「あほリズム」 (148)~(151)

2011-09-30 05:48:55 | アフォリズム(箴言)ではありません

 

               「あほリズム」 

                 (148)

 

   批判そのものは可能性を生まない。

 

                 (149)

  

   つまり、ハンマーだけではものは作れないのだ。

 

                 (150)

 

 「どうして天下りが無くならないんだろ?」

 「だって、それを決める政治家だって官僚の天下りじゃん」

  「天下りって上から下へ行くことだよね?」

 「そうだよ、官僚は政治家の上にいるんだ、この国では」

 

 

 

                  (151)


 この国の指導者は、官僚の書いた文章を一字一句間違わないよう

に読み上げることで指導力を発揮しようとする。もしかしたら彼らは

「リーダーシップ」の「リーダー」の意味を勘違いしているのかもしれない。

                                    

  

  にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村                                                     


「日本存亡のとき」(3)

2011-09-28 05:35:39 | 「パラダイムシフト」

          「日本存亡のとき」(3)


 最近の世界情勢を窺って、そして「日本存亡のとき」を読み終え

ると、その中で、どうしても残して置きたい記述があったので記し

ます。以下は高坂正尭氏が「日本存亡のとき」の中で残した記述で

す。

「私は一九世紀半ばのフランスの知識人トックビルの偉大さをあら

ためて痛感させられた。」 「トックビルはフランス革命に至る過

程を研究して、専制は人々の主張や欲求を力によって強引に押さえ

つけるものだから、不満が深く潜行する形で蓄積される。そうした

体制は人々の力を十分に利用できないので停滞し、いつかいきづま

るので、改革が必要となるのだが、改革を始めた途端に人々の不満

が噴出する。少々の権利を与えても、人々は満足しない。しかし、

いったんパンドラの箱を開けてしまった後、再び抑圧の体制に逆戻

りすることはできない。」(高坂正尭・著「日本存亡のとき」)

 チュニジアで起こった「ジャスミン革命」に端を発する所謂「ア

ラブの春」と呼ばれる一連の民主化運動は情報端末の普及によって

もたらされた。携帯電話やインターネットの情報は階層や地域社会

は言うに及ばず国境さえも容易く越える。抑圧された人々はたとえ

顔を合わして話したことがなくてもて、権力者に対する不満の下に

行動を共にした。その流れは今や親米国家サウジアラビアにも及び、

サウード家の国王による絶対君主制にも綻びが見え始めたのかもし

れない。女性差別に反発した女性たちが抗議の声を上げ始め、遂に

アブドラ国王は女性の参政権を認めることを発表した。ただ、20

15年というのは如何にも先の話で、トックビルの言うように「少

々の権利を与えても、人々は満足しない」に違いない。つまり「ア

ラブの春」はすぐには終わらないだろう。

 そして、その影響はアジアにまで及び、軍事独裁政権のミャンマ

ーも民主化指導者アウン・サウン・スーチー女史の軟禁を解き、経

済の「改革を始め」て 「パンドラの箱を開け」ようとしている。

恐らくそれらの動きは「改革を始めた途端に人々の不満が噴出」し

て、「再び抑圧の体制に逆戻りすることはできない」だろう。そし

て、その流れは、かの共産党独裁政権の中国にも及び始めている。

党指導者の批判の矛先が民衆から当局者へ向けられ始めた。もしも、

中国共産党による国家体制が崩壊することにでもなれば、「アラブ

の春」は「アジアの春」へと移り変わることだろう。ただ、有史以

来内乱を繰り返してきた中国は民族主義による独立国家が乱立して

紛争が頻発し、中国共産党の崩壊はアジアの混乱をもたらすことに

なるかもしれない。日本は中国を如何に民主化へと導くことができ

るかを真剣に考えなければならない。それというのも我々は取っ掛

りは何時も息急き切って始めるが、厄介が降りかかるとあっさり投

げ出してしまうからだ。「日本存亡のとき」とは我々の民主主義が試

される時である。それには日本は中国国民にとって信頼するに足る

国家でなければならない。つまり、過去の忌まわしい記憶を甦らせな

いほどの信頼を築くことで、今の北朝鮮のような民族主義的孤立主

義に戻ってはならない。

 「アラブの春」が「アジアの春」へと移り変わるとすれば、日本への

期待はかつてない程大きなものになるだろう。ただ、もう二度と失敗

は許されないが。

「半分眠りながらキーを打ってるので、目が覚めたら消去するかも

しれません」

 

                                  (おわり)

            


「日本存亡のとき」(2)

2011-09-25 05:47:32 | 「パラダイムシフト」

 


          「日本存亡のとき」(2)

