「明けない夜」 (十)―⑩―5

2017-08-23 08:39:18 | 「明けない夜」10⑩~⑩―10

       「明けない夜」

       (十)―⑩―5


 すでに深夜はとうに過ぎていたが夜はまだ明けなかった。彼女が開け

たままにしたカーテンの隙間から窓ガラスに私たちの姿が映っていた。

暗黒の世界は覗かれることを拒んで私たちに自分たちの姿を反射させた

。世界は、何も無かった。ただ私たちが居るだけだった。そして私たちは

生きているという実感を持てずに生きることを持て余していた。それにして

も出会ったばかりの男女が見知らぬ土地の宿の一室で、深夜に酒を傾け

ながら哲学談義を交わすというのも何とも場違いな感じがしたが、明けない

夜に引きずられて何時終わるとも知れず続けられた。わたしは言葉にしづ

らい重苦しい話から逃れようと思って、落ち着きを取り戻して備え付けのティ

シュで顔を覆うようにして泪を拭う彼女に、

「でもさ、田舎で生活するの大変でしょ、仕事だってないし」

そう言うと彼女は、

「確かにそうだと思うけど、でもね、私もう働くつもりはないから」

「へえーっ、お金持ちなんですね」

「あなたは悪い人じゃないと思うから打ち明けるけど、実は事故の賠償

金が入ったの」

わたしはそれ以上彼女の懐事情につっこんで聞くことはできなかった。

彼女は続けた、

「私、あの事故はどうしても彼が故意にアクセルを踏んだとしか思えな

かったので裁判を起こしたの」

「勝ったんですか?」

「彼はあくまでも私に叱責されたことから動揺して心神耗弱による過失

を主張して譲らなかったけど、するとすぐに示談の申し出があって、私

は応じたくはなかったけど弁護士から強く説得されて受けざるを得なか

った」

「ふーん、相手の彼って金持だったんですね」

「アパレル会社の社長のひとり息子でとにかく遊び癖がひどかった」

「じゃその会社で働いていたのですか?」

「いえ、私モデルをしていたので彼はクライアントだった」

なるほど彼女の端正な顔立ちと垢抜けした容姿はそのためだった。そし

てモデルという仕事をしていた彼女にとって足に負った障害がどれほど

致命的なことであるかは理解できた。彼女の絶望はモデルとしての夢を

絶たれたからに違いなかった。


                         (つづく)


