「(菅)話放題」⑪

2010-09-03 17:16:20 | 「(菅)話放題」
          「(菅)話放題」⑪


 経済のグローバル化の次に待っているのは、民族主義者の方々は聴

くに耐えないでしょうが、恐らく民族混淆(こんこう)のグローバル化

が避けられないのではないだろうか。いくら日本は島国だからといっ

ても片道4千円の航空運賃で行ける隣の国には10億を越える人間が

犇(ひしめ)いている。(因みに、東京から4千円の鉄道運賃では浜松に

も行けない) 更に我が国は世界の人々が羨むほど治安の良い憬れの先

進国である。もちろん様々な軋轢を生むだろうが、経済だけがグロー

バル化して取引が済めばあっさり自国に引き返すとは思えない。何れ

住み着く者も交流に比して増えるに違いない。中国の経済破綻後と思

っていたが、実はもう既に元に戻ることが困難なほど多数の「外人」

が帰化しているのかもしれない。こんなことを載せながら日本への帰

化人口の推移がどの程度であるのか全く知らないし調べるのも大儀な

ので、ボヤーッと思ったことだけを記すが、それはただ日本だけの事

ではなく既にヨーロッパでも社会問題にもなっているようです。生ま

れ育った土地の文化や習慣はたとえ異国で暮らしてもそう簡単に変え

られるものではないし、まして信仰の習慣となれば個人のアイデンテ

ィティーに関わる問題なのでおいそれとやめる訳にはいかない。しか

し、帰化した者もその国に馴染まずに暮らすことには耐えられないの

で頭を低くして障ることは厳に慎み、そうやって二世三世と代を重ね

ていくうちにその国の人情にも染まり、そのうち「外人」の愛国主義

者でも現れるようになれば、民族と国家は一つでなくなり、例えば日

本は日本民族の国だなどと言えなくなる日がくるかもしれない。ただ、

自ら訪ねて接する異文化交流ならまだしも、異文化が押し寄せて来て

交流を迫られるのは辟易する。ヴィトゲンシュタインは、「生の問題

の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく」と言ったが、「外人」

との間に起る様々な問題は何れ民族の混淆によって問題そのものが消

滅する。例えば、日本人と中国人の間に生まれた子供は果たして日中

間の対立を望むだろうか?分けても日本人は宗教に関しては極めて寛

容なので、ヨーロッパで起っているような排他的な運動が起らない。

何れの宗教も八百万の神々の一つとして受け入れられるるに違いない。

一神教の国では決定的な対立を引き起こす邪教の戒律でさえ、恐らく

この国はうまく共存することだろう。更に日本民族と言ったところで

行政上の日本国籍以外に何らかの厳格な定義がある訳ではない。例え

ばユダヤ人の定義はたとえ異民族であってもユダヤ教徒であれば足る。

 そうなると当然、やまと民族だ漢民族だ朝鮮民族だなどという民族

意識は混淆によって曖昧になって、汎アジア人という括りでグローバ

ル化すれば、恐らく今の我々が抱くような国家意識は希薄になり、そ

の時こそ東アジア共同体が現実のものとなるのではないだろうか。つ

まり、グローバル化が進めば国家間の行政上の取り決めや条約が結ば

れる前に民族混淆が進み、国家は追認するように行政上の条約を締結

する。政治というのは何時だって腰が重い。そして、国家を定義する民族

や言語や宗教や国境といったものが怪しくなってやがて消滅するに違い

ない。その時、過去を振り返って、近代化が齎した最大の功績は「国家

概念の消滅である」と言う日がくるかもしれない。

 やがて人類は地球上に人種混淆によって一種族だけになり、民族や

国家はその拠りどころを失くして消滅し対立はなくなるだろう。人々

がアイデンティティーを失うのではなく、民族や国家といった概念が

アイデンティティーを失うのだ!とは言っても宗教対立は残るのかも

しれないが。そして個人は、世界市民として自己と共同体のあたらし

い関係を再び模索しながら創り上げていくことだろう。暑さの盛夏そ

んな取り止めもないことを考えた。つまり、我々が縁(よすが)とする

民族や国家などというものは案外呆気なく変換されてしまうのだ。伝

統文化や歴史にばかり縛られていては硬直した考えしか生まれて来な

いのではないだろうか。

                                    (あつい)


