「公務員の驕り」

2010-04-22 06:48:46 | 赤裸の心
                  「公務員の驕り」     


 我々は遠い過去に拘(こだわ)るくせにすぐ昨日のことを忘れる。

それは記憶のどこかで繋がっているのかもしれない。バブル崩壊後

の当時、金融危機は日本の経済力からすれば大した危機ではないと、

政治家或いは経済人、マスコミまでが挙って日本経済の回復を楽観

的に語っていた。しかし現実は、世界一の金持ちになった祝いのク

ス玉を、恰(あたか)もイルカが水面から飛び上がって鼻先で割った

後、そのまま水中深く沈み込むように、我々はその後の20年間に

桁外れの借金を残してしまった。

 その間には何度も構造改革が叫ばれたが、言葉どおり行政の無駄

を削っていれば、恐らくすでに日本政府は消滅しているに違いない

が、ところが未だに相も変わらず行政刷新が叫ばれ天下りに手を焼

いている。そもそも公務員の給与を民間並に扱う事自体に大きな矛

盾を感じる。民間とは何れも競争社会の中で勝った者だけが生き残

り、その背後には倒産に追い込まれた会社や利益の上がらない会社

がごまんとある。ところが、公務員はそんな淘汰される不安もなく

勝ち残った会社に伍して高給(税金)が支払われる。つまり競争もせ

ずに勝者の報酬を得ているのだ。たとえば能力に対する正当な報酬

だと言うならば、能力とは成功を収めて始めて評価されるのが世間

で、高学歴や国家資格があるからといってその能力を保証するもの

ではない。医師免許さえあれば開業できて待合室に患者が並び高額

な報酬が手に入ってくることにはならない。医者だって競争に曝されて

いて評判が悪ければ廃業せざるを得ない。そもそも競争のない公務

員の能力に対するそういった評価そのものが難しい。しかし公務員に

は破格の報酬が支払われない代わりに、倒産や解雇の不安から守ら

れているではないか。一方で能力があっても思わぬ倒産の憂き目に

逢ったり、また学歴が何の役にも立たずに解雇される民間会社の社

員はそれこそ「ろくまん」と居る。世間では一生懸命働いたからといっ

てまず報われることの方が稀なのだ。浮き沈みのない安定した公務

員を選んでおいて、そのことを忘れて、高学歴や肩書きを翳して、民

間企業の要職に並ぶ高額の報酬(税金)を求めるのは、まさに公務

員の驕りである。

                                 (おわり) 
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「原因と結果」

2010-04-13 07:47:41 | 赤裸の心
                  「原因と結果」


 他人の文章をコピペして、然(さ)も自分の認識であるように衒

(てら)うのは厳に慎むべきだと諌めながら、再びニーチェの言葉

を掲載します。ニーチェは、人々の共感とか同感といったものにこ

そ埋めることの出来ない決定的な隙間が存在する、と言ってた様に

思います。以下は「悦ばしき知識」第三章(一一二)からですが、

後の私の感想はニーチェが同意した訳ではありません。



           (一一二)

