「明けない夜」
(7)―④
「社会を捉えなおす」―④
細胞の分裂・増殖の循環過程は、四つの段階に分かれ次のような
順序です。まず、間期のG1期、S期、G2期と、そして有糸分裂
(mitosis)を行なうM期です。そしてM期も前期、中期、後期、終
期に分かれます。M期の前期では、細胞核内で二対の染色体が凝縮
しゴルジ体の構造が崩れ、中期では、核膜が消え紡錘体が形成され
染色体が赤道面に集まる。後期では、紡錘糸に沿って染色体が両極
へ分離し、終期では、染色体の凝縮が解かれてゴルジ体や核膜が再
形成され、同時に細胞質分裂が始まり細胞分裂が終了する。分裂に
よって出来た二つの娘細胞は同じ過程を循環して増殖していきます
。ただ、増殖した細胞が生命体秩序を乱すようなことがあれば問題
が起こります。そこで染色体はそれぞれの細胞に遺伝子情報を伝え
て統括する重要な役割を担っている。つまり、多細胞化は細胞核、
分けても染色体を進化させることによってもたらされた。
つぎに、カール・マルクス著「資本論」(中央公論社『世界の名
著』43)より、第二巻「資本の流通過程」、第一編「資本の変態と
その循環」の第一章「貨幣資本の循環」の冒頭からの引用です。
「資本の循環過程は三つの段階をとおっておこなわれるが、これら
の段階は、第一巻の叙述によると、次のような順序になっている。
第一段階。資本家が商品市場と労働市場に買い手としてあらわれ
る。彼の貨幣は、商品に換えられる。つまり流通行為G―Wを通過
する。(「Gは貨幣、Wは商品」筆者註)
第二段階。買い入れた商品を資本家が生産的消費にあてる。彼は
資本主義的な商品生産者として行動する。彼の資本は生産過程を通
過する。結果は、その生産要素の価値以上の価値をもつ商品である
。
第三段階。資本家が市場に売り手としてもどる。彼の商品は、貨
幣に換えられる。つまり流通行為W-Gを通過する。
だから貨幣資本の循環を表わす定式は、G―W…P…W'―G'で
ある。このばあい、… は流通過程の中断を意味し、W'とG'は剰
余価値によって増大したWとGを表わす。」(「Pは生産資本」筆
者註)
さて、「それがどうした?」と言われれば私の企みはうまく行か
なかったことになりますが、もちろん生命体の細胞分裂の過程と資
本主義経済の生産過程を同列に論じるつもりはありませんが、こと
増殖のしくみだけを見るとそれほど大きな違いがないように思えま
す。つまり、資本主義経済は何も近代になって考え出されたシステ
ムではなく、そもそもは生命体が分裂増殖するしくみが根源である
。細胞分裂では、分裂・増殖を決定するのは遺伝子であり、資本主
義経済の生産活動に於いては市場原理に基づく貨幣価値がそれに当
るのかもしれません。ただ、資本家は商品資本の増殖を求めている
のではありません。そこで「彼の商品は、貨幣に換えられる。」換
えられた貨幣は投資した資本よりも剰余価値分(利潤)を上乗せされ
ている。そもそも資本家は貨幣資本の増殖を企んでいる。そして、
増殖した貨幣資本は再び生産過程に投じられて際限なく繰り返され
る。
環境内生物として増殖した単細胞生物がその環境から抜け出すた
めには運動能力を獲得して多細胞化するしかなかった。そして、多
細胞化した生命体は細胞を統括するために遺伝子を進化させ、「あ
るがまま」(ザイン)に存在したそれぞれの細胞に「かくあるべき」
(ゾレン)を求めた。こうして多細胞化した生命体は進化した遺伝子
が個々の細胞を概念化して生物進化した。それは資本主義的進化で
ある。生命体もまた新しく生まれた娘細胞は次には母細胞となって
娘細胞を生み増殖を繰り返すが、しかし細胞の増殖には「成体」と
いう限界がある。成体に達した生命体は成体維持のためだけに細胞
分裂を行ない増殖そのものは減退していく。そして「生存を存続さ
せるため」に配偶子の接合によってたった一つの受精卵を残して、
やがて「死」という限界を迎えて物質に還る。つまりすべての生命
は「何ものにも換えられず」に自然へ還る。こうして自然環境の下
での「生存の存続」は様々な限界に遮られて原点回帰を繰り返して
円循環しながら自然のバランスは維持されてきた。ところが、資本
主義経済を支える科学思想には限界がない。経済合理主義の下で科
学技術は自然循環を破壊しながら直線的に進歩して、利便性という
作用を得るために環境への反作用は省みられてこなかった。線分A
Bは限点A,Bによって表わされるとするなら、循環しない科学文
