(六十一)
大騒ぎした地球温暖化の問題は、正に、喉下過ぎれば熱さを忘
れるで、金融不安による世界経済の危機に取って代わられた。つ
まり、エコノミーはエコロジーに先行するのだ。
ところで、エコロジーガールとして売り出したサッチャンは、
夏の終わりと共に暑さが和む頃には、地球環境問題は忘れ去られ
て彼女の人気にも秋風が立っていた。今では、エコロジーガール
の肩書きを捨て、早々とイメージチェンジをして、自信のある歌
唱力で再スタートしようとしていた。頻繁に顔を出していたテレ
ビのコメンテーターも化けの皮が剥がれて、サッチャンは家庭内
暴力でのコメントを求められて、リポーターの言った「刃傷」沙汰
を「人情」沙汰と思い、傷害事件を痴話ゲンカと勘違いをして失笑
を買い、その後すぐにテレビに出なくなった。そして熱りが冷めた
頃、新曲の発売とその宣伝の為に現れた時には、誰もがサッチ
ャンと気付かないほど変身していた。それは嘗て、路上で歌って
いた時のような派手な格好で、際どいミニスカートと胸元の開いた
短いTシャツの間からは、例の輪ッカでヘソが落ちないように止め
ているのが見えた。彼女は本来の自分に合った明るい曲を選んだ
が、残念なことに、先の見えない不況に苦しむ世間は、手の平を
返したような楽観的なラブソングについていけなかったのか、全く
売れなかった。確かに、悩んでいる時にその歌を聴くのは、繰り返
し流されるCMのようにウザかった。
一方、バロックは、あてのない「みちのおく」一人旅を続けて
いたが、漸くコマを進めて関東の端まで足を踏み入れていた。彼
が得意とする70年代ソングは、今再び脚光を浴びブームが甦え
り、路上ライブは団塊世代の郷愁をくすぐり、東京に負けない位
に盛り上がっているという。
「時代は70年代へ逆行してる」
バロックがメールしてきた。
「生まれてないし知らないよ」
「大きな分かれ道やったんや」
「行き止まりだから引き返そってこと?」
「そうかもしれん」
「どうなるの日本?」
「政治の時代」
「政治?」
バロック曰く、アメリカは経済の建て直しの為に、アジアへの
プレゼンスの縮小に迫られて、日米の安全保障条約がアメリカに
よって見直されるだろう。日本は独自の防衛を強いられて、その
時、国内では平和憲法の是非が大きな政治問題になるに違いない
。日本を孤立させて再軍備化へ導くことはアメリカの狙いでもあ
るかもしれない。こうして我々は70年代の積み残した課題と再
び向き合わざるを得なくなる。その時にはアメリカに頼ることも
出来ないだろう。自国の防衛は自国で行う主張する改憲派と、護
憲を主張する人との対立が激しくなり、国防とは体制を守ること
なのか、国民を守ることなのかが問われ、我々の民主主義が試さ
れる日が来るだろう。
「でも、先の話しだよね?」
「否 5年以内」
「5年以内!」
「世界中で紛争が多発して世界大戦の危機すらある」
「そうなると東アジアって危ないんじゃないの」
「膨らみかけた欲望を押さえることは出来ないだろうね」
「中国?」
「事が起こるとすれば、中国か北朝鮮しかないやろ」
「どうなるの?」
「判らん ただ日本の前に台湾が在るから 台湾の動向に気を付
けるべきなのに 相変わらず日本はノー天気だ」
「そんなに危ないと思うの?」
「前総裁が違法送金で逮捕された時 中国共産党の謀略だと
彼は言ったが ホントだったらどうする?」
「確かめなくていいのかね あっ!そう言えばチベットととも話
し合いが決裂したよね」
「中台が紛争になれば日本が巻き込まれるのは必至や」
「紛争になる?」
「内が混乱すれば外へ目を向けようとするやろ 中国の膨張
は止められないと思う」
「台湾を支配しても何も無いのにね」
「民主主義が怖いんや 個人主義こそが体制の敵なんや」
「アメリカのようにひっくり返っちゃう?」
「北京の傍らで選挙運動をされることが気に障る」
「なるほど」
「国家は国民の上に無いとあかんのや 国民の参政権を認めると
共産党体制は崩壊する」
「政治は政治家に任せておけってこの国と似てない?」
「ただこの国にはまだ選挙がある」
先の日米戦争で国民は多くの犠牲を強いられて、焦土と化した
街並と引き換えに、進駐してきたアメリカによって、私達は民主
主義を強いられた。民主主義は国民に主権が在る。我々は長い
間の身分社会に慣らされて、差別道徳が身に着いてしまい、自由
や平等や個人の権利を自らの手にしたことなどなかった。日本は
民主主義の国といえども、古くからの習いで身分や家柄や肩書き
が幅を利かせて、組織が優先され個人の正当な評価が歪まされて
きた。社会に蔓延る不正は、贈収賄にしろ、談合にしろ、不当な
差別にしろ、偽装やその隠蔽も、我々が見て見ぬ振りをして正そ
うとはしなかった道徳習慣だ。それは、家父長制度に始まり、長
幼の序、年功序列、男尊女卑、官尊民卑、世襲制度、家督相続、
徒弟制度、家元制度、滅私奉公、妾奉公、一子相伝、以心伝心、
火の用心、心頭滅却すれば火もまた涼し、臭いものに蓋、長い物
には巻かれろ、寄らば大樹の陰、出る杭は打たれる、白と思って
も親方が黒と言ったら黒なんだ等々、凡そ民主主義の自由と平等
からは懸離れた社会制度の桎梏に耐えて、我々は和を以って鬱陶
しいと思いながらも従ってきたのだ。そんな無辜の民が忍び難き
を忍ぶには慣れていても、「今日からあなた方は自由です」「主
権はあなた方に在ります」と言われ、飼い慣らされた首輪を外さ
れて野に放たれても、身に着いた奴隷道徳で再び権力の情けに縋
ろうと、自ら首輪を着けて飼育小屋へ戻って来たとしても仕方が
無い事なのかもしれない。こうして我々の民主主義は、人工飼育
された朱鷺のように、育てられた人工の楽園と、開発によって失
われた自然の間を右翔左翔しながら、因習への依存とそれからの
自立を繰り返してきたのだ。そして、遂に先送りにしてきた、つ
まり、アメリカに委ねてきた国防の宿題を、自ら負わねば為らな
い時が来たのかもしれない。それは、我々が学習してきた民主主
義の手続きに沿って、武力放棄するにせよ武力蜂起するにせよ、
われわれの民主主義が試される時がきたのだ。
ロシアのレーニンは、「自由は大切だ、だから平等に分け与え
なければならない」みたいなことを言ったが、我々はこの欺瞞に
反論できる先見性があるだろうか?この後、ソビエトの国民は自
由など手にしなかった。我々は理性を高める前に、権力者の言葉
の臭いを嗅ぎ分ける本能を高めるべきかもしれない。言葉は真実
を語るだけではないから。
(つづく)