「二元論」 (18)  

2021-09-29 00:40:39 | 「二元論」

      「二元論」


       (18)


 
 「存在とは何であるか?」と〈真理〉を問う〈形而上学〉(meta-

physis)は、直訳すれば「超ー自然」という意味ですが、それはソク

ラテスを師と仰ぐプラトンとアリストテレスから始まった。プラトン

は、そもそも〈真理〉とは永遠不変だとすれば、たとえば、いま私は

存在しているが、しかしいずれ死んで存在しなくなる謂わば〈仮象〉

の存在でしかない。だとすれば、「私は存在する」という事実は永遠

不変の〈真理〉であるとは言えない。私という存在の〈真理〉は事実

そのものにはなく、肉体が滅んだあとの〈精神〉こそが永遠不変の〈

真理〉であると考えた。つまり「事実としての存在」と「本質として

の存在」を区別して、「本質存在」こそが「真の存在」であると「イ

デア論」を説いた。こうして「事実存在」と「本質存在」を二元化す

る形而上学的思考は、のちの中世ヨーロッパでは現実の世界と神の世

界を二元化するキリスト教的世界観へと受け継がれ、近代では〈科学

的真理〉を追い求める理性へと継承される。ところが、ニーチェは「

(永遠不変の)真理とは幻想である」とプラトニズム(プラトンの思想)

を逆転させ、「存在とは(変遷流転する)生成である」と主張して、存

在を「事実存在」と「本質存在」に二元化する「形而上学的思考」を

否定した。存在を永遠不変の真理によって固定的に捉える形而上学的

思考は変遷流転する生成としての存在にそぐわないと考えた。

 「存在とは〈生成〉であり」「真理とは幻想である」とすれば、永

遠不変の〈真理〉を追い求める形而上学的思考は誤りだということに

なる。そして、形而上学的思考によってもたらされた永遠不変の科学

的真理は生成変化する存在(世界)に次第にそぐわなくなる。いま起こっ

ている環境問題は固定化した科学的真理が生成変化する世界を妨げてい

る。それでは、科学的分析を生む形而上学的思考以外に世界をどう捉え

ればいいのだろうか。ニーチェは、〈形而上学〉(meta-physis) が生まれ

る前の、つまりソクラテス以前の思想家たち「フォアゾクラティカー」

(独:Vorsokratiker) に関心を寄せる。それでは、「フォアゾクラティカー」

の思想とはいったいどういうものか。

                           (つづく)


「二元論」(17)をまとめるための試稿の改稿のつづき②

2021-09-24 03:54:08 | 「二元論」

    「二元論」


     (17)をまとめるための試稿の改稿のつづき②


 ハイデガーは「思索の転回」に躓く前にもそしてその後も終始一貫

して自然を質料・材料と見做す近代科学主義による人間中心主義的(

ヒューマニズム)文化を批判したが、それは今まさに問題になってい

る「サステナビリティ(sasutainability)・持続可能性」がいずれ「

ゆきづまる」ことを予感していたのかもしれない。循環回帰すること

によって「サステナビリティ」を維持していた〈生成〉の世界を破壊

して「作り変えられた」近代科学文明社会は円環から外れた直線のよ

うにいずれ限界点に達して「ゆきづまらざる」を得なくなる。〈真理〉

を追い求める理性による形而上学的思考は、やがて移り変わる仮象で

しかない「事実存在」としての自然(ピュシス)を人間中心主義的文化に

作り変えるための質料・材料と見做して、驚きをもって了解された〈生

成〉としての世界は映像として記録され倉庫に保管される。闇と光、高

く聳える山々と果てしなく続く深海、そしてそこに生息する奇妙な生き

物たち、季節の移り変わり、萌え出でる草花、闇の中から現われるいの

ちなどなど、すべては理性によって解き明かされ「〈生成〉の不思議」

はもはやわれわれを驚かせたりはしない。そして、われわれが科学によ

って「存在とは何であるか」を解き明かした今、われわれが拠って立つ

べき〈世界〉は音を立てて崩れ始めようとしている。それは、後期のハ

イデガーが「失われた存在を追想しつつ待つことだけ、と考えていた」

(木田元『ハイデガ―ノ思想』) 時代がついに訪れつつあると思えてなら

ない。

 それではハイデガーは「明らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッ

パの人間中心主義的文化をくつがえそうと企てて」、世界はいったいど

うあるべきだと考えていたのだろうか?木田元によると「もう一度自然

を生きて生成するものと見るような自然観を復権すること」、つまり簡

単に言えば「自然に帰れ!」ということになるのかもしれない。それは

今まさにわれわれが直面している科学技術が引き起こした様々な環境問

題によって「明らかにゆきづまりにきている近代科学文明社会への警句

ではないだろうか。

                        (つづく)