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 「(菅)話放題」⑩

2010-09-02 10:41:36 | 「(菅)話放題」
                「(菅)話放題」⑩


 政権交代以後、今の閉塞した状況をよく幕末の時代転換になぞらえ

て語られるが、維新へと続く幕末には近代文明への明るい展望が広が

っていた。さらには国土が焦土と化した敗戦後でさえ厭戦が叶い自由

社会への解放感があった。ところが、経済大国として世界が羨むほど

の国に成長したにもかかわらず、我々はその豊かさを享受する中で、

現在はと言うと将来の進むべき道が見つからない焦りと不安ばかりが

広がっている。つまり、幕末や終戦後の時代転換と今我々が直面して

いる時代転換の様子は全く逆なのだ。幕末であれ終戦であれ混迷の

中にまだ進むべき道が残されていた。暗闇の中にあっても遠くから一

縷の光が差し込んでいたのだ。しかし、近代文明の恩恵に与って光溢

れる時代を享受した我々は、経済のグローバル化に異を唱えるように

環境問題が顕在化して、世界経済は歩調を揃える様に停滞を余儀なく

された。我々は近代という高速道路をエンジンを噴かしてぶっ飛ばし

てきたが、今や高速道路は自然破壊が原因で断裂し、眩しく光る道路

は暗黒の奈落へ垂れ下がっている。これまではたとえ大きな転換があ

ったにしても近代という道を進むことが出来た。ところが、今や我々

の前には道そのものが無いのだ。断崖の下は暗黒が口を開けて待って

いる。道が途絶えたなら引き返すしかないのだが、如何なる文明と雖

も文明を棄てて文明以前に後戻りしたことは無かった。核兵器さえ廃

絶できない我々に近代文明を棄てることなど出来るだろうか?やがて

「成長」や「発展」といった近代化が持て囃した言葉は、「縮小」や

「撤退」と言った言葉に取って代わられるだろう。そんな「収縮」時

代にあって、なおも「経済成長」や「景気拡大」などといった経済政

策に期待することは恐らく大きな破綻を招くことだろう。我々は一旦

は「撤退」せねばならない。経済成長が実感できる時代のリーダーは

「黙っておれについて来い!」でよかったが、「撤退」しなければな

らない時代のリーダーは後に続く者にどれほど煩雑な説明をしなけれ

ばならないだろうか。「黙って引き返せ!」では誰も納得させること

はできないだろう。つまり、今こそ我々の民主主義が試される。

 民主党への政権交代は、そういった時代転換の流れの中で生まれた。

これまでの「ぶっ飛ばす」政治を見直して道を確かめながら、時には

後戻りしながら転落せぬよう「撤退」せねばならない。それには成長

体験しか持たないアンシャンレジーム(旧体制)世代ではなく、新しい

世代の新しいビジョンが求められるのではないだろうか。今回の代表

者選挙は世代間の主導権争いでもある。幕末の若き志士たちは新しい

時代を拓くために身分を越えて闘った。維新後の身分制度の廃止、そ

して戦後の新憲法と我々の時代転換の歴史はまさに民主主義を実現す

る為の歴史でもあった。ただ遅々として進まず、その度に多くの犠牲

を生んできた。丸山眞男は著書「日本の思想」(岩波新書C39)の中

で民主主義をこう言っている。

「民主主義とはもともと政治を特定身分の独占から広く市民にまで開

放する運動として発達したものなのです。そして、民主主義をになう

市民の大部分は日常生活では政治以外の職業に従事しているわけです。

とすれば、民主主義はやや逆説的な表現になりますが、非政治的な市

民の政治的関心によって、また「政界」以外の領域からの政治的発言

と行動によってはじめて支えられるといっても過言ではないのです。」

(Ⅳ「である」ことと「する」こと―P172、傍点省略)

