「二元論」
(18)
「存在とは何であるか?」と〈真理〉を問う〈形而上学〉(meta-
physis)は、直訳すれば「超ー自然」という意味ですが、それはソク
ラテスを師と仰ぐプラトンとアリストテレスから始まった。プラトン
は、そもそも〈真理〉とは永遠不変だとすれば、たとえば、いま私は
存在しているが、しかしいずれ死んで存在しなくなる謂わば〈仮象〉
の存在でしかない。だとすれば、「私は存在する」という事実は永遠
不変の〈真理〉であるとは言えない。私という存在の〈真理〉は事実
そのものにはなく、肉体が滅んだあとの〈精神〉こそが永遠不変の〈
真理〉であると考えた。つまり「事実としての存在」と「本質として
の存在」を区別して、「本質存在」こそが「真の存在」であると「イ
デア論」を説いた。こうして「事実存在」と「本質存在」を二元化す
る形而上学的思考は、のちの中世ヨーロッパでは現実の世界と神の世
界を二元化するキリスト教的世界観へと受け継がれ、近代では〈科学
的真理〉を追い求める理性へと継承される。ところが、ニーチェは「
(永遠不変の)真理とは幻想である」とプラトニズム(プラトンの思想)
を逆転させ、「存在とは(変遷流転する)生成である」と主張して、存
在を「事実存在」と「本質存在」に二元化する「形而上学的思考」を
否定した。存在を永遠不変の真理によって固定的に捉える形而上学的
思考は変遷流転する生成としての存在にそぐわないと考えた。
「存在とは〈生成〉であり」「真理とは幻想である」とすれば、永
遠不変の〈真理〉を追い求める形而上学的思考は誤りだということに
なる。そして、形而上学的思考によってもたらされた永遠不変の科学
的真理は生成変化する存在(世界)に次第にそぐわなくなる。いま起こっ
ている環境問題は固定化した科学的真理が生成変化する世界を妨げてい
る。それでは、科学的分析を生む形而上学的思考以外に世界をどう捉え
ればいいのだろうか。ニーチェは、〈形而上学〉(meta-physis) が生まれ
る前の、つまりソクラテス以前の思想家たち「フォアゾクラティカー」
(独:Vorsokratiker) に関心を寄せる。それでは、「フォアゾクラティカー」
の思想とはいったいどういうものか。
(つづく)