「二元論」(17)をまとめるための試稿の改稿のつづき

2021-09-21 06:50:18 | 「二元論」

     「二元論」


   (17)をまとめるための試稿の改稿のつづき


 「存在とは何か?」を問う形而上学は、プラトン・アリストテレ

スによって存在を永遠不変の真理である「本質存在」と、生成変化

する仮象である「事実存在」に二分され、ソクラテスの弟子プラト

ンは「本質存在」こそが真の存在であるとする「イデア論」を説い

たが、それはのちに中世ヨーロッパではキリスト的世界観である神

の世界へ受け継がれ、そして近代では形而上学的思考は「理性」と

して、そこで「事実存在」としての自然(ピュシス)は制作(世界を作

り変える)のための単なる資料・材料として扱われる。それでは形而

上学以前の思想家たち、つまり「フォアゾクラティカー」と呼ばれ

る思想家たちは、名前が残っているのはアナクシマンドロス、ヘラク

レイトス、パルメニデスたちだが、彼らはいったい〈存在〉をどのよ

うに考えていたのだろうか?彼らはもちろん世界が存在することの不

思議に驚いたが、しかし「存在とは何であるか?」、つまり「存在の

〈真理〉」など追い求めたりはしなかった。

                       (つづく)


「二元論」(17)をまとめるための試稿の改稿

2021-09-20 11:59:44 | 「二元論」

    「二元論」  


         (17)をまとめるための試稿の改稿

 

〈存在が現存在を規定する〉のか、或は〈現存在が存在を規定する〉

のか、つまり「人間とは〈世界=内=存在〉である」のか、それと

も「人間とは世界を超越する存在である」のか、という「二元論」

は、そもそも人間は世界がなければ生れなかったのだから人間とは

〈世界=内=存在〉であることは明白だが、それでも世界を俯瞰し

て認識(了解)することができる唯一の存在者である人間は、神の視

点に立って世界を作り変えようと企てる(人間が世界を規定する)。

初期のハイデガーも世界を了解する人間が世界を作り変えることは

許されると考えていた。ところが木田元によると、彼が変えようと

した世界とは、「明らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの

人間中心主義的文化をくつがえそうと企てていたのである。」(木田

元著『ハイデガーの思想』) そこで「人間を本来性に立ちかえらせ」

そして「もう一度自然を生きて生成するものと見るような自然観を

復権」させようとした。そして、この思想が彼を民族主義を掲げる

ナチスへの共感をもたらした。しかし「人間中心主義的文化(近代科

学文明社会)の転覆を人間が主導権を取って行なうというのは、明ら

かに自己撞着であろう。」と気付いて、「思索の転回」を余儀なく

されたが、彼自身は想い描いた世界観、つまり〈存在=生成=自然〉

という存在概念による世界の復権を決して諦めなかった。「この形

而上学の時代、存在忘却の時代に、われわれに何がなしうるのか。

失われた存在を追想しつつ待つことだけ、と後期のハイデガーは考

えていたようである。」ところで、〈現存在が存在を規定する〉、

つまり人間は世界を作り変えることが許るされるとすれば、人間中

心主義の科学文明社会が肯定されたと考えるのが普通だが、ところ

がハイデガーは科学主義を否定して人間中心主義的文化の転覆を主

張する。その理由はすでに上で述べたが、その中で「人間を本来性

に立ちかえらせ」とあるが、はて、人間の本来性とは何のことだろ

うか?文脈から読み取ると人間中心主義的文化は人間の本来性から

外れている、ということになる。そもそも人間とは時間が限られた

存在であり、もちろん人間自身もそのことをよく知っている。つま

り人間とは時間である。そこで、人間が「おのれ自身の死という、

もはやその先にはいかなる可能性も残されていない究極の可能性に

まで先駆けてそれに覚悟をさだめ、その上でおのれの過去を引き受

けなおし、現在の状況を生きるといったようなぐあいにおのれを時

間化するのが本来的時間性であり、それに対しておのれの死から眼

をそらし、不定の可能性と漠然と関わりあうようなあり方が非本来

的時間性だということになる。」(木田元) つまり、われわれが作り

変えた人間中心主義的科学文化とは、目の前の現実〈現前性〉にだ

けにこだわった非本来的時間性による存在概念であるというのだ。

そもそも人間が世界を作り変えるにあたって自然を単なる資料・材

料と見做すような存在概念は形而上学的思考によってもたらされた

。存在の〈真理〉を問う〈形而上学〉は存在を「事実存在」と「本

質存在」に二分して、「本質存在」こそが永遠不変の〈真理〉であ

り、いずれ変遷流転する「事実存在」は〈仮象〉の存在でしかない

と見做される。「科学」はこの二分化を繰り返す「分析」方法によ

って〈永遠不変の真理〉を追い求め、発見された物質は作り変えら

れて人間中心主義的文化に利用される。つまり近代科学文明社会は

形而上学的思考の上に成り立っている。哲学史家としてのハイデガ

ーもプラトン・アリストテレスより始まった形而上学的思考の影響

を受けたが、彼が「形而上学を克服」する契機を得たのはギリシャ

古典文献学者であり哲学者であるニーチェによってソクラテス以前

の思索家たち、彼らは「フォアゾクラティカー」と呼ばれているが

、そもそも木田元によると「ハイデガーは明らかにニーチェに教え

られて、フォアゾクラティカーに眼を向ける。」(木田元著『ハイデ

ガー』P198[岩波現代文庫 ]

                         (つづく)