(六)

2012-07-11 06:13:29 | ゆーさんの「パソ街!」(六)―(十)
                    (六)



 我々家族が、いや、娘とわたしがどうしてこんな山奥で暮らし始

めたのかその粗筋を書いたが、もちろん、その顛末はこのような二

次元で説明できるほど簡単なことではなかった。例えば小説が過去

の出来事を「騙(かた)る」ことだとすれば、微に入り細を穿って記

すことも吝(やぶさ)かではないが、そんな苦労話はネット上に誰に

も読まれなくなって埋まっているブログ小説の数ほどあるので控え

ようと思う。わたしは人々が今日を或は明日をどう生きるべきかを

考えよう。

 まず、その中心となるのは「近代文明の終焉」である。それは、

もちろん娘のことがあって意識するようになったのだが、近代文明

の最大の欠点は循環性を考慮しなかったことに尽きる。おおよそ環

境破壊をもたらす因子は循環回帰を果たせなかった物質によって引

き起こされている。わたしは学生の時に技術革新の著しい発達に感

激して、電化製品を創る製作会社へ入社しようと思った。それは、

人々を単純労働の束縛や苦痛から解放するまさに夢のような社会が

実現すると思ったからだ。電話、テレビ、クーラーなどの電化製品、

自動車、高層マンション、更には医療技術と、実際、我々は様々な

便利なものに囲まれて暮らしている。近代社会の未来には翳りなど

何一つない明るさに満ちていた。日本は止まることのない高度成長

を果たし、明日は今日よりすばらしいと信じることが出来た。もち

ろん、それまでにも公害や自然破壊が問題にならなかった訳ではな

かったが、それさえも社会を改善すれば済む程度と思われていた。

しかし、近代化の波は欧米先進国のみならず経済のグローバル化に

よって新興国へと急速に波及して、既に改善すれば済む程度を遥か

に凌駕して深刻な事態に陥っている。それは、全世界に拡大した近

代文明を維持するためにはそれよりも遥かに大きな規模の自然環境

がなければ支えられないからだ。つまり、近代文明とは自然循環サ

イクルの許容限度を越えて無制限に発展することなど出来ないのだ。

なるほど文明というのはこういう風にして衰退していくのか。我々

の物質文明は、皮肉なことに、廃棄した物質によってその終焉を迎

えようとしているのだ。

 人間にとって、誤りはただ改めればそれで物事が解決するという

ことにはならない。例えば、我々が自然環境を見直してその回復に

応じた時間で近代社会を再構築することが出来るかと言えば、もう、

我々はそんな悠長な生活に戻ることは困難だろう。すでに便利な生

活に慣れてしまい、自分一人では何も出来ないことも忘れてしまっ

て、ネットの重いサイトがアップするまでの僅かな時間でさえじれ

ったく感じたり、通話先の待機を呼び掛けるボイスレコーダーにさ

え苛立ちを覚える。我々はあまりにも便利な生活に慣れすぎて、自

分の足で歩くことさえ出来なくなって、我慢することを忘れてしま

った。文明社会への依存によって自分自身を見失い、価値そのもの

が見えなくなってしまったのだ。しかし、自分自身を見失った人間

が、手に入れた便利な生活を手放して新しい価値を求めることがで

きるだろうか。わたしとミコはその近代文明を手放さざるを得なか

った。それは実に辛いことだったが、それでもやがてその暮らしの

中で自分を取り戻すことが出来た。自分を取り戻すとは、此処にい

て他所を望まないことであり、自分自身を他人に委ねないことであ

る。そして自由になった両手で自分たちの新しい生き方、「近代」

以外の新しい価値を模索するしかなかった。

 文明社会から逃げ出さなければならなかったが、だからと言って

文明を棄て、「自然に還ろう!」とは考えなかった。それは、電器

会社に勤めていた頃から自然エネルギーの利用に関心を持っていた

からだ。エネルギーを化石燃料ばかりに依存することは環境に大き

なを負荷をかけることになると誰もが思っていた。そんな中で、国

連のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が発表した報告書(

AR4)はその不安を決定づける結果であった。地中深くで眠る恐

竜などの遺骸から抜け出した霊魂のような原油が、何億年の時を経

て、再び人間の手によって地上へ呼び戻され、近代社会の大きな力

にはなったが、一方で温暖化問題は、それらがかつて生きていた中

生代三畳紀の地球環境へ再び回帰させようと願う恐竜たちの怨念に

よって起っているのかもしれない。しかし我々は、「万物の霊長」

の名にかけて、中生代三畳紀の地球環境を甦らせて、再び地上を我

がもの顔で跋扈する恐竜の時代に回帰させてはならない。

 国連のIPCCの報告は「我が意を得たり」の想いを強くして、

水流発電機の製作に一層の励みになった。それとは別にミコの為に

無農薬野菜を作らなければならなかった。そこで水流発電機の改良

は農閑期におこなって農繁期は専ら農場で野菜作りに励んだ。不揃

いの虫に食われた見栄えの悪い野菜しか出来なかったが、ミコは安

心して口に運んだ。やがて大阪で暮らしている時、同じ過敏症の子

供を抱える親たちの会に参加していた人たちからも、是非とも分け

て欲しいと頼まれて、急に農場の作業が忙しくなった。そんな時だ

った、バロックと知り合ったのは。町へ買い物に出かけた帰り、彼

はただひとり路上でギターを抱えて佇んでいた。話し掛けるとすぐ

に同じ関西出身だと判かった。関西人は本音を包み隠さずぶっち

ゃけるので話しが早かった。彼は早速ここで働くことになった。

                                 (つづく)

(七)

2012-07-11 06:10:55 | ゆーさんの「パソ街!」(六)―(十)
                   (七)



