「(菅)話放題」⑪
経済のグローバル化の次に待っているのは、民族主義者の方々は聴
くに耐えないでしょうが、恐らく民族混淆(こんこう)のグローバル化
が避けられないのではないだろうか。いくら日本は島国だからといっ
ても片道4千円の航空運賃で行ける隣の国には10億を越える人間が
犇(ひしめ)いている。(因みに、東京から4千円の鉄道運賃では浜松に
も行けない) 更に我が国は世界の人々が羨むほど治安の良い憬れの先
進国である。もちろん様々な軋轢を生むだろうが、経済だけがグロー
バル化して取引が済めばあっさり自国に引き返すとは思えない。何れ
住み着く者も交流に比して増えるに違いない。中国の経済破綻後と思
っていたが、実はもう既に元に戻ることが困難なほど多数の「外人」
が帰化しているのかもしれない。こんなことを載せながら日本への帰
化人口の推移がどの程度であるのか全く知らないし調べるのも大儀な
ので、ボヤーッと思ったことだけを記すが、それはただ日本だけの事
ではなく既にヨーロッパでも社会問題にもなっているようです。生ま
れ育った土地の文化や習慣はたとえ異国で暮らしてもそう簡単に変え
られるものではないし、まして信仰の習慣となれば個人のアイデンテ
ィティーに関わる問題なのでおいそれとやめる訳にはいかない。しか
し、帰化した者もその国に馴染まずに暮らすことには耐えられないの
で頭を低くして障ることは厳に慎み、そうやって二世三世と代を重ね
ていくうちにその国の人情にも染まり、そのうち「外人」の愛国主義
者でも現れるようになれば、民族と国家は一つでなくなり、例えば日
本は日本民族の国だなどと言えなくなる日がくるかもしれない。ただ、
自ら訪ねて接する異文化交流ならまだしも、異文化が押し寄せて来て
交流を迫られるのは辟易する。ヴィトゲンシュタインは、「生の問題
の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく」と言ったが、「外人」
との間に起る様々な問題は何れ民族の混淆によって問題そのものが消
滅する。例えば、日本人と中国人の間に生まれた子供は果たして日中
間の対立を望むだろうか?分けても日本人は宗教に関しては極めて寛
容なので、ヨーロッパで起っているような排他的な運動が起らない。
何れの宗教も八百万の神々の一つとして受け入れられるるに違いない。
一神教の国では決定的な対立を引き起こす邪教の戒律でさえ、恐らく
この国はうまく共存することだろう。更に日本民族と言ったところで
行政上の日本国籍以外に何らかの厳格な定義がある訳ではない。例え
ばユダヤ人の定義はたとえ異民族であってもユダヤ教徒であれば足る。
そうなると当然、やまと民族だ漢民族だ朝鮮民族だなどという民族
意識は混淆によって曖昧になって、汎アジア人という括りでグローバ
ル化すれば、恐らく今の我々が抱くような国家意識は希薄になり、そ
の時こそ東アジア共同体が現実のものとなるのではないだろうか。つ
まり、グローバル化が進めば国家間の行政上の取り決めや条約が結ば
れる前に民族混淆が進み、国家は追認するように行政上の条約を締結
する。政治というのは何時だって腰が重い。そして、国家を定義する民族
や言語や宗教や国境といったものが怪しくなってやがて消滅するに違い
ない。その時、過去を振り返って、近代化が齎した最大の功績は「国家
概念の消滅である」と言う日がくるかもしれない。
やがて人類は地球上に人種混淆によって一種族だけになり、民族や
国家はその拠りどころを失くして消滅し対立はなくなるだろう。人々
がアイデンティティーを失うのではなく、民族や国家といった概念が
アイデンティティーを失うのだ!とは言っても宗教対立は残るのかも
しれないが。そして個人は、世界市民として自己と共同体のあたらし
い関係を再び模索しながら創り上げていくことだろう。暑さの盛夏そ
んな取り止めもないことを考えた。つまり、我々が縁(よすが)とする
民族や国家などというものは案外呆気なく変換されてしまうのだ。伝
統文化や歴史にばかり縛られていては硬直した考えしか生まれて来な
いのではないだろうか。
(あつい)
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経済のグローバル化の次に待っているのは、民族主義者の方々は聴
