(百六)
横で眠っているサッチャンの無防備な寝顔をしばらく見ていた。
恐らく、私はサッチャンの服装に言及しなかったが、それは私に知
識がなくて出来なかった。私風に言うと、彼女はレジ袋のような白
い帽子をスッポリと被り、顔より大きなサングラスを掛けて、彼女
はヒット曲もある歴っきとしたミュージシャンなのだ、薄いパープ
ルのシャツの長い襟足を立て、異常に長い柔らかい毛足のベージュ
のセーターの上に、今は脱いでいるがミシュラン坊やの様な黒いハ
ーフコートを羽織って現れた。
「まだ寒いでしょ、あっち?」
そう言って、鎧(よろい)のようなコートの襟足を持って開いた。
コートと一緒に脱いだ帽子から現れた短い黒髪はよくリンスされて
いるのだろう、サラサラしていた。薄化粧した横顔はとても日本的
な趣きがあった。私は横顔フェチなのだ。かつて映像の粒子に変換
されて、虚飾の世界で持て囃されていたアイドル歌手の面影など微
塵も無かった。と、その時気づいたのだが、彼女の耳は出来たばか
りの型に石膏を流しこんで慎重に取り出した石膏像のように、隅々
の輪郭がはっきりしていて、使い方を間違っているかもしれないが、
よく「エッジ」が効いていた。この子はきっと耳がいいのだ。彼女
の横顔を見ていると、誘われるように私も寝てしまった。
私はホームレスの頃の様に夜の闇の中を歩いていた。すると、向
こう側からも人が歩いて来た。そして私が立ち止まるとその男も立
ち止まった。私は不気味さに耐えられずに声を掛けた。
「誰だ?」
男は何も答えなかった。行き過ぎようと恐る々々近づくと、その男
も近づいてきた。
「何だ!ただのガラスか。」
私は閉店したブティックのガラスに映った自分の姿に驚いていた
のだ。馬鹿らしくなって離れようとすると、
「おいっ!待てよ!」
ガラスに映った私が呼び掛けた。
「えっ!?」
余りの恐怖から身体が反応できず頭だけを振り返えらせると、
「ったく、だからマンガなんか売れる訳ないよなぁ。何だ、この安っ
ぽい状況設定は、はぁーん?」
ガラスに映った私は、私が最も気にしている事をホザイたので怒り
が込み上げてきた。
「おっ、大きなお世話だ!それよりもお前はいったい何者だ?」
「あぁ、それ。俺はお前の『反』存在だよ」
「『反』存在?」
「お前も知っているように、宇宙はビッグバーンの後、対称性の破れ
によって消滅を逃れた物質と『反』物質が残された。お前たちが「こ
の世界」と呼ぶ宇宙には『反』宇宙が、破れてはいるが対称性を保
って存在している。つまり、お前には必ず『反』お前が、それは俺の
ことだけど、お前を失って消滅出来ずに残されているのだ。」
「・・・」
私は黙っていたが、『反』私は、私の心の中をすべて読み取ってい
た。
「その『反』私が一体何の用か、って言いたいのだろ?」
そう言ってから、
「言って置くがお前と俺はすべての認識を共有しているのだからな」
そう言われてみれば私も彼の考えていることが読み取れた。同時に私
は彼に対してこれまで経験したことの無いほどの強い愛しさを感じて
いた。それは異性間や親子関係までも越えた愛しさ、つまり自分自身
への愛しさかもしれない。我々は何も語らなくても理解し合えた。と、
言ってしまえば話しにならないので言葉に起こすが、
「おい、それで女社長はどうするんだ?」
『反』私は、私が東京を去ろうと決意させた大きな理由を口にした、
否、本当は口には出さなかったんだけど・・・。
女社長とは別れてしまった。いま彼女はフランスにいる。フランス
へは毎年絵の買い付けの為に出掛けていたが、ただそれだけでは無か
った。老先生が言うには「男がいる」とのことだった。その「おとこ」
という表現が生々しい臭いを放っていた。そしてその臭いに私の本能
が逆上し、邪推し、激昂し、萎縮した。私は彼女が理性を失くして「
おんな」という欲望に操られていることに、全く身勝手な言い分では
あるががっかりした。
「そのフランス人というのは画家なんですか?」
私は老先生に何気なくを装って、というのは私がどうしても知りたい
ことだったので、しかし内心は恐る恐る聞いた。
「多分そうだろうね」
老先生の言葉は一縷の望みを断ち切った。彼女の「おんな」がその辺
のジゴロやホストに入れ上げているならまだしも、ただ画家だけは許
せなかった。というのは、彼女は無名のフランス人の画家の絵をギャ