 政治を自分とは関わりのない特定身分の先生が行うものとして、政

治の事は政治家に任せておけと言うのでは主権の放棄である。それば

かりか丸山氏はこの章の冒頭に日本国憲法の第12条「この憲法が国

民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持

しなければならない」との記述を引用して、そこから「主権者である

ことに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目覚めてみ

ると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起るぞ」という

警告だと言い、民主主義は「お上」から与えられた「ある」制度では

なく不断に行使「する」のでなければ、「権利の上にねむる者」はや

がて主権者の権利を奪われると警告している。議員を身分と思い込ん

で世襲に異議を抱かない旧い世代の「ある」政治を、新しい世代の市

民が「する」政治に変えなければ、それは衆愚政治になるというなら

数多の世襲首相がどれほど国民の期待に応えてきたというのか、ある

朝目覚めると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起るか

もしれない。

                                   (菅)⑩


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(菅)話放題⑨

2010-08-29 16:05:42 | 「(菅)話放題」
                  (菅)話放題⑨


 【モスクワ時事】民主党の鳩山由紀夫前首相は27日、党代表選に

関連して「小沢さんに民主党に加わっていただき、政権交代が成し遂

げられた。私を首相にまで導いていただいた。恩返しをすべきだと思

っている」と述べ、小沢一郎前幹事長を支持する立場を重ねて示した。

滞在先のモスクワで記者団に語った。

 鳩山氏はまた「国難とも言えるときで小沢さんのパワーが今まで以

上に必要だ」と指摘した。鳩山氏は29日帰国する。【時事通信社】

http://news.livedoor.com/article/detail/4973389/ 


         ************


「 私を首相にまで導いていただいた。恩返しをすべきだと思って

いる」だと。一億二千万人の暮らしを預かる国政をいったい何だと

思っているのか!個人的な恩返しをする為に国政を利用するなっ!

まったく国民はいい迷惑だ!小沢氏への恩返しをする為に彼を支持

するというなら、土建屋が仕事を貰ったお礼に献金する利益供与と

同じじゃないか。そもそもあなたを首相に選んだのは小沢氏なのか?

国民に選ばれたのではなかったのか。「 私を首相にまで導いてい

ただいた」だとか「恩返しをすべきだ」とかまるで戦国大名の言葉

を聞いているようだ。これが民主主義か?いったいあなたの党の名

前は何だっけ?恥ずかしくも「民主党」と名乗る限りは国民へ恩返

ししろっ!「政権交代が成し遂げられた」と言ったが、それってあ

なたにとって目的なの、手段じゃなかったの?まるで天下を獲った

ような心算かもしれないが時代錯誤も甚だしい。政治家は政事(まつ

りごと)を行うことが本分ではないのか?「首相にまで導いていただ

いて」一体あなたは何を行ったのか?あなたを「首相にまで導い」

たのが小沢氏ならば、鳩山「無為」政権の責任の一端は小沢氏にも

あることになる。政治を施(ほどこ)しとしか思っていない民主主義

を全く理解してない者同士に国政を任せられるかっ!

 政権を弄ぶのもいい加減にしろ!


( あまりにも主権者を無視した発言で腹が立ってしかたなかった

のでどうしても言っておきたかった。)