くに耐えないでしょうが、恐らく民族混淆(こんこう)のグローバル化
が避けられないのではないだろうか。いくら日本は島国だからといっ
ても片道4千円の航空運賃で行ける隣の国には10億を越える人間が
犇(ひしめ)いている。(因みに、東京から4千円の鉄道運賃では浜松に
も行けない) 更に我が国は世界の人々が羨むほど治安の良い憬れの先
進国である。もちろん様々な軋轢を生むだろうが、経済だけがグロー
バル化して取引が済めばあっさり自国に引き返すとは思えない。何れ
住み着く者も交流に比して増えるに違いない。中国の経済破綻後と思
っていたが、実はもう既に元に戻ることが困難なほど多数の「外人」
が帰化しているのかもしれない。こんなことを載せながら日本への帰
化人口の推移がどの程度であるのか全く知らないし調べるのも大儀な
ので、ボヤーッと思ったことだけを記すが、それはただ日本だけの事
ではなく既にヨーロッパでも社会問題にもなっているようです。生ま
れ育った土地の文化や習慣はたとえ異国で暮らしてもそう簡単に変え
られるものではないし、まして信仰の習慣となれば個人のアイデンテ
ィティーに関わる問題なのでおいそれとやめる訳にはいかない。しか
し、帰化した者もその国に馴染まずに暮らすことには耐えられないの
で頭を低くして障ることは厳に慎み、そうやって二世三世と代を重ね
ていくうちにその国の人情にも染まり、そのうち「外人」の愛国主義
者でも現れるようになれば、民族と国家は一つでなくなり、例えば日
本は日本民族の国だなどと言えなくなる日がくるかもしれない。ただ、
自ら訪ねて接する異文化交流ならまだしも、異文化が押し寄せて来て
交流を迫られるのは辟易する。ヴィトゲンシュタインは、「生の問題
の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく」と言ったが、「外人」
との間に起る様々な問題は何れ民族の混淆によって問題そのものが消
滅する。例えば、日本人と中国人の間に生まれた子供は果たして日中
間の対立を望むだろうか?分けても日本人は宗教に関しては極めて寛
容なので、ヨーロッパで起っているような排他的な運動が起らない。
何れの宗教も八百万の神々の一つとして受け入れられるるに違いない。
一神教の国では決定的な対立を引き起こす邪教の戒律でさえ、恐らく
この国はうまく共存することだろう。更に日本民族と言ったところで
行政上の日本国籍以外に何らかの厳格な定義がある訳ではない。例え
ばユダヤ人の定義はたとえ異民族であってもユダヤ教徒であれば足る。
そうなると当然、やまと民族だ漢民族だ朝鮮民族だなどという民族
意識は混淆によって曖昧になって、汎アジア人という括りでグローバ
ル化すれば、恐らく今の我々が抱くような国家意識は希薄になり、そ
の時こそ東アジア共同体が現実のものとなるのではないだろうか。つ
まり、グローバル化が進めば国家間の行政上の取り決めや条約が結ば
れる前に民族混淆が進み、国家は追認するように行政上の条約を締結
する。政治というのは何時だって腰が重い。そして、国家を定義する民族
や言語や宗教や国境といったものが怪しくなってやがて消滅するに違い
ない。その時、過去を振り返って、近代化が齎した最大の功績は「国家
概念の消滅である」と言う日がくるかもしれない。
やがて人類は地球上に人種混淆によって一種族だけになり、民族や
国家はその拠りどころを失くして消滅し対立はなくなるだろう。人々
がアイデンティティーを失うのではなく、民族や国家といった概念が
アイデンティティーを失うのだ!とは言っても宗教対立は残るのかも
しれないが。そして個人は、世界市民として自己と共同体のあたらし
い関係を再び模索しながら創り上げていくことだろう。暑さの盛夏そ
んな取り止めもないことを考えた。つまり、我々が縁(よすが)とする
民族や国家などというものは案外呆気なく変換されてしまうのだ。伝
統文化や歴史にばかり縛られていては硬直した考えしか生まれて来な
いのではないだろうか。
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