ラリーの隅々に飾っていたので、その画家というのが誰かは直ぐに察
しがついた。彼の絵は同じ手法で描かれた抽象絵画であったが、私が
観る限り彼の絵には「何も無かった」。何処かで仕入れて来た著名な
画家の画法を真似ているだけのエピゴーネン(追随者)でしかなかっ
た。そしてそんな「おとこ」をパトロンとして支える画商としての「
おんな」社長に落胆した。
「絵を見る眼が無いからね」
画廊の経営者にとっては決定的な欠点を、陰で支える老先生はあっさ
り指摘した。彼女はエジプトの壁画に描かれた女性のような大きな眼
をしていたが、「おとこ」が描いた絵画を観る度にこの人はどうして
こんな画家を評価しているのかと、横顔からはみ出した目を見ながら、
画商としての彼女の目を訝しく思った。
「それでも飛行場まで見送りに行ったじゃないか」
『反』私は、私の心の内を見抜いてそう言った。
「馬鹿な事を言うな!あれは彼女が荷物が多いのでどうしても運んで
欲しいと言うから、仕方なく着いていっただけさ」
しかし、私は別れ際に改まって「行かないで欲しい」と切願したが、
彼女は、
「何言ってるの?仕事よ、仕事っ。」と、
取合わずに私のくちびるに軽くキスをして搭乗口へ向かった。私に画
家の理性と呼べるものがあるとすれば、それは彼女のように芸術の価
値を金額の桁でしか判断しない画商を軽蔑する為に残されていたが、
ところが「おとこ」の本能という奴は逡巡する理性を嘲笑うかのよう
にアッサリと裏切ってしまった。
私は彼女のことを蔑んでいた、だけど好きだった。
「本能は理性に先行する、だよね。」
私は、『反』自分に自分の持ちネタをパクられた恨みから黙っていた。
「大体相手がフランスの男ではこう為ることが目に見えていたさ」
「どういう意味だ?」
「お前、純粋な感情から彼女を求めたか?」
「ん?」
「この国で恋愛するには様々な条件が邪魔をする。生い立ちや年収や
職業や年齢までも、つまり社会的な条件を満たさなければ恋愛すら出
来ない。やがて条件を満たした好きでも無い相手と仕方無く結ばれる。
こうしてお前らは個人の恋愛にも社会性を重んじるが、ところがフラ
ンスでは個人は社会に先行する。彼らは抱き合うのにいちいち性交申
請書を役場に出したりしない」
「ガハハハッ」
笑ってはみたが、実際私が苦しんだことの全ては、私の彼女への思い
を邪魔するものではなかった。私を躊躇させたのは社会のくだらない
柵(しがらみ)からだった。周りの人々はどう思うだろうかとか、彼
女の前夫との間に生まれた子供との関係をどうするかとか、私の見窄
(みすぼ)らしい肩書きを卑下してみたり、境遇の格差が気になった
り、こうして我々は個人を捨てて社会に媚びて生かざるを得なくなる。
つまり純粋な個人の思いなど貫ける訳が無い。フランス人がターフを
走っている競技場を日本人は柵のある障害物コースを走っているのだ。
そして、その柵とは自分自身によって作り上げた有りもしない障害な
のだ。我々の本能は自らの理性によって社会的に去勢されてしまった。
この国では「社会が個人に先行する」のだ。
「そもそもお前は一体何の為に俺の前に現れたんだ?」
私はもうひとりの自分に糾弾されることに耐えられなくなった。
「おいおい、勘違いするなよ。大体俺を呼んだのはあんたの方だぜ」
「おっ、俺が?」
「彼女と別れた後、死ぬつもりじゃなかったのか?『赤』木ヶ原の樹
海だっけ」
「・・・」
「勝手に死なれちゃ困るんだよな、『反』お前としては。」
「俺がどうしようとお前には関係の無いことだろうが」
「とんでもない!片割れを失ったものが何時までも存在できると思っ
ているのか。お前が死ねば何れ俺も消滅するのだ」
「それじゃあ、お前は俺を引き止める為に現れたのか?」
『反』私は、私の問い掛けにすぐには答えなかった。そして、
「実は、俺も、生きていることが無意味に思えてきた」
彼の心情は分身である私にも伝わってきた。彼が言うには、互いが合
意すれば結合して消滅へ、つまり死ぬことが出来るというのだ。人は
ただ一人では死ねないのだ。もう一人の自分が居るのだ。『反』私の
心情は私自身にも理解できた。
流行(はや)りによってもて囃された者はすぐに廃(すた)れて流
されて行く。私も華やかな個展の後、知らぬ間にフェイドアウトして
いた。簡単に担ぎ上げられた者は簡単に引き摺り下ろされた。掌(て
