「明けない夜」
(十)―⑩
あまりにも痛ましい話にどう応じていいのか分からず黙って聞いてい
たが、彼女がビールを飲み終えるとわたしは立ち上がって、
「もう一本飲みますか?」
と、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出して差し出すと、彼女は「ありが
とう」と言って二本目の缶ビールのプルタブを開けた。そして一口流し
込むと、
「誰かに追い駆けられる夢って見たことあります?」
と聞いた。私は、
「あ、子供のころに何度か見たことがある。おれ、実は走るのが遅くっ
て運動会とか苦手でさ、どうすれば速く走れるのか悩んでいた時に、い
くら足を動かしても全然前に進まない夢をみたことがある」
「へえー、あるんだ。わたしね、足が悪くなってからいつも誰かに追い
駆けられる夢を見るの。それで必死に逃げようとするんだけれどまった
く足が動かないの」
「それで」
「んーん、ただそれだけなんだけど、焦っているうちに目が覚めて気が
つけば体中が汗びっしょりになってる」
「ふーん」
「不自由な身体って言うでしょ、目が覚めた時にわたし体の自由を失っ
たんだと実感した。自由っていうのは思い通りに動けることなんだと思
った」
「なるほど」
「でも、街を歩くと他人の同情的な視線に耐えられなくなって出歩けな
くなってしまった」
「辛かったでしょうね」
「それで人目の少ない夜に出歩いていると、昼と夜の生活が逆転してし
まって、するとどんどん社会から取り残されて、いったい自分は何のた
めに生きてるのか、生きてる意味がわからなくなった」
「・・・」
「それから三年くらい部屋に引き籠って死ぬことばかり考えていた」
「でも死ななかった」
「ええ、死ねなかった」
「あなたは強い人ですね」
「えっ、強い?」
「ええ、そんなに辛い目に遭っても死ななかった。つまり自分に負けな
かった」
「自分に負けなかった?」
「だっていま生きる意味がわからなくなったって言ったじゃないですか。
生きる意味がわからなくても死ななかった」
「でもそれって強いのかしら」
「命が自分の思い通りになるなら、たぶん人間なんてとっくの昔に絶滅
しているよ。何のために生きているのかわかって生きている者なんて誰
も居ないんだから」
「じゃあ、みんな何のために生きているのかわからずに生きているの?」
「あなたがこうして生きていることに意味があって、何かのために生まれて
来たわけじゃない」
(更新優先で、つづく)