「世界限界論と力への意志」
(一)
我々の理性は生成そのものに与かることはできない。つまり、我々の理
性は「命を認識することができても、命そのものを作ることはできない」
したがって、我々の理性は「生成としての世界」を読み解くことができず
、必然的に「ニヒリズム」に陥らざるを得ない。つまり、いずれ死滅して
しまう生成としての存在はそもそも「意味はない」、それが理性の結論で
ある。だから「生きる意味がない」と言って死ぬのは認識論としては間違
っていない。ただ、そもそもすべての存在に意味がある訳ではない。世界
には意味のない存在は無限にあるし、それどころか世界そのものの存在で
すら何の意味も無いかもしれない。ただ、理性の限界を超えたところに生
成としての存在の本質があるとすれば、理性的認識だけで存在の意義を判
断するのは誤りなのかもしれない。いや、そもそも固定化した「本質」と
いう思考こそが変遷流転する生成の世界を捉えられないのだ。何れにしろ
「我々の理性は生成としての世界を捉えられない」、これがニーチェ形而
上学の結論であり、そしてそのニヒリズムから如何にして脱け出すかが彼
が説く「生成の哲学」であり、それはニヒリズムを超えるための超人思想
なのだ。
さて、世界とは変遷流転を繰り返す生成であり力への意志であるとする
なら、固定化した世界は生成にはそぐわない。ところが、いまや近代社会
はグローバリゼーションによって地球全体が征服され「外部」を失い、そ
の結果、環境、資源、人口など様々な問題が限界に達したまま解決できず
に固定化し、存在者は力への意志による新たなパースペクティブが他者と
重なり合って思うように展開できず、国家同士でも様々な軋轢が生まれ始
めている。もはや世界はそれぞれの自由を認めるほどの余裕はなく、それ
ぞれの生存を認めるために規制しなければならない時代へと転換されよう
としている。すでに先進諸国では社会生活を営む上で様々な個人の自由が
制限されているが、唯一経済活動だけが自由を認められることは許されな
くなるに違いない。つまり、成長の限界に達したグローバリゼーションの
下では、遅からず自由主義経済は制限されるだろう。もしも限られた世界
の下で、経済だけは自由競争が認められるなら奪い合いが始まるのは必然
である、限られているのだから。すでに世界はグローバリゼーションによ
って、地の果てまでも近代化の波が及び、空白が埋められた世界は開放系
から閉鎖系へと転換したのだ。
(つづく)