のひら)を返す様な冷たい世間の反応に、私は自分自身を見失い全く
絵が描けなくなってしまった。大気の中で魚が溺れるようにいくら藻
掻いても徒為徒労に終わった。そんな時に、担いでくれた画廊の「お
んな」社長に、画家ではなく「おとこ」として認められなかったこと
が辛かった。
「もっと自信を持ちなさい」
どういう自信なのか分からなかったが、そう言われたことがさらに自
信を失わせた。そう言った本人が飛び立ってしまいゲームオーバー
になった。心の中は「無」が支配し寂寥たる無為の日々を送った。感
情が消え失せ何もかもがどうでもよくなった。人は辛さに耐え切れな
くなると感覚を捨てる。それは私がホームレスだった頃に絶対幸福と
呼んだ感覚に近かった。否、希望など端から無かったホームレスの
頃よりも、希望を失ったその時の方が辛かった。何もかもが他人事
のように思えた。死ぬことさえも怖くはなかった。自らの空虚を埋め
るために政治団体や信仰の誘いがあれば、「私でもお役に立てれば」
と言って喜んで顔を貸した。遍(あまね)く組織と謂うものは、個人
の虚しさを埋める為に派生する。何を詰め込まれるかなどどうでもい
いのだ。人はただ孤独を癒す為に集う、決して思想・信条などからで
は無い。しかし誰もが虚しさを持ち寄ったところで、更なる虚しさ以
外に何も持ち帰るものなど無かった。誰もスプーン一本曲げられなか
った。それはヤンキー達が「つまんねえ!」と言って集り、本当につ
まんない事しか出来ないのに似ていた。自らに拠って立つ者は自分以
外を頼ったりしないのだ。
しかし、バロックとのメールのやり取りによって自分を取り戻し、サ
ッチャンからのK帯メールに救われた。私はバロックとサッチャンに
励まされて、もう一度「路上」からやり直せるかもしれないと、生き
る意欲を取り戻した。私はバロックのように『赤』木ヶ原の樹海に身
を預けずに済んだのだ。つまり、彼は現れる時を少し過った。
『反』私は憂いに満ちた眼で私を視つめていた、が、私とのズレに
気付いたのだろう、その視線を下に逸らした。とっ、その時!突然、
大地が揺れて、私はツンのめって前に投げ出され、二人の間にあった
ガラスにしこたま頭をぶっつけてガラスは粉々に割れてしまった。
「痛っつう・・・」
「只今、地震発生の為、緊急停止いたしました。しばらくお待ちくだ
さい」
新幹線の車内には車掌の冷静を装ったアナウンスが繰り返し流さ
れていた。私の頭は夢を繰ることに精一杯で、非常ブレーキに着いて
いけず慣性に任せたまま前の席の背もたれにぶつかって、眠りから
覚めた。車内は騒ついていたが、とりあえず止まったことの安堵から
すぐに落ち着きを取り戻した。さすがに中年女性も笑い声を潜めてい
た。そして誰もが続いて起こるかもしれない余震を固唾を飲んで見守
っていた。しかし、ペットボトルの水は微動だしなかった。サッチャ
ンは頻りと窓の外を監視していた。
「地震だって。何か怖いよね」
彼女が耳から外したイヤホーンのスピーカーからはビバルディの「四
季」の「冬」が大音量で流れ始めた。
「音楽のスイッチを切ったら」
「あっ!これだ、効果音」
私は夢の記憶に現実が繋げずに朦朧としたまま、夢の中に『反』私を
置き去りにして、現(うつつ)へ舞い戻って来たことに後ろめたさを
感じたが、新幹線を立ち往生させた地震は彼が起こしたのかもしれな
いと怪しい直感を信じた。
「きっとアイツだ!」
『反』私が言うように、世界は無意味に覆われていて存在する意味
など無いかもしれない。「無は存在に先行する」。しかし、存在とは
「無」に背いて在るのだ、「無」が摂理であるなら存在は背理から生
まれた。つまり存在とは「無」への抵抗なのだ。「無」=絶対からの
逃亡なのだ。止まっていては「無」に帰す、存在するものは絶えず「
無」から逃げ回らなければならない。こうして、宇宙は「無」から逃
れようと膨張し続け、我々は罪の意識を背負いながら常に変化しな
ければなければならない。そうしなければ、『反』存在に捕らえられ
て、「無」=秩序へ回帰させられるだろう。存在するとは「秩序」を
越えることだ、何故なら絶えず進化しなければならないからだ。存在
するとは「絶対」に抗うことだ、何故なら絶えず変わらなければなら
ないからだ。逃げろ!生きるとは「無」から逃れることだ!
(つづく)