「めしべ」⑪
もしそうだとすれば、われわれの眼が持つ視力とは外的環境を認
識するための謂わば装置であって、目の前のコップを見た時にコッ
プの分子構造までも見通せる精密な能力など無用であるし、また、
遥か彼方からコップを見分ける必要もない。つまり、われわれに備
わった器官とは外的脅威から自身を守るために進化したセンサーで
しかなく、表象だけしか捉えられないそれらの器官が統合されて判
断する認識が世界の細部や全体を見通せるとは思わない。それどこ
ろか、それらから導き出される判断でさえも、他者が善意から差し出
した手にもまず何か魂胆が隠されているのではないかと猜疑するほ
ど防衛本能に支配され、また思考においても本能に歪められている。
たぶん、われわれの理性とは自分自身を守るための本能から生まれ
た能力であって本能なき理性など、つまり「純粋理性」などというものは
ありえない。たとえば、世界が「赤い椅子に座る女」の絵であるとすれば、
われわれの狡知にだけは長けた認識や思考は、目の前の絵を素直に
観ようとせずに、あろうことか「めしべ」と読んでしまう。
やっと(おわり)