(七十一)
「個展をやらない?」
画廊の女社長から電話があった。私は一瞬喜んだが、すぐ、分に
過ぎる話しだと思った。
「まだ無理ですよ!」
と言った後で、「まだ」と言った事が恥ずかしくなった。そこで
散々言い訳をしていると、痺れを切らした女社長が、
「やりたいの、やりたくないの、どっち?」
と言ったので、私は、
「やりたいです!」
と恥ずかしがらずに言った。
「じゃ、こっちへいらっしゃい。」
女社長はやさしくそう言って電話を切った。
私は早速こんな日の為に量販店で買ったスーツを着て、前回の
ような無重力体験はするまいと、ネクタイを締め、下ろしたての
革靴に足を入れると、まるで宇宙服を着ているような不自由さを
感じた。着慣れない宇宙服に手間取っていると、約束した時間に
は間に合わないことが判った。仕方が無いのでタクシーを拾って
画廊へ向かった。
「急ぐようでしたら首都高使います?」
と言うドライバーの誘いに乗って、ネクタイで締められた喉元が
気取って「ええ。」と洩らしてしまった。ところが、間もなく出
口だという所で車の流れがバッタリと止まり、
「どうも事故みたいですね、動きませんわ。」
と他人事みたいに言われた時には、ドアを開けて拘束道路を走ろ
うかと思った。女社長にK帯をして事情を説明すると、彼女も急
ぐので出掛けるが、事務員が応対するとのことだった。
約束の時間に大幅に遅れて画廊へ入ると、女社長は既に居なか
った。油絵が隙間無く並んだギャラリーの奥で、事務の女性が私
を待っていた。私が謝ろうとすると彼女は気さくに、
「いい、いい。」
と何度も手を振りながら言った。私は救われた気持ちで、
「社長は、何処へ行かれたのですか?」
と聞くと、女事務員はことも無げに、
「フランス。」
と言った。
「フッ、フランス!」
その女事務員に依れば、女社長は年に数回はフランスに行くら
しい。もちろん仕事らしいが、日本では無名の画を持って行き、
馴染みの画廊に預けて、そして向うの目ぼしい画を買って戻るの
だ。フランスは今や日本ブームで、こっちでは価値の無い掛け軸
や版画が驚くような高値で売れるらしい。さらに、向うでは贋作紛
いの絵画が日本では儲けを荒くしても捌(さば)けるというのだ。
事務員はまるで阿漕(あこぎ)な商売を告発するかのように密か
に教えてくれた。女社長とは差の無い年恰好だったが、それでも
女社長に気を遣ってかかなり地味な身なりだった。ただ驚くほど
ざっくばらんな女性だった。
「コーヒー飲む?」
私が何も言わない内に、
「いいのよ、気い遣わなくっても!」
「それじゃあ、頂きます。」
私は完全装備の宇宙服が全く役に立たなかったことに虚しさを覚
えたが、更に彼女のくだけた応対がその虚しさを際立たせた。
「タバコ吸っていい?」
女事務員が聞いてきた。
「あっ、いいですよ。」
「貴方、吸わないの?」
「今は止めてます。」
「あらっ!じゃあ吸ったらいけない?」
「いいえ、構いません。どうぞ吸ってください。」
私はマンガを描いている頃にタバコを吸わずに居れなくなり、徹
夜をして朝方には頭が暈やけているのが分かるようになってから
は何度も止めた。つまり禁煙することが出来なかった。ただ、出
先とか絵の仕事をしない時は我慢が出来た。
彼女は私の前でタバコを燻らせながらテーブルに契約書を広げ
て個展の説明を始めた。個展は三ヵ月後だった。あらましの説明
の後サインを求められた。
「驚いたでしょ、個展するなんて。」
「ええ、」
「暇なのよ、ずーっと。」
「それで!」
彼女が言うには、この夏以降、急にギャラリーの予約が減ったら
しい。空けたままでは勿体無いので、普段は貸さない値段で勧め
ているがそれでも埋まらなかった。「それで!」私はもう一度言
った。恐らく今のところ私の後には誰も借りる者が居ないのだ。
それでも、女社長は水墨画に関心の高いフランスなら私の画でも
売れると踏んでいるらしい。だから今回のフランス便には私の画
も送ったという。つまり日本では儲けにならないが、フランスな
ら騙せるという魂胆なのだ。女社長が私に「売るのよ!」と言った
意味が解った。
「期待されてんだから、頑張って。」
ただ、経歴が薄いから個展の一度くらいはした方がハッタリが
掛け易いということで決まったのだ。私の個展はアリバイを作
る為のものだった。つまり、極道が箔を付ける為にムショに入
るようなものだった。私はもう何も言わずにネクタイを緩めて
、彼女から貰ったタバコを何日振りかで吸った。
(つづく)