(九十六)
バロックの長いメールの続き。
「ゆーさんは、自分の娘や同じ病気で苦しんでいる人の為に、
農薬を使わずに野菜を作るつもりでいたが、村の人々との摩擦か
ら諦めざるを得なくなったんや。借りていた田んぼに思い通りに
水が引けなく為り、更に農機具も借りられ無く為ってしまった。
そして遂には田んぼも取り上げられて元の荒地に戻った。ゆーさ
んは他所者扱いされ白い眼で見られた。彼自身も娘さんの病気に
よって世の中の見方が随分変わったらしい。彼は消費者の味覚に
媚びた近代農業に疑いを持ち、言われるままに作る下請け農家を
辞めてしまった。そもそも野菜は人に食べられる為に実を付ける
んや無い。舌先の味覚を充たす為に品種改良によって野菜本来の
力を損なわれた奇形の野菜が出回ってる。だいたい甘いトマトな
んて嘘っぽい。我々は舌先だけで味わうが、胃袋で味わうことを
忘れてしまった。食うとは克服することや、感服することや無い
。果たして食品偽装の問題は生産者だけの問題なんやろうか?
キュウリは消費者の為に真っ直ぐ育とうとはしない。『これか
らは、本来のクセのあるマズイ野菜を作る。』そう言ってゆーさん
はこの山奥に『虫食い野菜農園』を創ったんや。
とは言うても、ここは山間地で猫の額ほどの平地しか無く、
やっと実った作物も害獣に荒らされたりして、自分達の分を除け
れば幾らも残らなかった。弥生以来何故人々が土地を奪い合って
争ったか少し納得でけた。ただ一面に広がる豊穣な大地は無かっ
たが、見渡せば樹木が茂る豊穣な山々が聳え立っていた。そこで
日当たりの良い山の斜面の杉林を伐採して下草を刈り、段々畑
ではなく、畝ごとに仕切った『階段畑』を考えた。立っているだ
けで転び落ちそうな斜面を、耕うん機で耕すのに苦労したが、伐
採せずに残しておいた頂きのクヌギの木にロープを掛けて耕うん
機をぶら下げ、耕うん機が倒れない様に補助棒を付けて、ロープ
を緩めながら上から下へ耕した。長い間に堆積した枯葉が腐った
土壌は良く肥えていた。そして今度は裾の方から、伐採した木材
を斜面に打ち込み横棒を渡して畦を作り、そこに上の土を降ろし
て埋めた。冬の間、ゆーさんと俺は毎日この階段畑を作ってたん
や。
階段畑は出来たけど何を作るかは未だ決めて無い。初めなんで収
穫の早い葉物になると思うけど。いずれは頂きに貯水槽を置いて
、川の水を水流発電機で汲み上げて、上から水を垂れ流して斜面
水田を作るのが夢や。
ただ、斜面での作業は楽やない。転げ落ちないようにクヌギの
木に命綱を掛けて、まるでロッククライミングの様にして作業した
。それでも腰を屈(かが)めなくてもよく為って、思わぬことで苦痛
が解消された。世間ではこれからは農業だと持て囃すが、製造業
の様な成長は期待出来ない思う。例えば米は年に一度しか収穫
が出来無い。大地や、水や、光や、時間といった自然の恵みには
限りがある。否それでも、もしかしたらどうにかするかもしれん。
遺伝子を組み替えて品種改良し、温度調節された工場の無菌室
で土を使わずに栽培し、昼夜を問わず人工の光を照らして成長を
促がし、機械化された野菜工場から派遣社員によって出荷される
かもしれん。しかし、それでは自動車が野菜の製造に代っただけ
やないか。環境破壊によって社会構造の変革が避けられなくなり
、農業に期待されているが、一体農業にどんな可能性を見出して
いるんやろ?都会の閉塞感から『此処以外の何処か』に逃れても
、すでに農村は消費者を通して社会構造に組み込まれ、都会の
閉塞感は充分村社会に行き渡っているのや。農地を借りるにも
役所の審査を受け、指導されて栽培しても厳しい規格があり、収
穫された農作物は等級に分けられて競わされ、工場の様に組織
化された下請け農家が自由に栽培できる訳が無い。つまり、社
会構造の変換に最も疎いのが農業なんや。社会構造の変換と
は人の考えが変換しなければ起こらないからね。そもそも農業関
係者は何故『野菜はそろって実りません』と消費者を説得して理
解させないんや。ゆーさんは娘の体質の事があって無農薬に拘
り、『虫食い野菜農園』を始めた。同じ悩みを持つ人々からネット
による注文が殺到したが猫の額では間に合わなくなった。しかし、
散在する休耕地を借りる事も出来ず、仕方なく山の斜面に階段畑
を作ったんや。」
(つづく)