 バロックが加わることで親子ふたりの生活は最低限ではあるが共

同体へと変化した。それまでは「0」と「1」しかなかったが、バ

ロックが来て「2」と言った。そこで、親子で分かり合えていたこ

とをバロックにも伝えなくてはならなくなった。もちろん、ミコが

抱える過敏症のことや、その結果自然循環を優先した生活を心掛け

ていることに彼も同意した上で、まずは身近なところから生活を見直

すことにした。ある日夕飯が済んだ後、わたしがふたりに提案した。

「もう便所を使わんと野に放(ひ)ることにせえへんか?」

すると、まだ箸を置いていなかったミコが悲鳴を上げて反対した。

「もう、まだ食べてんのに!」

「すまん、すまん!」

それでもわたしは止めなかった。もともと、わたしとバロックは立

小便で用を終えるが、大便も同じように野に放ろうと提案した。そ

もそも糞尿といったものは野晒しにすれば自然分解されて何の問題

もないのに、わざわざ肥溜めの中に貯め込んでしまうから処分に困

るんだ。更に、野に放れば農作物を狙うケモノたちもそれを嗅いで

警戒してきっと近づかなくなると自論を述べた。すると、ミコは、

「お父さん、私のこと全然考えてない!」

そう言って反論した。女は男のようにそう簡単に用を足すことが出

来ないし、もっとデリケートな問題もあるのだと言った。そう言わ

れると男は返す言葉がなかった。自然の中で暮らすということは、

そういったデリカシーが希薄になって来ると薄々気付いていたから

だ。デリカシーなどというのは人々の関係の中から生まれてくる。

山の中で誰とも会わずに暮らしているとそんな気遣いは無用になる。

ある時、農家の高齢の女性が畑仕事の途中に男性専用の便器のアサ

ガオに向かって見事に立小便をしているところに出くわしたことが

ある。恐らく誰も来ないと思ったのだろう。わたしは知らん顔して

その横に行って用を足す勇気はなかった。いずれミコもこんな山の

中で暮らしていればさすがに立小便はどうか解からないが、陰に隠

れて野糞をするようになるかもしれない。それを待つしかない。た

だ、わたしとバロックだけはこれから便所を使わずに野糞をするの

で、仮にミコがそのあられもない姿に出くわしても決して狼狽せず、

また軽蔑しないことを堅く約束させて合意を得た。すると、それま

で無言だったバロックが静かに口を開いた。

「それじゃあ、人は来てくれんわ」

「何で?」

「野糞をさせるようなところへはさすがに・・・」

「ちゃうねんて、その意識を変えなあかんねんて!」

「なんぼそう言うわれても変えれんもんは変えれん」

すぐにミコがバロックの応援をした、

「そうそう、動物とちゃうねんし」

バロックは気を良くして話し始めた。それは東北のある村で、都会

へ出た若者が生まれ故郷に帰省しない理由のアンケートをしたら、

その一番の理由が「汲み取り便所」が嫌だからということだったら

しい。それを聞いてわたしは我が意を得たりとばかりに、

「せやろっ!わしもさっきから言うてるやん。肥溜めに貯めるさか

いアカンねんて!」

ふたりは唖然とした。

 あまりにも品のない話しを長々と綴っていると作者のデリカシー

を疑われるのではないかと不安になってきたので、ショートカット

して結論を言うと、わたしの提案はバロックの反論にミコが賛成し

て、あっさり却下されてしまった。

 みなさんは以上の話を「詰まらないこと」と言うかもしれないが、

しかし、自然の循環機能をどう維持するかということは、詰まると

ころ、否、詰まっちゃいかんが、ウンコをどう処理するかというこ

となのだ。詰まり、産業廃棄物であれ、自動車の排気ガスであれ、

生活汚水であれ、大気中のCO2であれ、見方を変えればどれも我

々の社会が放出したウンコなのだ。環境問題とはそのウンコをどう

やって自然に還すかということに尽きる。山の中で暮らすわたし達

はほとんどゴミらしいごみを出さない。否、出ても生活のゴミは大

概自然循環へと回帰していく。ところが、毎日のようにスーパーや

コンビニで買い物をすればそうも言ってられなくなる。ということ

はゴミを発生させている主な原因は企業がつくる製品にある。毎日

大量生産される様々な製品はその末路が自然循環と繋がっていない

からだ。詰まり、製品によって賄われている消費生活とは自然循環

から断絶しているのだ。それどころか、製品とは自然から隔絶すれ

ばするほどその価値を高める。真っ直ぐな胡瓜、甘いトマト、虫も

食わない野菜といった具合に自然界に存在しないものを追い求める。

しかし、それらを買い求めているのは我々消費者ではないか。企業

は単に消費者の求めるものを供給しているに過ぎない。詰まり、自

然循環から断絶した製品は我々消費者によって量産されているのだ。

 例えば上の話のように、わたし達は催すと側(かたわ)らの草叢で

用を足す。自然の中で暮らしていれば我々の糞尿はゴミでも何でも

ない。放って置けば微生物によって自然分解され土を肥やして植物

を育てる。自然循環の中では価値は転化するが失われることはない。

ところが、東京の繁華街で催したからと植え込みの根際(ねき)で用

を足すと忽ち条例違反になって罰金を取られてしまう。小便ならま

だしも、それこそ都民の誰もが路上にしゃがみ込んで野糞をするよ

うになれば、東京は忽ち一日で汚らわしい汚名を着せられることだ

ろう。1300万都民が一年間に放出する糞尿の量は、東京ドーム

を肥溜めに例えると5杯分(?)にもなるという。詰まり、都市とは

自然循環を拒絶して創られた人工の世界なのだ。そこでは価値は瞬

(またた)く間に失われるが転化することはない。詰まり、東京ドーム

5杯分(?)の糞尿は自然循環へ回帰することなく、ただ汚物(ゴミ)

として処理される。

                                 (つづく)