「原因と結果。――認識や学問の昔の段階に対し、現在のわれわれ

のそれを際立たしているもの、それをわれわれは「説明」と呼んで

いるが、実はそれは「記述」なのだ。われわれは以前より記述にか

けては上達した――だが説明にかけては昔の人々みなと同様ほとん

どなすところがない。昔の文化の素朴な人々や研究者が「原因」と

「結果」という二様のものをしか見なかったところに、われわれは

多種多様の継起の連鎖を見つけだした。われわれは生成の表象を完

全なものに仕上げはしたが、その表象を超えて、その表象の背後に

達することはなかった。「諸原因」の系列は、どんな場合にも、以

前に比べてはるかに完全にわれわれに明かになっている。われわれ

は推論する、あのことが結果として起こるためにはまずこれこれの

ことが先行しなければならない、と。――だがそれでわれわれは何

ひとつ把握したわけではない。質、たとえばあらゆる化学上の変化

における定性のような質は、今もってなお一個の「不可思議」のよ

うに見える。そうしたことはすべての移行運動においても同様に見

られるものである。つまり、誰ひとりその推進力そのものを、「説

明」するわけにはゆかない。われわれとてもどうして説明などでき

よう!われわれは、線とか平面とか物体とか原子とか可分的時間と

か可分的空間とかいった、実のところ在りもしないものばかりを借

りて操作する、――われわれが一切をまずもって表象に、われわれ

の観念像に化してしまうかぎりはどうして説明などが可能となろう

ぞ!科学をば事物の可能なかぎりそっくりそのままの人間化と見る

だけで、ことすむわけだ。われわれは事物とその継起を記述するこ

とによって、いよいよ精確にわれわれ自身を記述することを習得す

る。原因と結果、といったような二元性は、おそらくありはしない

のだ――実際そこにあるのは一つの継続態なのであり、その若干の

部分をわれわれが分離させるのだ。それは、われわれが運動という

ものをいつも分離した多くの点としてだけ知覚し、したがって実は

運動を見るのではなく、これを推論しているのと、同様である。多

くの結果が突然にはっきりとあらわれてくるその突発性が、われわ

れを誤らすのだ。だからとてそれはわれわれにとっての突発性であ

るだけのことだ。われわれには捉えかねるこの突発性の刹那のうち

には、無量無限の経過がふくまれている。原因と結果を、われわれ

流儀にべつべつばらばらの分割態と見るのでなしに、これを一つの

継続態として見るような知性、つまり出来事の流れを見るような知

性が、もしあるとすれば、――それは原因と結果といった概念をは

ねつけ、一切の被制約態を否認するだろう。」

        「悦ばしき知識」ニーチェ全集⑧ちくま学芸文庫
                 ニーチェ(著)信太正三(訳)

 我々は、――私がこの「われわれ」という言葉を使い過ぎるきら

いがあるのは多分彼の影響と思われるが、それでも、――我々は、

木を見て森全体を認識できないし、森を見て一本一本の木の違いを

認識することもできない。原因と結果による認識とは一本の木を見

ているに過ぎない。「われわれには捉えかねるこの突発性の刹那の

うちには、無量無限の経過がふくまれている」のだ。一本の木が倒

れた結果はたった一つの原因からではない。そこには無量無限の経

過がふくまれているのだ。原因から結果が導き出せると考えるのは

人間が納得する為の表象化された記述にすぎない。恐らくは分析に

頼る学問について言っているのだと想われるが、そうは言っても「

出来事の流れを見るような知性」などという超能力のようなものは

誰も持ち合わせていない。カエルはカエルの目で、カエサルのもの

はカエサルへ返さず、あっ!ちがう、カエサルはカエサルの目でも

のを見るしかない。(プロバイダーが「ぷらら」なんでちょっと宣伝)