 
 高坂正尭氏は著書「日本存亡のとき」の中でこう言っている。

「成功はすばらしいものだが、厄介なものでもある。というのは、

成功は次の時代における成功を難しくさせるところがあるからであ

る。それも、増長や慢心が最大の障害ではない。もちろん、それは

必ずおこる」 「にわかにその地位が向上したものはだれしも、この

ような成功が続くだろうか、という不安を心に抱いているものであ

る。だから、かれらは問題を見ないわけではなく、なにかしなくて

はならないと思っている。しかし、適切な対応策を講ずることがで

きない。」 「したがって問題は、成功したものが問題に直面して

適切な対応策をとりえないことにある。そこに成功の真実の恐ろし

さがある。成功したものは、成功がもたらす問題や、状況変化にう

まく対応できないところがある。」 「それを要約していうなら不確

定性が増大し、われわれが選択できる幅も選択しなくてはならない

こともともに増えた。それはよいことだが、難しくもある。」

(同書、第四章「成功と代償」1日本の成功「出世払いの請求書」)

 彼は「成功は次の時代における成功を難しくさせる」と言う。戦

後、何もない焼け野原の中でわれわれは如何に生きるべきかの選択

は限られていた。今をどう生きるかだけを考え、目の前のことに必

死でしがみつくしかなかった。もちろん、それが成功をもたらした

とは言えないが、ただ迷いが生ずる余地がなかった。ところが、成

功を果たしたものは次に選択(可能性)が拡がり、それが迷いを生む

原因となる。また、それだけではなく、成功の事実が周りの状況を

変化させたことに気付かない。つまり、自分自身は迷いながら状況

が変わったことに気付かずに同じ対応を繰り返す。いくら迷いを絶

って以前の虚心を取り戻そうとしても状況まで変えることはできな

い。状況の変化に気付たときは再びその状況の中で選択に迷い、そ

の堂々巡りを繰り返す。つまり、長嶋一茂はいくら望んでも長嶋茂

雄にはなれないのだ。いや、仮になれたとしても彼を取り巻く社会

状況は全く変わっているし、何よりもかつて長嶋茂雄という名選手

が活躍したという記憶まで消し去ることはできない。だから、長嶋

一茂がいくら父と同じ能力を持って現れたとしても再び同じ成功を

手にすることはできない。

 かつてわが国は「経済成長なくして財政再建なし」を定立として

財政再建に取り組んだが、しかし、それは高度経済成長を果たした

国家については適応すべきではなかった。何故なら、すでに経済成

長を果たし終えていたからだ。それは、長嶋一茂が父長嶋茂雄のよ

うになりたいと願っても叶わないのと同じことである。但し、テー

ゼそのものは誤りとは言えない。つまり、「長嶋茂雄なくして長嶋

一茂なし」。だからと言って、長嶋一茂に長嶋茂雄を求めるのは

誤りである。

 われわれは財政再建するための選択を、経済成長を成功させた後

の状況の変化を考慮せずに対応してしまった。「経済成長なくして

財政再建なし」というテーゼには前提条件が必要だった。それは経

済成長と財政再建が可能であることと、経済成長によって支出を上

回る税収が見込めることである。しかし、実はそれらは何れも怪しか

ったのだ。債務は既にGDPの二倍を越えていたし経済成長はデフレ

スパイラルから抜け出せず消費が落ち込んでいた。我々はテーゼば

かりを信じて現実を見なかった。それは、「成功したものが問題に直

面して適切な対応策をとりえないこと」に通じる。従って経済成長を成

功させた後の状況を考慮すればこう言うべきでなかったか、つまり、

「財政再建なくして財政再建なし」と。


                          (おわり)

 


 

 

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村

 「日本存亡のとき」

2011-09-24 10:38:11 | 「パラダイムシフト」

               「日本存亡のとき」


 高坂正堯(著)「日本存亡のとき」〈1992年初版〉を読みまし

た。およそ20年前に書かれたにもかかわらず、それから世界情勢

はほとんど変化していないのがよく解ります。逆に言うと、199

0年頃は東欧諸国の体制崩壊とソ連崩壊による東西冷戦の終結、そ

れに湾岸戦争を皮切りにイスラム社会とアメリカ同盟国との対立が

決定的となって、テロリズムの国際化と火種は燻ぶったまま「9.