「明けない夜」 (十)―⑩―6

2017-08-23 08:37:00 | 「明けない夜」10⑩~⑩―10

         「明けない夜」

         (十)―⑩―6


「モデルをしてる時にね、同じ事務所に仲のいいい友だちが居たの。そ

の娘は私より2コ下で募集で採用されて上京してきたんだけどなかなか

売れなくてコンパニオンの仕事ばかりしていたけれど、嫌な顔ひとつ見

せない明るい娘だった」

彼女は堰を切ったように話し始めた。

「そして誰よりも私を慕ってくれて、その頃私は彼の会社の専属の仕事

をやっていたから、私の方から誘ってよく一緒に外食したり何度か二人

で旅行に行ったこともあったわ。事故の後も何度も病室に見舞いに来て

励ましてくれたの。ところが、私の足が元通りに治らないことを打ち明

けるとまったく来なくなって、しばらくすると彼女は私が専属だった彼

の会社の仕事に抜擢されたの。後から分ったことだけれど、彼女は私が

彼と付き合っていることを知りながら誘っていたらしいの。それを聞か

された時に私は怒りが込み上げてきて絶対に彼女を許さないと思ったけ

れど、リハビリに励んでいるうちにもうどうでもよくなって、それでも

退院して独りで落ち込んだ時なんかにはもう生きていくことが厭になっ

て何度も死のうとした」

そう言うと左手首の袖をめくって生々しい傷跡をわたしに見せた。彼女

は胸裏にわだかまる忌々しい出来事を今度は涙を見せずに淡々と吐き出

した。私は相槌すら発することが出来ずに黙って聴いていた。彼女はわ

だかまりを吐き出したことで胸の内が晴れたのか表情が些か明るくなっ

たように思えた。

「でもね、もう過去にばかり拘っていてはいけないと思って立ち上がっ

て足を一歩踏み出した途端に体は傾いで忽ち忌わしい過去へと引き戻さ

れる。障害はどうすることもできない忌わしい過去へ私を連れ戻して、

そして事故以来もうすっかり私の居場所になってしまった孤独、もしも

あなたは何ですかと問われれば、迷わず『私は孤独です』と答えた」

わたしは「辛かったでしょ」としか言えなかった。ところが彼女は、

「ええ、確かに辛かった。でもね、何度目かのリストカットのとき、あ

の時は何故か死ぬことへの躊躇いが無くて出血がひどくて間もなく意識

を失って、母が見付けた時にはバスタブの中は血の海だったらしいの。

すぐに病院に担ぎ込まれて手術されて輸血が繰り返されそして3日目の

朝に意識が戻った時に、その日は夜に降った雨が止んで病室にまで朝日

が差し込んできて、窓の外を覗くと雨に洗い流された木々の葉の一枚一

枚までもが鮮やかに見えることができて空気までもがきらきらと煌めい

ていた。しばらく窓の外を眺めていたら、この世界に生きていることが

すばらしいことに思えてきて泪が溢れてしかたなかった。その日の朝か

ら私は孤独だと思わなくなった、いや孤独のすばらしさを知ったの」

わたしは何も言えなかった。

「しばらくしてから母にそのことを言うと、それはきっと輸血されたか

らだと言うの。でもそんなことってあるのかしら?」


                        (つづく)


