仮題「心なき身にもあわれは知られけり」
私が住む広島県の三次(みよし)市は中国山地の山間に位置し、そこ
には「吉舎」と書いて「きさ」と読む町が所在する。他所から来た者
が「きさ」と読めた例はまずないが、その名前の由来は、一説には、
かつて太上天皇として院政を執った後鳥羽上皇(1180年~123
9年)が鎌倉幕府の執権北条義時を討伐せんと院宣して兵を挙げた「
承久の乱」(1221年)に敗れ、遠流(おんる)の地である隠岐の島
に配流(はいる「島流し」)されることになり、京を出て隠岐の島まで
辿った道程でその地の艮(うしとら)神社に泊り、「吉き舎り(よきや
どり)」と宣われたことが地名の由来だと伝えられている。(『国郡
志御用に付吉舎村書上帳』)。また、上皇は近くに聳える登美志(と
みし)山、つまり「富士(とみし)山」を眺めて「皆人のふじと知られて
傭後なる富士の山の峰の白雪」(『国郡志御用に付安田村書上帳』)と
詠まれ、備後小富士として今に伝わる。それにしても、すでに平安末
期には富士山の存在が遍く知られていたことに感心した。こうして当
地には後鳥羽上皇が隠岐の島へ配流される際に辿った足跡がいたると
ころに点在していて、そのいくつかを数え上げると、 三良坂町には上
皇が渡河した地点に皇渡橋があり、(『国郡志御用に付仁賀村書上帳』)
なかなか渡れなかった上皇が残した歌「われこそはわたりゆくべき川水
も 心あらばやかわきだにせよ」が残されている。(『三良坂町誌』) 更
に、隠岐の島へ向かう庄原市高野町には上皇が半年余り滞在したと伝わ
る功徳寺に上皇が詠んだ歌「蔀(しとみ)山降ろす嵐のはげしくて 紅葉の
錦きぬ人もなし」が残され、高野町には関連すると思われる地名だけを
挙げれば、王居峠、王貫峠など、配流地隠岐の島への足跡が辿れる。と
ころが驚かされるのは、その足跡とはかけ離れた北部の作木町の山中に
隠岐の島へ配流されたはずの後鳥羽上皇の墓が存在する。
(つづく)