11」へと続くそれはまさに激動の時代だった。著者はその激動の

時代を振り返りながらその後の世界情勢を分析するのだが、あれか

ら20年後を生きる我々も小さな紛争は絶え間なくとも、あれほど

の大きな変化が起こらなかったことを承知しているように、その後、

世界はもっぱら経済問題に終始して、著者も大きな変化を予測する

ことにページを割いてはいない。体制そのものの大きな変化がなか

ったということで、それはそれで正しい分析だったと思う。

 その中で何度も語られて気になったことは、アメリカの「孤立主

義」である。そもそも「孤立主義」という言葉はアメリカがつくっ

たのだと著者はいう。そして、通商関係が多いことが孤立主義でな

いことを意味するわけではない、と言い、その例として十九世紀中

葉のイギリスは世界中に植民地を持ちながら「光栄ある孤立」を口

にし、さらに、高度成長期の日本は輸出に多大の努力を傾けたにも

かかわらず国際政治への関与を避けてきた。つまり、孤立主義の特

徴は国際政治への関与を避けることにある。そして、もうひとつの

特徴は、内政中心主義である。「アメリカは過去半世紀にまことに

大きな事業をなし遂げた。ファシズムを打破し、共産主義を克服し

たことの意義とそのためのアメリカ人の努力はけっして過小評価さ

れてはならない。」とアメリカ贔屓らしい発言の後に、普通の国な

ら動乱の後は平時に戻ればいいのだが、アメリカには戻るべき平時

が存在しないと言う。「なぜなら、アメリカは過去五十年と第一次

世界大戦の短期間を別にして、孤立主義の原則の下に生きてきたか

らである。そして、多くの面でアメリカの制度はそれを前提にして

つくられている。」つまり、今さらアメリカは世界の警察としての

任務を降りるわけにはいかなくなって孤立主義へ戻れなくなった。

 若い頃に彼の著書「文明が衰亡するとき」に甚く感動して、最も

その内容は忘れてしまったが、1996年、惜しまれながら世を去

った。もちろん、彼は「9.11」もその後のイラク戦争も知らな

い。それからのおよそ二十年間はグローバル経済によるマネーゲー

ムに終始した時代であった。マネーゲームが蔓延るのは実体経済が

滞ったことの裏返しなのかもしれない。実体経済という馬を動かすた

めの人参の取引が経済になってしまった。実際、新しい技術革新な

どはIT革命以来久しく生まてこなかったし、ただ先進国に追い着こ

うとする新興国の目覚ましい発展だけが目を引いたが、それらの国

は先進国に追い着くためにひたすら模倣をするばかりで、新しい時

代を予感させる技術革新や文化を生むことはなかった。こうして、

日本の、それも大阪から始まった(自論)失われた二十年はグローバ

ルスタンダードになってもーた。

 しかし、二十年を経て我々は「日本存亡のとき」を超克すること

が出来たであろうか?高坂正堯氏には及ぶべくもないが、今や世界

経済の破綻さえ取り沙汰されるこの時、私が最も恐れているのが上

に紹介したアメリカの孤立主義への回帰である。それは、それぞれ

の国が自国経済を守るための孤立主義への転回を助長するに違いな

い。実際にギリシャ問題に対するEU諸国の足並みは乱れ、基軸通

貨を擁すアメリカでさえ経済破綻寸前ではないか。いずれドイツ、

フランスは自国経済を守るためにギリシャを始めとする巨額負債を

抱える南欧への援助を打ち切ることも考えざるを得なくなるだろう。

そうなると一機に潮が引くようにグローバル経済の流れが滞り明暗

が分かれ、あの忌まわしい過去、と言っても知識だけで全く経験し

ていない、が甦ってくるかもしれない。すでに、わが国ではデフレ

克服のために経済成長しなければならないと言った声が聞かれなく

なったが、経済成長を促すための旨そうな人参も、もう人参そのも

のに国民は飽いてしまったのだ。最も、いくら駆けようとしても我

々の前に道はなく眼下に拡がる奈落へ「命がけの飛躍」を試みるか

、さもなくば来た道を後戻りすしるか残されていない。否、力のな

い者の領土を侵略して資源を奪うことも手荒なひとつの経済戦略か

もしれないが、そんなことは情報の発達した世界で許されるわけが

ない。つまり、近代文明の下で経済成長は見込めなくなったのだ。

さらに追い打ちをかけるように環境問題が上空に暗雲を漂わせ、7

0億人を越えた人口の豊かさを賄うにはすでに地球のポテンシャル

の限界をとっくに超えてしまっているのだ。人間中心主義の近代文

明は事実存在(自然)の「許容」によって発展させることができたが、

それもすでに限界を超えたことは到る所に現れている。つまり、本

質存在から生まれた我々の欲望は地球という事実存在を凌駕するこ

とはできない。孤立主義は少なくともそれらを忌避するための一つ

の手段には違いないだろう。しかし、内政中心主義は容易く保護主

義へと転換されるに違いない。それでは我々もと保護主義を決め込

んで果たして日本はこの狭い国土の中で食糧を他国に頼りながら、

一億二千万人にも膨れ上がった人口をどうやって養っていくつもり

なのだろうか?これをいつか来た道と言うのは大袈裟すぎると冷笑

できるだろうか?あれはいったい何時から始まったのか、行財政改

革や構造改革、公務員改革に霞ヶ関改革に政治改革と名を変え品

を変て叫ばれてきたが、実は何一つ目に見えた成果を残さないまま

巨額の債務だけを残してきた。「経済成長なくして財政再建なし」と繰

り返し、経済成長を産むために支出を増やして借金が膨れ上がった。

そもそも経済成長を当てにした財政再建というのが不健全ではない

のか?時代は変化して消費が増えるなどとは到底考えられなかった。

その結果、財政支出が経済成長をもたらすこともなく、ただ巨額の債

務だけがもたらされ、火の車に油を注ぐことになり「日本存亡のとき」

は消え去るどころか確実に増大して目前に迫っているではないか。


                                       (おわり) 

 


にほんブログ村 政治ブログへ


「あほリズム」(147)

2011-09-23 09:32:12 | アフォリズム(箴言)ではありません

 

           「あほリズム」(147)


  今日では、真理を、われわれは理性に従って語ろうとするが、

しかし、かつて神の下でも同じように語っていたのだ。

 

                                                                                                                                
                                     (つづく)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村