「明けない夜」 (十)―⑩―7

2017-08-23 08:35:48 | 「明けない夜」10⑩~⑩―10

         「明けない夜」

         (十)―⑩―7


「で、あなたはどうしてこのツアーに参加したの?」

彼女は自らの過去を打ち明けたことを悔やむかのように語気を強めて言っ

た。

「ああ・・」

わたしはなぜ農業に就こうと思ったのかと問われれば、今の行き詰った社

会から遁れるためと答えざるを得なかったが、しかし何度か就農セミナー

などに参加しているうちに現実の農業は自分が思い描いてる農業とはかけ

離れていることに気付かされた。そこでは増産するために大規模化され、

そのために大量の化学肥料や農薬が欠かせず、さらに効率を高めるために

機械化され、しかしそれらはまさに今の行き詰った近代社会が作り上げて

きた生産システムに他ならなかった。しかし、同じ生産システムで働くな

ら自然リスクの少ない二次産業の方がはるかに効率的で、ただ生活のため

だけなら敢えて農業を選ぶ意味がなかった。つまり、管理社会からの逃走

を試みようと思ったがすでに周囲には縦横に鉄条網が張り巡らされていて

逃げ出す「外部」なんて何処にもなかった。

「何かツマラナイんだよね」

「えっ?」

「せめて農業くらいは好きにやれるのかなと思ったけれど、どうもそうじ

ゃないみたいだし」

「どうするの?諦めちゃうの」

「実は、このツアーには予定されてないけれどすぐ近くに行ってみたい農

場があるんだ。指導員が言ってたんだけれど、そこは無農薬に拘った栽培

をしているらしいんだ」

「ああ、そっちね」

「だって昨日のキャベツの駆除作業を見たでしょ」

「ええ、キャベツってあんなに農薬を撒くんだね、知らなかった」

このツアーで見学に行ったキャベツ農場で作業者は得意げに、除草、防虫

、防菌などの農薬のビンを机の上に並べて、その中の一本には劇物との記

載があったが、そしてそれらを合わせると最低でも10回以上は撒くと言

った。実は我々は農薬漬けのキャベツを食べさせられていたのだ。それだ

けじゃない、散布された農薬や化学肥料は、いや散布されなかったそれら

も水で洗い流されて土壌を汚染し、雨が降れば溶け出して川に流れ込み、

やがて海へと到る。こうして全ての生命体にとって生成の根源である水を

穢す。そんなものは何れ自然分解されると思うかもしれないが、グローバ

リゼーションによって世界中が近代化を進める中、人間が廃棄した大量の

化学物質や或は広大な自然破壊によって自然再生が間に合わなくなって自

然循環が狂い始めている。そもそも科学技術の最大の欠点は自然循環へ回

帰されない大量のゴミを生むことだ。しかし忘れてならないのは、全ての

生命体はこの地球から一時でも離れてしまえば生きていけない自然内存在

であるということだ。

「世界限界論の下では農本主義に戻るしかないからね、農業を諦めたりし

ないさ」

「世界限界論?」

「あれっ?言わなかったっけ」

「ええ、初めて聞く」

「えーっと、ローマクラブが、あっ、ローマクラブというのは世界の学者

がローマに集まって今後の世界について話し合ったんでそう呼ぶんだけれ

ど、1972年に『成長の限界』という報告書を発表したんだ。その内容

は題名のとおりに世界経済の成長には限界があるというので、当時科学文

明の発展を信じて疑わなかった世界中の誰もがショックを受けたんだ。そ

れから45年経って世界はグローバリゼーションによって近代化が加速さ

れ、人口爆発による自然破壊や近代社会がもたらす地球温暖化とか資源の

枯渇など事態はますます深刻化している」

「ああ、環境問題ね」

「まあそうだけど、それだけじゃない」

「え?」

「もしかしたら戦争になるかもしれない」

「戦争?」

「深刻なのは環境問題だけじゃないからね。そもそも成長の限界とは経済

成長の限界のことで、すでに資本主義経済は成長の限界に達している。た

とえば生産によって利益を得るには生産コストは安くなければならない。

ところがグローバリゼーションによって途上国が一斉に近代化を果たせば

人件費や原材料費さえもが高騰して利益が稼げなくなる。そもそも資本主

義経済というのはさまざまな格差の差益で儲けるシステムだから世界全体

が均等化すればいずれ成り立たなくなる。だから資本主義社会では格差問

題は絶対になくならない」

「でもなんでそれが戦争になるの?」

「格差をつくるためさ」

「戦争で?」

「そう、だって戦争の勝ち負けって格差そのものでしょ」

「どうすれば避けられるの?」

「世界の限界を認識して資本主義体制を見直すことだ」

「ええっ、社会主義になるってこと」

「簡単にいえばそういうこと」

「じゃあ北朝鮮や中国みたいになるってこと」

「あそこは民主主義を認めない独裁国家だから。ぼくが言っているのはあ

くまでも国民主権の民主社会主義で、分りやすく言えば北欧諸国のような

国をイメージしてもらいたい」

「そう言われてもよく知らないんだけれど」

                           (つづく)