[お断り] 
後段の文章は、都民が放出する糞尿の量をどうしても「東京ドーム」
何杯分かで表わしたいと思い、ただそれだけの為に書きました。
一応調べましたが「糞尿」という項目では記載されていなかった為、
正確ではありませんので参考にはなりません。

(八)

2012-07-11 06:09:57 | ゆーさんの「パソ街!」(六)―(十)
                    (八)



 近代文明の発展は言うまでもなく科学技術によってもたらされた。

研究の成果は技術革新を生み、その成果はやがて新製品として販売

され、人々はそれらを買い求めることによって新しい時代の幕開け

を予感した。しかし、21世紀に入るとその勢いも漸く衰えたのか、

例えば、テレビは薄くなったり、自動車は電動になったりと画期的

な技術革新が生まれても、テレビは薄くなったところで所詮テレビ

に変わりはないし、自動車が電動になったからといって空を飛べ

るようになった訳ではない。人々は薄くなったテレビに買い換えて

も嘗てのような新しい時代を予感することはない。何もなかった時

代の人々が新製品の購買意欲を抑えられなかった時代とは違う

のだ。今では誰も技術革新が社会を変えるなどと思っていない。

それどころか、新しい技術が自然環境を無視して開発されること

への不安さえ芽生え始めた。事実、蓄電技術や電子技術を支え

るレアアースは大地を削り地中深くまで掘り崩さなければ確保で

きないのだ。人々の環境への意識の高まりと技術革新の行き詰

まりはまるで呼応しているかのようだ。近代とは、ひとつのものを

得ればそれ以外のものを失うことを、改めて思い知らされた時代

であった。

 とは言っても、科学技術を棄てて近代以前へ後戻りすることなど

とても出来る訳がない。恐らく我々は近代文明の頂上らしき処に立

った。しかし、頂上に立つ者がジレンマに苦しむのは既に前には道

がなく、後には追従する大衆が崖を這い上がって来ることだ。頂上

に立つ者は這い上がって来る大衆を説得しようする。「下りろ!こ

の山はすでに征服された。下山して次の山を目指そう!」しかし、

頂上を目指している大衆は本より聞く耳など持たない。「お前が下

りろ!」と怒鳴り返す。この国の政治は近代社会という山の上で二

十年以上もこんな「すったもんだ」を繰り広げてきた。お陰で我々

は新しい道に踏み出すことも出来ず、辛うじて懐の路銀で凌(しの)