明は常に限点に遮られそれを越えていかなければならない。「かく
あるべき」世界は「あるがまま」の世界を見失い、すでに「生命の
大地」だった地球は「宇宙船地球号」になってしまった。
(つづく)
「明けない夜」
(7)―⑤
「社会を捉えなおす」―⑤
「世界限界論」を認識するということは取りも直さず近代科学文明
の限界を認めることであり、それは大きな時代転換の波を予感せず
にはいられない。これまでにも歴史上には幾度も大きな転換期があ
ったが、古い社会が立ち行かなくなり新しい社会をする模索する時
には決まって紛争が起こった。ただ、古代や中世ではその社会規模
から限定的な地域紛争で済んだが、近代に入ってからは科学技術の
発展によってグローバル化が進み対立は世界規模で起こるようにな
った。たとえば、集団的自衛権というのは自国には直接の利害が及
ばないにしても同盟国の国益を守るために軍事援助する権利であり
、過去にはその行使によって二国間対立が連鎖的に拡大して遂には
世界大戦に至ったことを忘れてはならない。わたしは、新しい時代
を展望する前にどうしても争いなく時代転換が起こるとは思えない
ので、本旨からは逸れますがそのことについて少し行を重ねます。
と言うのも、今を生きる我々にとって、新しい時代が破壊なしには
始まらないとすれば、当然「次の」戦争のほうがより大きな関心事
であることは言を俟たないからです。
さて、パイの大きさが決まっていて分け前に与ろうとする者が増
えれば当然それぞれの分配は減るでしょう。これまで先進国が独占
していた世界市場に全世界の4割を超える人口を抱える新興諸国(
BRICs)が参入してくれば自ずから先進国の分け前は減ります
。新興国は安価な労働コストによって市場参入しますが、しかし決
して新しいパイを持参したりはしません。それでも市場競争に苦し
む生産者は利潤をもたらす生産コストを求めて競って名刺を交わし
ます。ところで「世界限界論」を前提にすれば今後パイの大きさ、
つまり環境規模やエネルギー資源は増えません、限界なのですから
。そうなると、いずれパイの分配を巡って世界中で、或いはそれぞ
れの国内で奪い合いが始まります。敢えて国内問題を取り上げたの
には理由があります。それは国内のインバランスから生じた国民の
不満こそが対外政策に反映されると、少なくともわたしは思ってい
るからです。隣国に向けられた批判の目は格差社会に対する不満に
向けられた目がすこし逸れただけのことではないだろうか。
かつて近代化を推し進めようとした日本帝国は、対立するロシア
との戦争に勝利して欧米列強に肩を並べるまで近代化を成し遂げた
と自負したが、実際は国内経済は疲弊していて戦争の継続は不可能
な状態で、つまり長期化すれば負けてしまうので、アメリカに仲介
を求めて、ロシア側の戦争賠償金の支払いには一切応じないという
条件を呑まされてポーツマス講和条約は締結された。しかし、格差
社会の底辺で耐え忍んできた国民は納得せず、政府を非難する弾劾
集会が暴動へと拡がって(日比谷焼打事件)、遂には戒厳令まで敷か
れた。作家の司馬遼太郎は著書「昭和という国家」(NHK出版)の
中で、「この群衆こそが日本を誤まらせたのではないか」と言って
ます。そして、「人民が集まって気勢をあげるということが正しい
場合もありますが、日比谷公園に集まった群衆は、やはり日本の近
代を大きく曲げていくスタートになったと思います。」さらに、「
もしそのときに勇気のあるジャーナリズムがあって、日露戦争の実
態を語っていればと思います。」「しかし、そういうジャーナリズ
ムはなかった。」では、今は「そういうジャーナリズム」は健在だ
ろうか?時代がひと回りして今や遅ればせながら近代化を推し進め
ている帝国主義国家中国は、かつての大日本帝国と同様に様々な国
内矛盾を抱えながら経済成長を推し進めることで辛うじて矛盾を封
じ込めているが、いずれパイの分け前に与らなかった人民の内なる
不満を外で晴らそうとしないとも限らない。こうして二国間の対立
はそれぞれの国内情勢が大きな要因となって破壊的な行動さえも正
当化され、やがてその矛先は目の前の対立国に向けられる。しかし、
何より肝心なことは、依然として中国経経済は表向きは成長を維持
していて、もしも彼国がかつての大日本帝国と同じように内を治める
ために外を叩くとすれば、経済の停滞から人民の不満が高まる、むし
ろこれからなのだ。
(つづく)