(六)
我々家族が、いや、娘とわたしがどうしてこんな山奥で暮らし始
めたのかその粗筋を書いたが、もちろん、その顛末はこのような二
次元で説明できるほど簡単なことではなかった。例えば小説が過去
の出来事を「騙(かた)る」ことだとすれば、微に入り細を穿って記
すことも吝(やぶさ)かではないが、そんな苦労話はネット上に誰に
も読まれなくなって埋まっているブログ小説の数ほどあるので控え
ようと思う。わたしは人々が今日を或は明日をどう生きるべきかを
考えよう。
まず、その中心となるのは「近代文明の終焉」である。それは、
もちろん娘のことがあって意識するようになったのだが、近代文明
の最大の欠点は循環性を考慮しなかったことに尽きる。おおよそ環
境破壊をもたらす因子は循環回帰を果たせなかった物質によって引
き起こされている。わたしは学生の時に技術革新の著しい発達に感
激して、電化製品を創る製作会社へ入社しようと思った。それは、
人々を単純労働の束縛や苦痛から解放するまさに夢のような社会が
実現すると思ったからだ。電話、テレビ、クーラーなどの電化製品、
自動車、高層マンション、更には医療技術と、実際、我々は様々な
便利なものに囲まれて暮らしている。近代社会の未来には翳りなど
何一つない明るさに満ちていた。日本は止まることのない高度成長
を果たし、明日は今日よりすばらしいと信じることが出来た。もち
ろん、それまでにも公害や自然破壊が問題にならなかった訳ではな
かったが、それさえも社会を改善すれば済む程度と思われていた。
しかし、近代化の波は欧米先進国のみならず経済のグローバル化に
よって新興国へと急速に波及して、既に改善すれば済む程度を遥か
に凌駕して深刻な事態に陥っている。それは、全世界に拡大した近
代文明を維持するためにはそれよりも遥かに大きな規模の自然環境
がなければ支えられないからだ。つまり、近代文明とは自然循環サ
イクルの許容限度を越えて無制限に発展することなど出来ないのだ。
なるほど文明というのはこういう風にして衰退していくのか。我々
の物質文明は、皮肉なことに、廃棄した物質によってその終焉を迎
えようとしているのだ。
人間にとって、誤りはただ改めればそれで物事が解決するという
ことにはならない。例えば、我々が自然環境を見直してその回復に
応じた時間で近代社会を再構築することが出来るかと言えば、もう、
我々はそんな悠長な生活に戻ることは困難だろう。すでに便利な生
活に慣れてしまい、自分一人では何も出来ないことも忘れてしまっ
て、ネットの重いサイトがアップするまでの僅かな時間でさえじれ
ったく感じたり、通話先の待機を呼び掛けるボイスレコーダーにさ
え苛立ちを覚える。我々はあまりにも便利な生活に慣れすぎて、自
分の足で歩くことさえ出来なくなって、我慢することを忘れてしま
った。文明社会への依存によって自分自身を見失い、価値そのもの
が見えなくなってしまったのだ。しかし、自分自身を見失った人間
が、手に入れた便利な生活を手放して新しい価値を求めることがで
きるだろうか。わたしとミコはその近代文明を手放さざるを得なか
った。それは実に辛いことだったが、それでもやがてその暮らしの
中で自分を取り戻すことが出来た。自分を取り戻すとは、此処にい
て他所を望まないことであり、自分自身を他人に委ねないことであ
る。そして自由になった両手で自分たちの新しい生き方、「近代」
以外の新しい価値を模索するしかなかった。
文明社会から逃げ出さなければならなかったが、だからと言って
文明を棄て、「自然に還ろう!」とは考えなかった。それは、電器
会社に勤めていた頃から自然エネルギーの利用に関心を持っていた
からだ。エネルギーを化石燃料ばかりに依存することは環境に大き
なを負荷をかけることになると誰もが思っていた。そんな中で、国
連のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が発表した報告書(
AR4)はその不安を決定づける結果であった。地中深くで眠る恐
竜などの遺骸から抜け出した霊魂のような原油が、何億年の時を経
て、再び人間の手によって地上へ呼び戻され、近代社会の大きな力
にはなったが、一方で温暖化問題は、それらがかつて生きていた中
生代三畳紀の地球環境へ再び回帰させようと願う恐竜たちの怨念に
よって起っているのかもしれない。しかし我々は、「万物の霊長」
の名にかけて、中生代三畳紀の地球環境を甦らせて、再び地上を我
がもの顔で跋扈する恐竜の時代に回帰させてはならない。
国連のIPCCの報告は「我が意を得たり」の想いを強くして、
水流発電機の製作に一層の励みになった。それとは別にミコの為に
無農薬野菜を作らなければならなかった。そこで水流発電機の改良
は農閑期におこなって農繁期は専ら農場で野菜作りに励んだ。不揃
いの虫に食われた見栄えの悪い野菜しか出来なかったが、ミコは安
心して口に運んだ。やがて大阪で暮らしている時、同じ過敏症の子
供を抱える親たちの会に参加していた人たちからも、是非とも分け
て欲しいと頼まれて、急に農場の作業が忙しくなった。そんな時だ
った、バロックと知り合ったのは。町へ買い物に出かけた帰り、彼
はただひとり路上でギターを抱えて佇んでいた。話し掛けるとすぐ
に同じ関西出身だと判かった。関西人は本音を包み隠さずぶっち
ゃけるので話しが早かった。彼は早速ここで働くことになった。
(つづく)