つい最近のニュースで、理化学基幹研究所と東大による国際チー
ムが、「反」水素原子を1000秒もの間、真空装置の中で発生させるこ
とに成功したと報じた。「反」物質とは、宇宙誕生のビッグバンによ
って様々な物質とそれとは対称の「反」物質が生まれ、直ぐにそれぞ
れは結合して光を放って消滅した。ところが、非対称性によって結
合できなかったわずかの物質が消滅を免れて宇宙は誕生した。つま
り、世界は「結合・消滅」から取り残された物質によって生まれた。
つまり、存在とは「無」=「絶対」からの逸脱によって生まれたのだ。
理論上では、物質には「結合」を果たせなかった「反」物質が存在し、
それはあくまでも理論上の結論としてこれまで実際に「反」物質の存
在が確かめられたわけではなかったが、何と!その「反」物質である
「反」水素原子を発生させることに成功したというのだ。当然、原理
に従えば「反」水素原子は水素原子と結合すれば光を放って消滅する
だろう。私は小説「パソコンを持って街を棄てろ!」で、当時、ノ
ーベル物理学賞に選ばれて脚光を浴びていた小林・益川理論に興味
を持って、世界が「無」=「絶対」からの逸脱によって生まれたことに
感動して話を作った。「存在」とは「結合・消滅」=「絶対」から取り残さ
れた片割れから生まれ「絶対」=「無」から取り残されて在る。だから、
宇宙は喪失した「反」宇宙を求めて彷徨っているのかもしれない。つま
り、「存在」とは「反」存在を喪失した不安定な状態で、失った「反」存在
を求めているのだ。「存在」は「結合・消滅」=「絶対」を果たせなかったが
故に、絶対を追い求めているのではないだろうか?つまり、「存在」とは
「結合・消滅」=「無」=「絶対」に対する強い憧れと怖れの複雑な撞着に
揺れながら、その撞着こそが、もしかしたら、我々が精神と呼ぶものの
原点で、その精神を生むと思われている理性や感情でさえも、存在の撞
着に由来している、ということはないのだろうか?
つまり、我々の存在に対する逡巡は存在の撞着がもたらす逡巡そのも
のではないだろうか?
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