「明けない夜」 (十)―⑩―8

2017-08-23 08:34:35 | 「明けない夜」10⑩~⑩―10

            「明けない夜」

           (十)―⑩―8


 北欧諸国の多くは、あまり知られていないかもしれないが、今も国家元

首に国王を戴く君主制国家である。ただ国王自身も自らの頭の上に民主主

義憲法を戴く立憲君主制国家である。いちばん分り易いのはイギリスで、

近代民主主義発祥の国でありながら、現在も国王であるエリザベス女王が

国家元首に「君臨」している。それらの国はまるで社会主義国家のような

高福祉政策を行なっているが、それは王室の存在と無関係ではないのかも

しれない。かつて国王が支配していた絶対権力を市民革命などによって国

民に委譲するとなれば、当然「平等」でなければならないからだ。つまり

国王の存在が国民の平等を保証しているのだ。一方幕末期の日本では、近

代化した欧米列強が軍事進出してきて開国を迫られ、鎖国を国是としてい

た幕藩体制が揺らぎ、内乱が頻発して求心力を失った徳川幕府は大政を天

皇へ奉還した。天皇は天皇親政による新政府を発足させたが、儒教道徳に

洗脳された国民や藩閥上がりの閣僚さえも「民主主義」を正しく理解して

いる者など居なかった。のちに思想家北一輝は、弱冠23才で自費出版し

た初著「国体論及び純正社会主義」の中で「明治維新の本義は民主主義に

ある」と言い、帝国憲法における天皇の地位を厳しく批判して発禁処分と

なった。さらに「日本改造法案大綱」では、その第一巻の表題は「国民の

天皇」とあり、天皇は大権を発動させて憲法を停止させ「全日本国民と共

に国家改造の根基を定め」、彼が主張する国家社会主義への道を進むべき

だと訴える。いま読めば随分乱暴なことが書かれてはいるが、近代化を目

指して発展途上だったあの時代は内憂外患を抱えてそれほどまでに乱暴で

暗い時代だったのだ。彼の主張は当時の青年将校たちに大きな影響を与え

後にクーデターを決起させ、戦争への契機となった。「歴史は繰り返す」

とは言い古された言葉ではあるが、いまや我が国は押しも押されもせぬ先

進国として発展を遂げ、その経済規模からいって比べるに値する過去など

見当たらないことを承知の上で、近代化は成し遂げたけれども世界経済の

行き詰まりから先行きが見通せず、近隣諸国との間では過去の怨讐が解け

ずに緊張が増すばかりで、謂わば内憂外患に苦しむ状況は、あの時代とあ

まりかけ離れていないのかもしれない。いまや世界経済が限界に達して「

寡なきを患」いても経済成長の夢は叶わないとすれば、「均しからざる」

内憂を払うために、格差社会を是正することが再び忌わしい歴史を繰り返

さない最善の策ではないだろうか。世界限界論の下で戦争だけは避けなけ

ればならないとすれば、世界は社会主義化する以外に道はない。もちろん

民主主義憲法の下で彼の提案をそのまま今の社会に当て嵌めることはでき

ないが、「日本国民統合の象徴」たる天皇の存在と社会主義体制の共存は

理論上は相反するけれど、北欧社会の例を見れば相反するどころか相互作

用によって不思議な安定感が生まれる。その不思議さとは多分生命現象の

不思議さに違いない。生命は物理法則だけに従って生まれてくるわけでは

ないからだ。つまり、北一輝が唱えた天皇制と社会主義体制は「社会的に

」は共存できるのだ。

                           (つづく)


「明けない夜」(十)―⑩―9

2017-08-23 08:31:42 | 「明けない夜」10⑩~⑩―10

          「明けない夜」

           (十)―⑩―9


「ほら」

わたしは傍らにあったタブレットを手に取って「ノルウェー」と検索して

「ウィキペディア」のサイトを指でクリックして彼女に見せた。そこには

「ノルウェー王国」と最初にあって、何行目かに「立憲君主制国家」とあ

った。彼女は、

「へえーっ、まだ王様が居るんだ」

「うん、それでも世界の幸福度ランキングでは1位なんだから」

「へぇー、そうなんだ」

「それどころか北欧の他の国だってほとんど上位にいるよ」

わたしは彼女からタブレットを取って「幸福度ランキング」と検索して、

ランキング表が載ったサイトを開いて彼女に返した。彼女は、

「ノルウェー、デンマーク、アイスランド・・・、みんな北欧の国じゃな

い」

「そう」

「どうしてかしら?」

「簡単に言ってしまえば国土の割に人口が少ないからじゃないの」

「どのくらい?」

「面積は日本と同じくらいだけど500万人くらいしかいない」

「で、日本は何位なの?」

「確か50位くらいだったと思う」

「あっ、あった、51位」

「まあ、それが本当の幸福かどうかは一概には言えないけどね」

「でもそんなに幸福ならもっと人口が増えてもいいのにね」

「寒過ぎるんだよ、きっと。北極圏のすぐそばだからね」

「あ、そうか」

「でも、これからもっと増えるかもしれない」

「どうして?」

「地球温暖化で気温が上がるから」

「えっ、ほんと?」

「分らない、でも、もし本当ならもっと大変なことが起こるさ」

「どんなこと」

「海面上昇によって陸地が沈むとか、気候の極端な二極化とか・・・」

「二極化って?」

「洪水と干ばつ、ある所では雨ばっかり降って、他の所では全く降らない

ような」

「それってよく聞く異常気象ってことでしょ?」

「そう、われわれが気付かないだけで気候変動はもう起こってるんだ」

「だったらもう北欧へ逃げるしかないわね」

                           (つづく)