「日本存亡のとき」
高坂正堯(著)「日本存亡のとき」〈1992年初版〉を読みまし
た。およそ20年前に書かれたにもかかわらず、それから世界情勢
はほとんど変化していないのがよく解ります。逆に言うと、199
0年頃は東欧諸国の体制崩壊とソ連崩壊による東西冷戦の終結、そ
れに湾岸戦争を皮切りにイスラム社会とアメリカ同盟国との対立が
決定的となって、テロリズムの国際化と火種は燻ぶったまま「9.
11」へと続くそれはまさに激動の時代だった。著者はその激動の
時代を振り返りながらその後の世界情勢を分析するのだが、あれか
ら20年後を生きる我々も小さな紛争は絶え間なくとも、あれほど
の大きな変化が起こらなかったことを承知しているように、その後、
世界はもっぱら経済問題に終始して、著者も大きな変化を予測する
ことにページを割いてはいない。体制そのものの大きな変化がなか
ったということで、それはそれで正しい分析だったと思う。
その中で何度も語られて気になったことは、アメリカの「孤立主
義」である。そもそも「孤立主義」という言葉はアメリカがつくっ
たのだと著者はいう。そして、通商関係が多いことが孤立主義でな
いことを意味するわけではない、と言い、その例として十九世紀中
葉のイギリスは世界中に植民地を持ちながら「光栄ある孤立」を口
にし、さらに、高度成長期の日本は輸出に多大の努力を傾けたにも
かかわらず国際政治への関与を避けてきた。つまり、孤立主義の特
徴は国際政治への関与を避けることにある。そして、もうひとつの
特徴は、内政中心主義である。「アメリカは過去半世紀にまことに
大きな事業をなし遂げた。ファシズムを打破し、共産主義を克服し
たことの意義とそのためのアメリカ人の努力はけっして過小評価さ
れてはならない。」とアメリカ贔屓らしい発言の後に、普通の国な
ら動乱の後は平時に戻ればいいのだが、アメリカには戻るべき平時
が存在しないと言う。「なぜなら、アメリカは過去五十年と第一次
世界大戦の短期間を別にして、孤立主義の原則の下に生きてきたか
らである。そして、多くの面でアメリカの制度はそれを前提にして
つくられている。」つまり、今さらアメリカは世界の警察としての
任務を降りるわけにはいかなくなって孤立主義へ戻れなくなった。
若い頃に彼の著書「文明が衰亡するとき」に甚く感動して、最も
その内容は忘れてしまったが、1996年、惜しまれながら世を去
った。もちろん、彼は「9.11」もその後のイラク戦争も知らな
い。それからのおよそ二十年間はグローバル経済によるマネーゲー
ムに終始した時代であった。マネーゲームが蔓延るのは実体経済が
滞ったことの裏返しなのかもしれない。実体経済という馬を動かすた
めの人参の取引が経済になってしまった。実際、新しい技術革新な
どはIT革命以来久しく生まてこなかったし、ただ先進国に追い着こ
うとする新興国の目覚ましい発展だけが目を引いたが、それらの国
は先進国に追い着くためにひたすら模倣をするばかりで、新しい時
代を予感させる技術革新や文化を生むことはなかった。こうして、
日本の、それも大阪から始まった(自論)失われた二十年はグローバ
ルスタンダードになってもーた。
しかし、二十年を経て我々は「日本存亡のとき」を超克すること
が出来たであろうか?高坂正堯氏には及ぶべくもないが、今や世界
経済の破綻さえ取り沙汰されるこの時、私が最も恐れているのが上
に紹介したアメリカの孤立主義への回帰である。それは、それぞれ
の国が自国経済を守るための孤立主義への転回を助長するに違いな
い。実際にギリシャ問題に対するEU諸国の足並みは乱れ、基軸通
貨を擁すアメリカでさえ経済破綻寸前ではないか。いずれドイツ、
フランスは自国経済を守るためにギリシャを始めとする巨額負債を
抱える南欧への援助を打ち切ることも考えざるを得なくなるだろう。
そうなると一機に潮が引くようにグローバル経済の流れが滞り明暗
が分かれ、あの忌まわしい過去、と言っても知識だけで全く経験し
ていない、が甦ってくるかもしれない。すでに、わが国ではデフレ
克服のために経済成長しなければならないと言った声が聞かれなく
なったが、経済成長を促すための旨そうな人参も、もう人参そのも
のに国民は飽いてしまったのだ。最も、いくら駆けようとしても我
々の前に道はなく眼下に拡がる奈落へ「命がけの飛躍」を試みるか
、さもなくば来た道を後戻りすしるか残されていない。否、力のな
い者の領土を侵略して資源を奪うことも手荒なひとつの経済戦略か
もしれないが、そんなことは情報の発達した世界で許されるわけが
ない。つまり、近代文明の下で経済成長は見込めなくなったのだ。
さらに追い打ちをかけるように環境問題が上空に暗雲を漂わせ、7
0億人を越えた人口の豊かさを賄うにはすでに地球のポテンシャル
の限界をとっくに超えてしまっているのだ。人間中心主義の近代文
明は事実存在(自然)の「許容」によって発展させることができたが、
それもすでに限界を超えたことは到る所に現れている。つまり、本
質存在から生まれた我々の欲望は地球という事実存在を凌駕するこ
とはできない。孤立主義は少なくともそれらを忌避するための一つ
の手段には違いないだろう。しかし、内政中心主義は容易く保護主
義へと転換されるに違いない。それでは我々もと保護主義を決め込
んで果たして日本はこの狭い国土の中で食糧を他国に頼りながら、
一億二千万人にも膨れ上がった人口をどうやって養っていくつもり
なのだろうか?これをいつか来た道と言うのは大袈裟すぎると冷笑
できるだろうか?あれはいったい何時から始まったのか、行財政改
革や構造改革、公務員改革に霞ヶ関改革に政治改革と名を変え品
を変て叫ばれてきたが、実は何一つ目に見えた成果を残さないまま
巨額の債務だけを残してきた。「経済成長なくして財政再建なし」と繰
り返し、経済成長を産むために支出を増やして借金が膨れ上がった。
そもそも経済成長を当てにした財政再建というのが不健全ではない
のか?時代は変化して消費が増えるなどとは到底考えられなかった。
その結果、財政支出が経済成長をもたらすこともなく、ただ巨額の債
務だけがもたらされ、火の車に油を注ぐことになり「日本存亡のとき」
は消え去るどころか確実に増大して目前に迫っているではないか。
(おわり)