(六十六)
バロックからメールがきた。
「連絡せんとゴメン 元気?
事情あって路上しばらく止める」
「えっ!どうしたの?」
彼の「みちのおく」双六は、コマを進めて三つ目の県に入って
いた。彼はそこで初老の男と知り合いになったらしい。、いつも
通りに繁華街の近くでギターを弾いていると、バックを肩に掛け
た身なりの怪しいその男がやって来た。その男は、年の割には長
く伸びた白髪が黒髪を征服していて、メガネを真ん中で折ったそ
の片方だけを右目に掛け、耳に掛かる縁をこめかみにガムテープ
で止めていた。すぐに浮浪者と思ったが、夏目漱石の旧千円札を
差し出して、最近の歌を聞かしてくれと言った。バロックが最近
の歌は弾けないと素っ気なく言うと、その男は、それでは何でも
いいと言うので、彼はボブ・ディランを歌った。バロックの前で
蹲って静かに聴いていた男は、よっぽど懐かしかったのか、やが
てバロックと一緒になって唄い始めた。バロックにとってもその
場所はその日が始めてで、その男以外に人がさっぱり寄らなかっ
た。いや、その男の所為で寄らなかった。次第に打ち解けて何度
か言葉を交わすうちに、その男も関西出身だと判った。
「おっちゃん、メガネの片方を忘れてるよ。」
「あっ!これっ、ちゃうねん。」
その男は若い頃からメガネを掛けていたが、片方の目が網膜剥離
で見えなくなった。仕方が無いので病院へ行くと、すぐに手術す
ることになって完治したが、その眼の視力だけが良く為ってしま
い、メガネが要らなくなったので折ってしまった、というのだ。
バロックは、話しをしている内にそのヘンテコな男が気に入った
らしい。
その男は、バブル絶頂の大阪で、土地で思わぬ大金を手にした
と言う。その後も銀行が勧める投資話の皮算用に欲が騒いだが、
誰もが仕事そっちのけで投機に血眼になり、荒っぽい地上げのニ
ュースを見て、大手銀行の頭取が「過去の脛傷は問わない」と発
言したのを聞いて、まるで、悪徳高利貸しが極道と組んで、無辜
の人々の土地を二束三文で立ち退かせて儲けようとするヤクザ
映画のような話しに憤慨し、誇りを失った浪速商人の性根に失望
した。人情に厚い浪速の庶民文化は終わった。彼は、彼のカネを
目当てに集ってくる者から逃げる為に、勤めていた電気会社も辞
めて大阪を棄てた。
「こんなとこまで?」
「嫁さんの里やったんや。」
そこで、しばらくは何もせずに日がな渓流釣りで遊んでいる時、
川の流れを見ていて水力発電機を作ろうと思ったらしい。初めは
船外機を転用した簡単なものだったが思いのほか上手くいった。
しかし、船外機のスクリューでは限界が見えていた。彼は、一般
家庭の電力消費を賄える発電機を考えていた。そこで、研究を重
ねて大体の青写真は描けたが、ところが、それを実際に作るとな
ると様々なデッドロックが待ち構えていた。そこで彼は、奥さん
には何の相談もせずに、先の暮らしの為に蓄えてあった貯蓄を崩
して、山の中の渓流の傍に工場を造ってしまった。怒った奥さん
は呆れ果てて彼をおいて家を出た。それでも彼の発電機への熱意
は冷めず、実験と失敗を繰り返して、ついにコンパクトにして能
力の優れた水力発電機の試作品が出来た。それ一台で一家の電気
が全て賄える訳にはいかないが、それでも既存の発電機の二倍以
上の発電能力があると言う。彼は工場の側の畑で自給自足の暮ら
しをしながら、ほとんど工場に籠っていたが、今日はメガネを作
る為に久し振りに街に出て来た。
「ヘ―っ、すごいな!ちょっと見てみたい。」
バロックの何気ない言葉が、その男の、人に見せたい思いと繋が
ってしまった。
「見る?」
「えっ!ええっ?」
「見てくれる!」
「ああっ、いいですよ。」
この「いいですよ」は「結構です」という意味なのか「承知しま
した」なのか判然としなかった。それで結局、バロックはその男
が作った発電機を見に行くことに為った。その時はそんな山の中
だとは夢にも思ってもいなかったのだが、人里離れた工場へ連れ
て行かれた。
(つづく)