                                 (菅)⑨


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「(菅)話放題」⑧

2010-07-31 01:08:30 | 「(菅)話放題」
                 「世界飽和」

 バブル経済の崩壊は、そのアワで隠されていた不正や犯罪をも洗

い出した。大手都市銀行までが不正に手を「濡らして」アワを掴も

うとして、巨額の不良債権を抱え込んでアワと消えた。ところがそ

んな金融恐慌の最中にあっても、名の知られた経済評論家たちは日

本の実態経済の底堅さを強調し直ぐに回復すると断言し、「全治三

年」とまで予測する者までいた。この国が道を迷ったすればまさに

あのバブル崩壊後に、再び「日は昇る」と信じ込み財政支出による

巨額の景気刺激策を官民挙って待ち望み、それに応えるように政府

は赤字国債による公共事業を日本全国津々浦々山々町々に至るまで

バラ撒いて、その結果、カラオケ大会にしか使われないオペラハウ

スや、獣たちの為にケモノ道を舗装してやったり、人の居ない限界

集落にまで立派な集会ホールを造ってきたからだ。金融破綻を認め

ながらも実態経済は堅調であるからとの理由から後戻りすることな

く崩れ落ちたバブル街道を進み続けた。それはまるで、思わぬ大金

を手にした者がギャンブルにのめり込み、調子に乗って賭け金を増

やした挙句にスッテンテンになって熱くなり、子供の貯金に手を付

けて後戻りが出来ず、遂には高利貸しにまで証文を預け、その返済

を子供に負わせても眼が覚めず泥沼へと堕ちていく破綻者のようだ

った。

 素人の意見だが、実体経済が堅調であるなら人は易々と金融投資

には向かわないだろう。理想を求めて現実を投機するにはそれなり

の契機があるはずだ。人が投資に傾く時は経済成長が停滞したから

だ。金融バブルとは、実は、実体経済の飽和から発生するのではな

いだろうか。そうだとすれば、金融不安が起る時はすでに実体経済も

内部から朽ち始めているのだ。そうだとすれば金融政策をいくら弄(い

じ)くっても実体経済は回復しないだろう。アメリカ発の世界を巻き込ん

だ金融破綻は、嘗ての日本のように金融対策に追われているが、しか

し実態経済そのものが行き詰っているのだ。それでも経済を動かそ

うとするなら貯め込んだ富を放棄するしかない。つまり、破産か戦

争だ。現在のアメリカの金融緩和や景気刺激策を聴くと、これまで

の日本経済と同じ道を辿っているように思えてならない。辛うじて

新興国の経済発展によって凌いではいるが、何れそれらの国々も思

っていたよりも早く行き詰り、だって彼等が自慢する豊かさは既に

先進国では飽いてしまった豊かさなのだ、そこから何か新しい発見

や成長が生まれてくるとは到底思えない。やがて溜息を吐くように、

日本を含む先進国の金融不安から、再び世界経済が危機に襲われる

ことだろう。

 以上は、小説の時代背景を簡単に描く心算で記したのですが、段

々と熱を帯びてきて本来の小説を忘れてしまい、それでも削除する

に忍びないので、ブログ(ウェブ上の記録)としては残すのもありか

なと思ってそうします。

 ただ、マクロの視点から経済危機や金融不安を齎す根本的な原因

とは何だろうと考えていると「飽和」という言葉がぴったりなのか

なと思っています。甕(かめ)の縁(ふち)までなみなみと貯められた

水は、更に注いでも溢れるばかりで容量は変わりません。だからと

いって注がなければ水は腐敗する。「飽和」とはある限界に達して

それ以上は変化しない状況を言うのであれば、今まさに世界は「飽

和」の時代を迎えているのかなと思います。つまり、経済危機(腐っ

た水)を薄めようと金融緩和や財政支出といった新しい水をいくら

注いでも何も変わらないでしょう。経済危機と財政支出のイタチゴ

ッコでやがて財政破綻するのではないだろうか。敢えて言うなら、

もう、この近代という甕そのものを諦めなければならないのではな

いかと思っています。それが出来るのは甕の底に沈んで腐りかけ

た水ではなく、甕から溢れ落ちた水ではないでしょうか。

 ただ、そう思っていてもなかなか近代を棄てる勇気が持てません。

近代を棄ててもより明るい時代が保障されているならいいのですが、

まったくそんなことはありません。荒野での自由を選ぶか、やっぱり

空調の効いたエサのある檻の中を選ぶのか、ブレまくって全く決断

が着きません。

世の中を捨てて捨て得ぬ心地して都離れぬわが身なりけり  西行
                                  

                                  (菅)⑧


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「(菅)話放題」⑦

2010-07-14 17:15:11 | 「(菅)話放題」
               「リゴリズム」(厳粛主義)

 少し前のことですが、アイドルグループのメンバーとしてテレビ

に登場し、その容姿から若者の人気者となりマスコミに引張りダコ

で活躍していた少女が、弟が犯罪を起こしたことから一転、彼の姉

であるという理由から彼女はマスメディアから締め出された。もち

ろんマスメディアも視聴者からの厳しい批判を受けてのことだろう

が、果たして成人した弟の犯した罪の責任の一端が彼女にあるだろ

うか?仮にあるとすれば彼女は一体どういう責任があったのか?そ

こには、本人にはどうする事も出来ない出身や家柄や生い立ちまで

遡って序列化し、個人の責任を一族や関係者にまで迫る、支那を由

来とする「家」を重んじる道徳の影響が色濃く反映している。

 以下に紹介するのは、丸山眞男(著)「日本の思想」(岩波新書C

39)からの引用です。この前の項では「近代日本の機軸としての

『国体』の創出」と題して、皇室を精神的機軸とする「国体」が如

何なる理由から創られたかを語っています。

(傍点打てないので省略しました)

 
      「『国体』における臣民の無限責任」

 「国体」という名でよばれた非宗教的宗教がどのように魔術的な

力をふるったかという痛切な感覚は、純粋な戦後の世代にはもはや

ないし、またその「魔術」にすっぽりはまってその中で「思想の自

由」を享受していた古い世代にももともとない。しかしその魔術は

けっして「思想問題」という象徴的な名称が日本の朝野を震撼した

昭和以後に、いわんや日本ファシズムが狂暴化して以後に、突如と

して地下から呼び出されたのではなかった。日本のリベラリズムあ

るいは「大正デモクラシー」の波が思想界に最高潮に達した時代に

おいても、それは「限界状況」において直ちにおそるべき呪縛力を

露わしたのである。

 かつて東大で教鞭をとっていたE・レーデラーは、その著書『日

本=ヨーロッパ』(E・Lederer,Japan-Europa,1929)のなかで在日

中に見聞してショックを受けた二つの事件を語っている。一つは大

正十二年末に起った難波大助の摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)である。

彼がショックを受けたのは、この熱狂主義者の行為そのものよりも、

むしろ「その後に来るもの」であった。内閣は総辞職し、警視総監

から道すじの警固に当った警官にいたる一連の「責任者」(とうてい

その凶行を防止し得る位置にいなかったことを著者は強調している)