いで来たが、もはやそれも底を突こうとしている。ただ、山は冬の

訪れが早いことを肝に銘じなければならない。

 しかし、科学技術を自然循環と調和させようという取り組みがど

れほど試みられてきただろうか。科学とは本来自然と対立した概念

ではない。それは自然から抽象された概念である。つまり、自然循

環の中で科学技術を生かすことは不可能なことではないのだ。もち

ろん近代文明はそうして発展してきたと言うかも知れないが、資本

主義は余りにも自然から奪い過ぎた。今では月の土地まで囲ってい

る。もはや資源は無尽蔵に在るのではない。ロールエンドの赤い印

(しるし)が現れはじめたのだ。そこで、何とかしてロールペーパー

の裏の白紙を利用することが出来ないものか。そんなことをすれば

ロール紙の売り上げが半減するではないか。そうだ!経済が環境問

題の足を引っ張っているのだ。自然環境にとって経済成長との相克

は避けられない難題である。しかし、人間が生存を脅かされる環境

に晒されて、それでも経済成長を望むのだろうか。恐らく、これか

らの世界経済は地球環境の危機が叫ばれる度に後退を余儀なくされ、

一進一退を繰り返して収縮し、何れ人々は成長しない経済に飽きて

しまい、熱気を失った資本主義の賭場から有り金を磨(す)って立ち

去らざるを得なくなるだろう。つまり、無尽蔵に供給してくれた自然は

遂に巨大化した市場を支えきれなくなって枯渇し、経済成長の停滞

が「近代文明の終焉」をもたらすだろう。

 調子に乗って思っていることを述べて、自らでハードルを上げた

嫌いは否めないが、わたしが作った水流発電機はほぼ一家の電力を

賄えるまでに改良された。「ほぼ」と言ったのは川の水量で増減が

生じるし、また、他の川へ持って行けば異なった結果になるからだ。

こんなふうに自然エネルギーというのは地域によってもまた場所に

よっても天気によってもその発電量が異なってくる。例えば、西ヨ

ーロッパの平坦な国で風力発電が機能しているからといって、山ば

かりの日本に持って来ても設置工事やその後のメンテナンスに困難

が付き纏い課題が多い。更に、四季を通して風向きが変化するので

相応しいとは思えない。太陽光発電の場合も、山だらけの(山が障

害になって日照時間が減る)狭い日本では大掛かりな設置場所が

確保出来ない。つまり、自然エネルギーこそが地産地消でなければ

ならないのだ。我々は外にばかりに眼を向けるが、実は、昔から自然

エネルギーを利用していた。それは水車である。水車こそが水に恵ま

れたこの国に相応しい自然エネルギーの活用ではないのか。まった

く、何だって我々はこんなにも無駄に水を垂れ流しているのだろう。

起伏に富んだ地形があって、従って自然が設(しつら)えた落差があ

って、然も降水量に恵まれた土地であるにも拘わらず、もっと言え

ば水流からエネルギーを取り出す優れた技術があるにも拘わらず、

未だに「ゆく川の流れ」を絶えず眺めてばかりいるのだ。もしかし

て、河川を管理する河川局と水力発電所を持つ電力会社が結託し

て姑息な妨害をしているのではないかと勘繰りたくなるほど、河川

の利用は許可されない。わたしの水力発電機は河川での利用が

許可されず、またもや頓挫してしまった。この国の自然エネルギー

利用が遅々として進まないのは行政が既存の業界を守ろうとして

新参のベンチャー起業家の技術革新を阻んでいるからに他ならな

い。

自家発電を志すエコロジストたちよ!今こそ治水を名目に河川を

占有する権力者から我々の正当な利水権を奪い返そう!

さあっ!全国のエコロジストよ!立ち上がれ!

(では、皆さんご一緒に!)

「カワヲカエセ!(川を返せ!) オオ―ッ!」

あっ、また調子に乗りすぎた?

                            (つづく)

(九)

2012-07-11 06:08:46 | ゆーさんの「パソ街!」(六)―(十)
                  (九)



