「生まれ出づる歓び」
(三)
最後に佐藤と会ってから半年余り経って、もちろんデンワやメールの
やり取りは頻繁にしていたが、彼の方が忙しくなって再会する機会がな
かった。彼は、目が開いているうちは昼夜を問わずパソコンのモニター
画面ばかり見ているとぼやいた。ところが、年が改まって早々に彼から、
「できた!やっと完成した!!!」
というメールが来て、これまで彼が取り組んできた新しいソフトが出来
上がったことを知った。すぐにデンワをして「おめでとう」と言うと、
彼の方から祝杯をあげようと言い出して、早速その日の夜に会うことに
なった。少し遅れていつもの居酒屋に入ると、すでに彼はいつもの席で
いつもの「とりあえずビール」を呷っていた。二人とも会社員だったが
、彼はソフト開発に伴う幾つかの著作権を持っていたので、彼の方がは
るかに所得は多かった。だから勘定はいつも彼が気前よく払ってくれる
ので、おれは財布の中を気にせずに彼の誘いに従った。ただ、彼は酔い
が回ってくると愚痴っぽくなったが、それを聴いてやることも勘定の中
に入っているんだと思って付き合った。ただ、その夜は念願だった仕事
をやり終えた後だったので、彼は終始上機嫌で雄弁だった。
「近代社会も成熟してくると敢えて社会の仕組みを変えるような改革は
しづらくなる。そんなめんどくさいことをしなくたってそれなりに快適
に過ごせるから」
彼の世間に対するシニカルな見方におれは心の中でまた始まったと思っ
たが、付き合うしかなかった。
「ぬるま湯から脱け出せないってことだろ」
「だってあれほど熱心に首都を移転させると言ってたのに、結局何も出
来なかったじゃないか」
「あったよな、そんなこと」
「変わらない社会の枠組みの中で俺たちの選択肢はどんどん限られよう
としている」
「・・・」
「それって実は管理する者にとっては扱い易いんだよね」
「バラツキがなくなるもんな」
「それにAIによって管理社会はますます進んでいくだろう」
「おれもそうだと思うよ」
「それってさ、実は家畜と同じなんだよね」
「ちょっとそれは言い過ぎだろ?」
「いや、おれたちは今回のプロジェクトで何度も人はどっちを選択する
かのシュミレーションをやったんだ。たとえば、快適と不快なら当然誰
もが快適を選ぶだろ」
「まあそうだよね」
「じゃあ快適と正義ならどっちを選ぶ?」
「ちょっと抽象的すぎて選べないよ」
「だったら、サイフを拾ったらほとんどの日本人は警察へ届けるよね」
「うん」
「じゃあ、裸のままの現金を拾ったらどうする?」
「たぶん金額によると思うけど、千円程度ならネコババするかもしれな
いね」
「それってどうしてだと思う?」
「そりゃあ足がつかないからさ」
「だったら裸のままの一億円を見つけたらどうする?」
「それはいくら何でも足がつくから届けるだろ」
「つまり個人的な快適と社会的道義のどちらを選ぶかは状況の違いによ
ってその選択も変わるってことだよね」
「まあそうだ」
「社会の中で暮らしている限りは社会的道義に従うけれども、社会的道
義が問われなければ快適の方を選らぶってことだろ」
「そうだな」
「そこで俺たちは個人の意識を本能が支配する個人的自我と、理性が支
配する社会的自我に分けたんだ。それを俺たちはバイセルブスって呼ん
でるんだけど」
「それって本音と建前ってことじゃないの?」
「ま、そうだけど、何て言うかその距離感がまったく違う」
「距離感?」
「実際もう誰も本音なんかで生きてないからね。二―トかヒッキ―くら
いしか」
「そうかな?」
「だって社会が巨大化して個人の欲望なんてすべて満たしてくれるから
卑屈な自己意識しか生れてこない」
「だけど社会から外れたからって自由に生きることなんて出来ないしさ
」
「自由って言うけどそれって社会的自由でしかないからね。リードを外
されているかもしれないけれど首輪は着けられたままなんだ」
「でも、仮に社会を捨てたとしても、生きていくためにははやっぱり食
うこととか住む処とかに縛られるんだから、それって同じことじゃない
の」
「同じじゃないさ、どれほど独りで自由を持て余したとしても、ケツの
穴まで洗ってくれる便器なんて思い付かないさ。俺たちはもうこの快適
な暮らしから遁れられなくなってしまって家畜化しているんだ」
「確かに文明の進化が人間を退化させるというのは分るけど、だからと
言って文明を棄てて自然に還ることなんて絶対出来ないよ。たとえば温
暖化問題だってさ、このままだと百年後にはとんでもないことになるっ
て言われても、とりあえず今は大丈夫だと言ってるようなもんだから誰
も変えようなんて思わないさ」
「特に日本人は事なかれ主義だからね。敢えてぬるま湯から抜け出そう
なんて思わない。首都移転にしてもさ、ダメもとでもいいからやっちゃ
えば良かったんだよ。東京の一極集中なんて前から分ってたんだしさ」
「いや、絶対出来っこないって!だって、いくら理屈で解っていても最
後は情緒が決めるんだからこの国は。変われるわけがない」
「ただ、管理する者は設定が変わってしまうことを嫌がるんだよね。蓄
積したデータが使えなくなるから」
「まあそうだろうな」
「俺たちさ、まあ大したデータを基にして他人の将来を予測しているわ
けでもないけれどさ、たとえば医者になるためには当然資格が要るし、
そのためには医学部を出なければならないし、まあそこまで行けばガチ
なんだけど、その後はもちろんそれぞれの能力にもよるけれども、まあ
大体の年収や生活レベルの範囲って出てくるじゃない」
「うん」
「それで学歴や資格以外にもよくある適職診断のアンケートにも答えて
もらって、その診断から組織の中でどの程度信頼されるかまでリサーチ
して適性業種を出して、さらには本人の生活習慣はもちろん両親の既往
歴までも答えてもらって本人の寿命までも予測してるんだ。すべて答え
ると100問あるんだけど、もちろん拒否もできるけど。っでさ、寿命
って母親の方の寿命が遺伝するって知ってた?」
「ああ、どこかで聞いたことがある。でもさ病気になってしまえばどう
にもならないだろ」
「そうなんだ。俺の親父はガンで死んでしまったからな、ガン家系なん
だよ」
「それでお前もガンで死ぬって出たのか?」
「ああ、親父と同じ60で」
「信じているのか?」
「っていうかある程度覚悟はしている」
「それで別の人生なんて言い出したのか?」
「まあそうだ」
(つづく)