の系列が懲戒免官となっただけではない。犯人の父はただちに衆議

院議員の職を辞し、門前に竹矢来を張って一歩も戸外に出ず、郷里

の全村はあげて正月の祝を廃して「喪」に入り、大助の卒業した小

学校の校長ならびに彼のクラスを担当した訓導も、こうした不逞の

徒をかつて教育した責を負って職を辞したのである。このような茫

として果てしない責任の負い方、それをむしろ当然とする無形の社

会的圧力は、このドイツ人教授の眼には全く異様な光景として映っ

たようである。もう一つ、彼があげているのが(おそらく大震災の

時のことであろう)、「御真影」を燃えさかる炎の中から取り出そ

うとして多くの学校長が命を失ったことである。「進歩的なサーク

ルからはこのように危険な御真影は学校から遠ざけた方がよいとい

う提議が起った。校長を焼死させるよりはむしろ写真を焼いた方が

よいというようなことは全く問題にならなかった」とレーデラーは

誌してる。日本の天皇制はたしかにツァーリズムほど権力行使に無

慈悲ではなかったかもしれない。しかし西欧君主制はもとより、正

統教会と結合した帝政ロシアにおいても、社会的責任のこのような

あり方は到底考えられなかったであろう。どちらがましかというの

ではない。ここに伏在する問題は近代日本の「精神」にも「機構」

にもけっして無縁でなく、また例外的でもないというのである。

                         ー以上ー

 ウィキペディアで「虎ノ門事件」のその後を見ると「犯人難波大

助は大逆罪で死刑になり、父は蟄居して後何も口にせず餓死自殺し

た。難波の処刑後、皇太子は『家族の更生に配慮せよ』と側近に語

った。」とある。

 この国の責任のとり方は「茫として果てしない」ばかりでなく、

何時も力の弱い者に向けられる。もちろん個人の責任は個人が負わ

なければならないが、更に家族や会社や、況して学校までもが負わ

なければならないのだろうか?「あの時代は」と言うかもしれない

が、二つの事件とも「大正デモクラシー」のリベラリズムが最高潮

に達した時代に起ったことを丸山眞男は前段で指摘している。

 かつて大阪の漫才師人生幸朗は「まあ、皆さん聞いてください」

と始まる「ぼやき漫才」で、汚職が絶えない政治家をネタにして揶

揄い、相方の生方幸子が「怒って来はったらどうすんの?」とフル

と、政治家を真似て「謝ったら終いやないかい!」とボケて、無力

な庶民のやり場のない怒りをシニカルに笑い飛ばしてくれたが、と

ころが今や個人が改悛して自らの責任を取ろうとしても、非難の矛

先は親兄弟や勤め先まで及び、いくら本人が「謝っただけでは済ま

されない」リゴリズムの無限連鎖的責任論が高まっている。かつて

は、反論など許されなかった国民に「一億玉砕」を命じ、敗れると

一転、その責任を国民に負わせて「一億総懺悔」を強いたこの国の

全体主義は未だその呪縛力を失っていないのだ。苦情対応に悩む会

社では「誠意を感じてもらえる」謝り方を「マニュアル化して教え」

、いよいよ我々は礼儀の道を究めて聖人に到らんと励み、厳格な道

徳を「当然とする無形の社会的圧力」の下で、ドイツ人教授が見聞

した「異様な光景」が、我々にとっては至極当たり前の光景になら

ないように願うばかりで、「虎ノ門事件」や「御真影」の顛末を過

去の出来事と嗤えるほど、始めに紹介した少女が負わされた責任の

ように、人権が認められた社会で暮らしているわけではない。 

 ところでその少女、と言ってもう二十歳を越えている彼女は、小

学生の時に父親を事故で亡くしており、彼女の母親は飲食店を営み

ながら彼女ら4人の子供を育てたが、今年の初め、その母親は娘が

建ててくれた家の三階から飛び降りて自殺した。

                                   (完) 
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