 農家の朝は早い。野菜の収穫出荷が始まると、都会の人が一日を

終えて漸く睡魔に両肩をマットに押し付けられた頃、我々は目覚ま

し時計のカウントを止めようと寝返って肩を上げる。しばらく夢と

現(うつつ)の間を寄せては返す波のように揺らいでいると、ひとの

一生に占める睡眠時間というのは、もしかして決まっているのでは

ないかとぼんやり思った。例えば、ナポレオンのように若い頃に眠

らないでいると、運命が、不足した睡眠を埋め合わせようとして、

彼をセント・ヘレナ島へ幽閉させ、寝てばかりの毎日を送らせたの

ではないか。ひとの一生と睡眠時間との間には何か一定の相関が成

り立つのではないだろうか。だから無理をして眠らずにいるとその

バランスを欠いて一生眠ることになってしまう。自然循環に拘り始

めると、ひとつの作用は必ずひとつの反作用を生むと思うようにな

る。睡眠に関してもその反作用は人生に現れるに違いない。その仮

説は微睡(まどろ)む自分にとっては都合の良い言い訳になった。そ

れから反対側に寝返りを打つと穢れのない眠りに落ちていった。

「お父さん!何時まで寝てんのん!」

わたしの罪のない眠りはミコの甲高い声によって穢された。きっと、

わたしの寿命はこの至福の睡眠を失ったことで相当縮まったに違い

ないと思いながら四角いリングを後にした。

 都会の人々が睡魔の追跡を脱兎の如く逃れながら、ただタイムカ

ードを押すためだけに出勤して、ところが自分の椅子に座った途端

に捕まってしまい、睡魔に身を預ける覚悟を決めて仕事にならない

まま正午の折り返しを迎える頃、我々は宛(さなが)ら亀のように這

い蹲(つくば)って働いて一日の作業を終える。身体を使った労働は

迷いのない深い睡眠をもたらし、再び動く為の力を蓄えようとする。

睡眠や食事はは良く動く為の手段である。睡眠と活動と食事のバラ

ンスの取れた循環が「自ら動く生き物」本来の姿ならば、「進化し

た」都会で暮らす人々は本来の姿から何と「退化した」生き物に堕

落したことか。何故なら、彼等は、動かない生活を望んでおり、そ

の結果、運動不足による肥満と睡眠不足による倦怠に悩まされ、今

では、良く動く為に眠るのではなく、良く眠る為に生産を伴わない

運動をしなけれならないのだ。何と倒錯した生活であるか。便利で

安楽な暮らしは動く必要がなくなり、やがて睡眠と運動の境が失わ

れ、睡眠不足と運動不足が日常化し、起きていても睡魔の呪縛から

逃れられず、寝ていても妄想が邪魔をする。それは便利な生活を望

んで「自ら動く物」としての自立した身体を退化させた証ではない

か。自らの意思で動くことは動物が手にした輝かしい宿命ではなか

ったか。やがて、道具に頼った退化した身体は繊細な感覚を失って

判断力を低下させ、創造性を欠いた怠惰な思考が「近代文明の終焉」

をもたらすに違いない。

 農作業は専らお天道様任せで、例えば、世が白み始めても惰眠を

貪るなどといった「もったいない」生活は出来なくなる。自然循環

の中で暮らし始めると、日の出前に起き日没後に眠るということが

至極当然になる。都会の檻から逃げ出して自然に戻ったわたし達は、

