「明けない夜」
(十)―⑩―7
「で、あなたはどうしてこのツアーに参加したの?」
彼女は自らの過去を打ち明けたことを悔やむかのように語気を強めて言っ
た。
「ああ・・」
わたしはなぜ農業に就こうと思ったのかと問われれば、今の行き詰った社
会から遁れるためと答えざるを得なかったが、しかし何度か就農セミナー
などに参加しているうちに現実の農業は自分が思い描いてる農業とはかけ
離れていることに気付かされた。そこでは増産するために大規模化され、
そのために大量の化学肥料や農薬が欠かせず、さらに効率を高めるために
機械化され、しかしそれらはまさに今の行き詰った近代社会が作り上げて
きた生産システムに他ならなかった。しかし、同じ生産システムで働くな
ら自然リスクの少ない二次産業の方がはるかに効率的で、ただ生活のため
だけなら敢えて農業を選ぶ意味がなかった。つまり、管理社会からの逃走
を試みようと思ったがすでに周囲には縦横に鉄条網が張り巡らされていて
逃げ出す「外部」なんて何処にもなかった。
「何かツマラナイんだよね」
「えっ?」
「せめて農業くらいは好きにやれるのかなと思ったけれど、どうもそうじ
ゃないみたいだし」
「どうするの?諦めちゃうの」
「実は、このツアーには予定されてないけれどすぐ近くに行ってみたい農
場があるんだ。指導員が言ってたんだけれど、そこは無農薬に拘った栽培
をしているらしいんだ」
「ああ、そっちね」
「だって昨日のキャベツの駆除作業を見たでしょ」
「ええ、キャベツってあんなに農薬を撒くんだね、知らなかった」
このツアーで見学に行ったキャベツ農場で作業者は得意げに、除草、防虫
、防菌などの農薬のビンを机の上に並べて、その中の一本には劇物との記
載があったが、そしてそれらを合わせると最低でも10回以上は撒くと言
った。実は我々は農薬漬けのキャベツを食べさせられていたのだ。それだ
けじゃない、散布された農薬や化学肥料は、いや散布されなかったそれら
も水で洗い流されて土壌を汚染し、雨が降れば溶け出して川に流れ込み、
やがて海へと到る。こうして全ての生命体にとって生成の根源である水を
穢す。そんなものは何れ自然分解されると思うかもしれないが、グローバ
リゼーションによって世界中が近代化を進める中、人間が廃棄した大量の
化学物質や或は広大な自然破壊によって自然再生が間に合わなくなって自
然循環が狂い始めている。そもそも科学技術の最大の欠点は自然循環へ回
帰されない大量のゴミを生むことだ。しかし忘れてならないのは、全ての
生命体はこの地球から一時でも離れてしまえば生きていけない自然内存在
であるということだ。
「世界限界論の下では農本主義に戻るしかないからね、農業を諦めたりし
ないさ」
「世界限界論?」
「あれっ?言わなかったっけ」
「ええ、初めて聞く」
「えーっと、ローマクラブが、あっ、ローマクラブというのは世界の学者
がローマに集まって今後の世界について話し合ったんでそう呼ぶんだけれ
ど、1972年に『成長の限界』という報告書を発表したんだ。その内容
は題名のとおりに世界経済の成長には限界があるというので、当時科学文
明の発展を信じて疑わなかった世界中の誰もがショックを受けたんだ。そ
れから45年経って世界はグローバリゼーションによって近代化が加速さ
れ、人口爆発による自然破壊や近代社会がもたらす地球温暖化とか資源の
枯渇など事態はますます深刻化している」
「ああ、環境問題ね」
「まあそうだけど、それだけじゃない」
「え?」
「もしかしたら戦争になるかもしれない」
「戦争?」
「深刻なのは環境問題だけじゃないからね。そもそも成長の限界とは経済
成長の限界のことで、すでに資本主義経済は成長の限界に達している。た
とえば生産によって利益を得るには生産コストは安くなければならない。
ところがグローバリゼーションによって途上国が一斉に近代化を果たせば
人件費や原材料費さえもが高騰して利益が稼げなくなる。そもそも資本主
義経済というのはさまざまな格差の差益で儲けるシステムだから世界全体
が均等化すればいずれ成り立たなくなる。だから資本主義社会では格差問
題は絶対になくならない」
「でもなんでそれが戦争になるの?」
「格差をつくるためさ」
「戦争で?」
「そう、だって戦争の勝ち負けって格差そのものでしょ」
「どうすれば避けられるの?」
「世界の限界を認識して資本主義体制を見直すことだ」
「ええっ、社会主義になるってこと」
「簡単にいえばそういうこと」
「じゃあ北朝鮮や中国みたいになるってこと」
「あそこは民主主義を認めない独裁国家だから。ぼくが言っているのはあ
くまでも国民主権の民主社会主義で、分りやすく言えば北欧諸国のような
国をイメージしてもらいたい」
「そう言われてもよく知らないんだけれど」
(つづく)