つまり、我々は我々の能力を超えて認識することなどできない。

 彼は「線とか平面とか物体とか原子」までも「実のところ在りも

しないもの」とまで言う。そんなものは人間が観念化した表象にす

ぎない。そもそも点とか線というのは我々が事物から取り出した概

念である。そして平面でさえ重力がなければ簡単にイメージされな

い概念である。無重力空間で浮遊する者は平面の概念など浮かば

ない。そして我々もそもそも重力が無ければ存在しないのだけど、

我々は「重力の魔」に閉じ込められた身体性の中で世界を想像して

記述してるのだ。魚が水面下から水上を覗き上げて水の無い空間を

「水中の世界に例えて」語るようなものだ。それらは恐らく誤りであろう。

それではどうすればそんな知性、我々の身体性を超えた能力、を獲

得することができるのだろうか。どうすれば事物の「不可思議な」「推

進力」を記述でなく説明することができるのだろうか。神に預ければ

簡単だが、神を殺した彼の認識はもはや神に縋るわけにはいかない。

然りとて認識は同じ道をグルグル回るばかりで何れペシミズムに陥る。

まさに「前門の虎、後門のオオカミ」ならぬ、「前門のカミ、後門

の『虚』無」に阻まれて、彼は超人となって空を飛ぶしか逃れる道

がなかった。彼の「超人」思想とは、認識によって神を否定しペシ

ミズムを避けたが、それに代わるものを見つけられず、追い込まれ

た状況で生まれた、のかもしれない。だって超人なんて人間の否定

以外の何物でもないし、結局彼は認識による「推進力」の説明を超

人に預けてしまい、遂には人間まで否定した。それは、サルトルの

「実存は本質に先行する」という諦めにも近い言葉にも近い。本質

を追い求める哲学が本質を追い求めても実存に至らなかった、って

ことだよね。それって一つの結論かもしれないが哲学の敗北宣言じ

ゃないか。だからボク的に言うと、「本質は認識に先行する」。つ

まり、認識では世界は解けない、って、これも敗北宣言だけどね。

結論を言えば、あまりニーチェに心酔するととんでもない人生にな

っちゃうよ、ってこと。何しろ彼が言う「超人」思想とは、人間の

破滅に他ならないからだ。

 最後に、ニーチェのこんなアフォリズム、

 「ひとは、答えの見つけられる問いだけに耳をかすものだ。」

              (一九六)『われわれの聴覚の限界。』
                          同書より

                           (おわり)
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「刑務所の中で」

2010-04-06 15:31:19 | 赤裸の心
           「刑務所の中で」


 私はパソコンの横に数冊のニーチェの文庫本を置いて、パソコン

に飽いた時、当てずっぽうに開いて彼の言葉を読んでいる。座席の

左側に置いているので「座右の銘」ならぬ、「座左の書」である。ただ、

何を言っているのか理解出来ないことの方が殆んどで、偶に共感を

得た時の歓びは計り知れない。

 以下は、彼の「曙光」一一七からの文章である。

「刑務所の中で。――私の眼はどれほど強かろうと弱かろうと、ほ

んのわずかしか遠くを見ない。しかもこのわずかなところで私は活

動する。この地平線は私の身近な大きな宿命や小さな宿命であり、

私はそこから脱走することができない。どんな存在のまわりにも、

中心点をもち、しかも存在に固有であるような、ひとつの同心円が

ある。同様に、耳がわれわれをひとつのちいさな空間の中に閉じこ

める。触覚も同じことである。刑務所の壁のように、われわれの感

覚がわれわれの一人一人を閉じこめるこの地平線に従って、われわ

れは今や世界を測定する。われわれは、これは近くあれは遠い、こ

れは大きくあれは小さい、これは硬くあれは柔らかい、と呼ぶ。こ

の測定をわれわれは感覚と呼ぶ。――何もかも誤謬それ自体である

!われわれにとって平均してある時点に可能である多くの体験や刺

激に従って、われわれは自分の生を、短いとか長いとか、貧しいと

か富んだとか、充実しているとか空虚であるとか、測定する。そし

て平均的な人間の生に従って、われわれはすべての他の生物の生を

測定する。――何もかも誤謬それ自体である!われわれが近い所に

対して百倍も鋭い眼をもつとすれば、人間は途方もなく高く見える

ことであろう。そればかりか、それによると人間が測定されないと

感じられるような器官を考えることができる。他方、太陽系全体が

狭まり、締めつけられて、たったひとつの細胞のように感じられる

ような性質を、器官がもつこともありうるであろう。そしてそれと

反対の組織をもった存在にとっては、人間の身体のひとつの細胞は、

運動や、構造や、調和の点で、一個の太陽系であることを示しうる

であろう。われわれの感覚器官の習慣は、われわれを感覚の欺瞞に

紡ぎこんだ。これらの感覚器官は、再びわれわれのすべての判断と

「認識」の基礎である。――現実の世界への逃走も、すりぬける道

も、抜け道も、全くない!われわれは自らの網の中にいるのだ、わ

れわれ蜘蛛は。そしてわれわれがそこで何をつかまえようとも、ま

さしくわれわれの網でつかまえられるもの以外には、何もつかまえ

ることができないのだ。」

ニーチェ全集⑦ちくま学芸文庫「曙光」一一七「刑務所の中で。」
茅野良男(訳)

 われわれ蜘蛛は、能力を超えた認識など持ち得ない。従って我々

が世界を知り得ないのは、我々がその能力を持ち合わせていないか

らだ。つまり、「実存は本質に先行する」限り、本質は実存の部分

を語れても全体は語れない。何故なら、

「一、未知の事物の認識と確実性に到達するには、認識と確実性に

おいてその未知の事物に先立つほかの事物の認識と確実性によるほ

かない。」からである。
       
スピノザ(著)「デカルトの哲学原理」畠中尚志(訳)から
岩波文庫(青615-⑧)
「幾何学的方法で証明された哲学原理」第一部(公理)より

                                   (おわり)

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