子は黙って聴いた。
「就職にしたって女性はいずれ辞めてくれるから採り易いんだよ」
「そうかもしれないね」
容子は、寛のことばを聴いてやることが彼の慰めになると思った。
しかし、傷つけないように気遣い、自分の思いを打ち明けられない
相手から気持ちは冷めていった。たぶん、思っていることを言って
口論したほうが後腐れがなかったかもしれない。
「ずっと容子の匂いを嗅いでいたい」
ベッドで寛が容子にそう囁くと、容子は、
「じゃあ、眼をつぶって」
寛が言われた通りそうすると、容子は寛の鼻を舐めた。
「何、これ?」
「わたしの匂いするでしょ」
「うっ、臭い!」
その日を最後に容子はもう寛の部屋に来ることはなかった。
寛が書き直して卒論を提出したのは年が改まった期限ぎりぎりだっ
た。
就職できない寛を落ち込ませたのは、容子への思い以上に、親父
と離婚してから女手ひとつで大学まで行かせてくれた母を安堵させ
ることが出来ないことだった。それまでにも母に勧められて地元の
会社の入社ガイダンスにも眼を通したが、容子の居る東京を離れて
母と一緒に暮らす決心がつかなかった。容子の居る華やかな東京は
母の居る肩身の狭い地元ととは比べものにならなかった。夢の中で、
足を滑らせて断崖に落ちた自分を崖上から容子と母親が手を伸ばし
て叫んでいたが、ところがいくら踏ん張っても足元が滑って、まる
で蟻地獄に落ちた蟻のようにもがけばもがくほど彼女らの手から遠
退き、ついには奈落の底へと転がり落ちたところで眼が覚めた。汗
まみれだった。
卒業して働き始めるとすぐに新人研修があって、東京を離れるこ
とになるのでこれまでのように会うことはできなくなるという容子
の言葉どおりメールだけで会えなくなった。そして、そのメールも
これまでの他愛もないやり取りとは違って関われない研修の報告の
ようなものばかりで、ただ「がんばって」とか「いいね」とか他人
事のような返事しか返せなかった。
一方で、寛自身も好き勝手な生活を送る免罪符だった学生証を返
納して、いつまでも遊んでいるわけにもいかないので、派遣会社に
登録して働き始めると、派遣先の職場で仕事を教えてくれる男が同
じ大学を同期入学した顔見知りだったことに嫌気が差してすぐに辞
め、しばらくは短期のアルバイトで食い繋いでいたが、いろいろ考
えた挙句、出来るだけ他人と関わらずにそれなりに暮らしていける
仕事、当座の生活を凌ぐための非正規だったが警備会社の警備員
として働き始めた。すると二人を繋ぐ共通の話題はいよいよ無くなり
メールさえも途絶えがちになった。警備会社の仕事はイベント会場の
警備から道路工事の交通誘導員まで現場は様々だったが、ただジッ
と立って行き交う人々を眺めているだけで退屈さが紛れた。ちょうど
動物園の飼育員のような眼差しで人間を監視した。人々は彼の制服
を見てその社会的な存在を理解したが、彼はその社会的な存在に隠
れて私的な好奇心から彼らの振る舞いを覗った。すると他人を監視す
る者の自由さえ感じることができた。それは秩序を強いられた人々が
奪われた自由なのかもしれないと思った。支配される者が奪われた自
由は支配する者の手に入る。自由を奪われることを搾取されるという
なら、自由もまた資本主義の「商品」なのだ。否、人は自由を手に入れ
るために生産するのだ。労働者の搾取によってもたらされる剰余価値
とは資本家が自由を手に入れるための手段に過ぎない。つまり、労働
者が搾取されているのは自由なのだ。資本家は奪った自由によって選
択の自由を得るが、労働者は自由を提供するしかない「しかない」選択
しか残されていない。つまり、お金が保証するのは社会的自由なのだ。
これまでそんな風にして社会を見たことがなかった彼は、結構この仕事
が気に入った。もちろん搾取されてはいるが、大概のことは自分の裁量
に委ねられて、社会的自由を奪われずに報酬に与ることができた。
しばらくして容子のケイタイは繋がらなくなった。
(つづく)
パソコン買いました、また小説書きます。ケケロ