生きることはこんなにも空を確かめることだとはここで暮らすまで

終ぞ思わなかった。つまり、都会には壁ばかりあって空はなかった。

「お父ちゃん、私、こんばん家(うち)で寝えへんで」

ミコが晩ごはんの支度をしながら、突然そう言った。わたしは遂に

来たかと思って、あっ慌てた。

「なっなっなっなっ何でや?!」

すると、ミコは冷静に、

「お父ちゃん、いつもより『な』が一個多い」

「あほっ!ビックリさせるさかいや」

「実は、バロックと一緒に星見るねん」

「ほし?」

するとバロックが、

「ほらっ、きょう新月なんですよ、雲もないし」

「スカイツリーハウス」が出来た時からミコはそこから星を見てみ

たいと言っていたが、バロックがそれなら新月の今夜ということに

なったらしい。わたしは若い二人がただ星を見るだけで済むとは思

わなかった。

「せやから、いつもより早よごはんにするわ」

わたしは冷静を装って普段の会話に戻った。

「何するんや」

自給自足に近い生活をする者は「何が食べたい」とは決して言わな

い、言っても食べられないから。まず、畑に何ができているかを見

て、それからどんな料理が作れるか考える。もちろん我が家には冷

蔵庫もあるし、何もかも自給しているわけではない。どうしても食

べたければ取り寄せることだって出来る。実際、調味料などは流通

する商品を買っている。しかし、堂々とオーガニックを謳いながら

ミコが体調を壊した怪しい商品は幾らだってある。だったら勢い自

分たちで作ることになって、今ではお茶はもちろん味噌や醤油に至

るまでも、ミコが昔からここで暮らす婆さん達に教えてもらって作

り始めた。彼女は買うものだとばかり思っていたものが自分で作れ

ることを知って、「面白い」と言った。

「素麺」

「あっ、手抜きや」

「違う!手延べや」

さすがに素麺までは自家製ではなかったが、添える天ぷらの野菜を

油に潜らせる音がして、すぐに小麦粉が衣に変わる香ばしい匂いが

部屋中に広がった。

「お父ちゃんも来る?」

ごはんの最中にミコが思い出したようにわたしに聞いた。その聞き

方は如何にも来ないことを確かめようとしていた。すると、バロッ

クが、

「せや、ゆーさんも一緒に見いひん?」

「あかんわ、帳簿付けな、溜まっとんのや」

「お父ちゃん、言うてたもんな、あんなとこに上ったかってナンボ

も変わらへんって」

「あほっ、言うな!」

「いや、ほんと、ただ、ちょっと視界が広がるくらいのもんやわ」

バロックがわたしが陰で言ったことを弁護してくれた。わたしは、

夕飯を済ましたテーブルにワザとらしく帳簿を持ってきて、然も忙

しそうに演じたが、帳簿の数字など全く頭の中に入らなかった。新

月の夜は、日没を過ぎれば途端に漆黒の闇に沈むので、ふたりは慌

てて持ち出す物をバックに詰め込んで家を飛び出し、猫背山の「ス

カイツリーハウス」へと道を急いだ。

                                                            (つづく)

(十)

2012-07-11 06:07:28 | ゆーさんの「パソ街!」(六)―(十)
            (十)



 ミコの居ない夜は長かった。様々なシナリオが頭を過ぎって一つ

に決められない脚本家のように落ち着くことが出来なかった。一升

瓶の封を切って自分自身を喪失しようと試みたが、肝心の心の痛み

を消すことが出来なかった。気を紛らすためにテレビをつけたら、

バラエティー番組で、喧しいタレントが東京の歓楽街にある居酒屋

の人気料理にまつわる秘密を、お店が渋るのを説き伏せて今回初め

て取材に応じてくれて公開できることになったので、それをクイズ

にしてゲスト回答者が答えるという趣向だった。しかし、夜に出歩

くものといえば専ら山から下りてきた獣たちが、田畑の実りを狙っ

て我がもの顔で駆け回るばかりの山奥で暮らすワシ等が、何で東京

の居酒屋の人気料理の秘密を知らなければならないのか。

「そんなもん知るかいっ!東京だけが日本ちゃうぞっ!」

そう叫んでテレビを切った。全くこの国ときたら平安の古より未だ

に都の流行(はやり)ものであれば何であれ田舎者はすぐ跳び付くと

思っているに違いない。こんなバカげた番組を安直に垂れ流す地元

の放送局に腹が立ってきて、さっそく文句を言ってやろうと思って

電話を取ろうとしたら、突然呼び出し音が鳴って、反対に向うの方

から謝ってきたか、と訝(いぶか)りながら受話器を取ると、

「お父ちゃん、もう寝た?」

ミコが携帯電話で掛けてきた。

「いっいっいっいま寝るとこや。そっち寒いやろ、風邪ひくなよ」

「うん。それよりか、お父ちゃん!ものすっごい星いっぱい見える

で!」

「そうか、それはよかったな」

「こんど、お父ちゃんも来たらええわ」

「うん、そうする」

「お父ちゃん、早よ寝えや」

「うん、そうする」

 ミコの声を聞くと思っていたことの一つも言えなくて、棘立った

苛立ちも萎え痛みも消えて、側にあるソファで寝てしまった。

 朝ぼらけ、バロックと連れ立って戻ってきたミコの第一声は、

「お父ちゃん!何で布団で寝えへんかったん」

ソファで横になっているわたしを見てそう言った。

「ナンヤ、ガエッデギダンガ(何や、帰って来たんか)」

「何や!その声っ、ダースベイダーみたいや!」

わたしは何も掛けずに寝込んでしまった為、風邪をひいてしまった。

「カゼ、ヒイダ、ガモシレン。ゴッ、ゴッホ!」

「アホやな、もう今日は部屋で寝とき」

ミコのことばに頷いて、シッポを巻いて自分の部屋へ退散した。ふ

たりに変わった様子はなかったが、わたしが変わってしまったので

二人の間に何があったのかそれ以上のことは窺い知る事が出来なか

った。

 だが、そもそも恋愛感情とは動物本能の性衝動である。人が異性

を好きになるのに理由はない。ああだこうだ言う説明はあと講釈に

すぎない。だから、彼女自身も自分の思い通りにならない感情に戸

惑っているに違いなかった。やはりそれは、口には出さなかったが

彼女が抱える身体の不安が大きいのだと思う。いわゆる普通の生活

を尽(ことごと)く奪い取られた思春期の辛い体験は、彼女の想いを

躊躇(ためら)わせるに余りあるものだった。しかし、どんな理由で

あれ感情を押し止めて逃げてしまえば自分自身を失うことになる。

自己とは理性に宿るのではない本能に宿る。何故なら、理性は改ま

るが本能は改められないではないか。自分の想いから逃げないでバ

ロックと向き合い、隠さずに話し合えば、彼の本能に届いて受け止

めてくれるだろう。ただ、彼女は頭の良い子だから、自分のことが

彼の負担になることを怖れて彼の身になって考えようとするかもし

れないが、何度も言うが、本能を理性で封じてはいけない。自己を

本能以外に求めれば、やがて自分自身を見失い、自分以外の大きな

理性に従わざるを得なくなる。自分自身を客観的に見つめる事はも

ちろん大切だが、主観を失った客観に一体何の意味があるだろう。

本能を失って、生きることの哀しみや歓びを実感することができる

だろうか。今の社会のこの閉塞感は余りにも理性ばかりを重んじて、

活きることの歓びを生む本能を封じたことによるのではないだろう

か。バロックも自分自身と向き合って何が大切であるか良く解かっ

ているはずだ。そうでなければ人を避けてこんな山奥で暮らそうと

は思わないだろう。ミコは今、わたしの子供としてではなく、ひと

りの女性として逃れることのできない葛藤と斗っていた。そして、

わたしもまた、こどもの恋愛に親が顔を出すことの愚を堅く自分自

身に戒めながら、余計な親心の葛藤と斗っていた。

「お父ちゃん、クスリ持ってきたで、早よ飲み!」

「アリガドウ、ゴッ!ゴッ!」

「もう、分ったからしゃべりな!はい、お水!」

「・・・」

 蒲団の中で横になっていると、わたし達の暮らしが本当に正しい

のか不安になってきた。もちろん、ミコはここで暮らしている限り

症状も治まり健康を取り戻しているが、それでも、友だちも居ない

こんな山奥に年頃の娘を隔離してしまっていいのだろうかと、親と

して娘の幸せを想うと複雑な思いがどうしても残った。華やかな都

会で暮らす彼女と同じ年頃の娘たちから見れば、到底耐えられない

暮らしに違いなかった。もちろん、彼女も同意して移ってきたが、

もう一度ミコの意思を確認しなければならないと思った。

 ただ、わたしはもう都会で暮らしたいとは思わなかった。退職を

考えるまでは思いもしなかったが、会社勤めのわたしの一生は随分

前から決められていた。早期退職者の募集に応じて、詳しい説明を

受けていると、もし、会社に留まったとすれば、定年を迎えて老後

を安穏に過ごし、やがて自分が棺桶に納まるまでの先がはっきりと

見えてしまった。その時、わたしの残された選択は、今まで通り線

路の上を走り続けて大人しく棺桶に納まるか、それとも脱線するか

しかなかった。ただ、わたしは自分が棺桶に納まるまで見通せる先

の決った道を選びたくなかった。様々な手続きを終えて、保険を解

約する時に道を外れたことを実感した。始めは大きな不安に苛まれ

たが、ミコの身体の為なら仕方のないことだと覚悟を決めると、周

りを気にしながら他人と同じように生きてきたことが寧ろ馬鹿らし

く思えてきた。今、わたしが歩いている道は曲がりくねっていて、

その先に用意されている筈の棺桶は未だ見えない。

                         (つづく)