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2012-07-11 08:37:28 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(九十六
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 「ワワワアアァ―――ッ!」

私は、自分の発した声が廊下にこだまして再び自分の耳に戻って

きたのが分かるほどの大声を上げた。それに驚いた老先生も、

「オオゥ―ッ!」

と、マスク越しに低い唸り声を上げて後退りした。廊下に居た客

室係の女性達が集まって、その中のチーフ何とかと云う人が駆け

寄って来た。

「先生、どうかされましたか?」

と心配そうに老先生に聞いたが、老先生は手を振りながら、

「いやっ、何でも無い、ちょっと驚いただけだ。」

と言って私が居る自分の部屋に入り、

「お騒がせして申し訳ない。」

そう言って軽く頭を下げ、ドアを閉めた。老先生は、中国での散

歩で道に迷い仕方無く日本まで歩いて戻って来たのではないか

と思う程、酷く衰弱していた。ただ、私はこの状況を彼にどう説明

すればいいのか思い倦ねて、裸のまま立ち尽くしていた。彼は、

「君は何故私の部屋に居るんだ?」

と、ドアの部屋番号を確かめながら、もっともな疑問を私に質した。

私は、個展の打ち上げの後不覚にも酩酊してしまった事、そして

目が覚めれたらこの部屋に寝かされていた事を、ただ、毎夜の様

に老先生のベッドで女社長と愛し合ったことなどおくびにも出さず

に、まるで役人の様に、更なる詮索を恐れながら問われた事だけ

を誠実に答えた。

「ああ、昨日までだったのか?」

「はい。」

「で、どうだった?」

「先生の御蔭で盛況でした。」

「そうか、それはよかった。」

私は近づいて来る老先生を避けるように後退りしながら、裸で居

ることも忘れて、彼に私がこの部屋に居る事を「仕方が無い」と

思わせるように全力を注いだ。彼はワードローブを開けコートと帽

子を脱いで仕舞った。

「先生、でもどうしてこんなに早くお帰りに為られたんですか?」

「黄砂だよ、黄砂!具合が悪くなった。」

「ああっ、はい。」

「全く中国なんぞほっとけば良い、そのうち砂で埋まるさ。」

老先生はソファに腰を下ろしてマスクを外した。

「ところで、君は何で裸なんだね?」

私は慌てて自分の部屋には浴室が無い為、断わりも無くシャワー

を使ってしまったことを詫びた。

「すみませんっ!すぐに服を着ます。」

ところが、老先生は、

「ちょっと、そのままで居なさい。」

「えっ?!」

私は老先生が今まで見せたことの無い熱い眼差しが気になった。

  老先生はもともとギリシャ美術が専攻で、ギリシャ彫刻につい

ての卓逸した著作も残していた。私も学校の図書館で彼の著書を

手にしたことがあったが、年頃だった私は、彼の言う美の概念が

さっぱり理解出来なかった。ほとんど忘れてしまったが、戦争が

絶えない古代社会では力こそが正義で、強さへの憧れから逞しい

肉体こそが美しさの象徴であった。恐怖の下で生死を共にする男

達は強い信頼で結ばれていた。それは男女の情による繋がりを超

えた固い絆であった。そして元来性欲とは見境の無い本能なので

、美しい対象との交合は自然な事だと語っていた。要するに、同

性愛はそんなに異常な性行為では無いんだと力説していた。

 私は、性欲は見境の無い本能だという件に疑問を持って、その

頃心酔していたアレクサンダー大王がペルシャ帝国のダリウスⅢ

世と戦っているモザイク壁画の写真を、敵の大将を睨む彼の精悍

な横顔をとても気に入っていた、そのアレキサンダー大王の雄姿

を見ながらマスターベーションを試みた。感情を集中して、今ま

さにダリウスⅢ世に迫らんとするアレキサンダー大王を犯す事が

出来た。それからは見飽きたモザイクだらけのAV女優とは決別

して、イエス・キリスト、弥勒菩薩像、マリア像、織田信長、ナ

ポレオン、坂本竜馬、と尊敬する歴史上の人物を次々と征服した

が、さすがに罰が当たるんじゃないかと心配になって、ついには

人格の無い、飼っていた猫、イルカ、昆虫、果ては、庭のはなみ

ずき、便器、ソファ、レースのカーテン、「麗」という字、日の

丸、テレサ・テンの歌、方法序説、シャンプーの臭い、と私が気

に入っている物と見境無く契りを持つことが出来た。つまり、彼

の意見は正しかった。ただ、こんなことをしていては道を誤ると

思い、すぐに止めた。

 我々の理性とは、斯くも無分別な本能の僕(しもべ)なのだ。

分別や思考などといったものは欲望に唆(そそのか)されて語っ

ているだけだ。持つ者は失う事を恐れて守ろうとし、持たざる者

は争っても革(あらた)めようとする。思想信条とはそれぞれの

欲望を主張しているに過ぎないのだ。それぞれが立場に拘って議

論しても新しい展望が生まれる訳が無い。少なくとも政治はそれ

ぞれの立場を離れて、未来について語らなければ為らない。未来

こそが欲望を置き去りにして語ることが出来るのだ。さて、我々

はこの国の過去については散々語ってきたが、果たして、この国

の未来について語ってきたのだろうか。

「触れてもいいかね?」

老先生はメガネを掛けながら近付いて来た。一瞬虫酸が走ったが

、彼の僕(しもべ)である私は、申し出を置き去りに出来る立場

では無かった。実技を試みたことは無かったが、シュミレーショ

ンを熟(こな)していたので大体の事は予想出来た。私は身を捧

げる覚悟を決めた。ところが、老先生の様子がおかしかった。老

先生は私の身体に触れる前に、床に手を突いて倒れた。

「先生っ!大丈夫ですか!」

彼は興奮しすぎたのかひどい熱を出していた。

「ベッドへ行きましょう!」

私は老先生を支えて借りていたベッドを持ち主に返した。そして、

女社長に電話してどうすればいいのか聞いた。女社長はフロントへ

連絡して、ホテルの中にあるクリニックのドクターを呼んでくれた。

 老先生は風邪をこじらせて肺炎を起こすところだった。そして、

私はその後も実技を授かることは無かった。

 老先生は幸いにも命に別状無かったが念の為入院する事になっ

た。しばらくしてから見舞いに訪れたら、女社長は居なくて何故

かホテルの若いマネージャーが彼の世話をしていた。思い返すと

老先生の傍らでよくそのマネージャーを見掛けたが、それは長期

滞在する宿泊客とアテンダントの距離にしては近すぎた。私が病

室に入ると彼はすぐに姿を隠したが、ホテルでは見せたことの無い

彼の慌てぶりからその訳が理解できた。「彼」は私と老先生のこと

を勘違いしていた。後になって、ホテルなどで働く男には「ギリシ

ャ文化」に憧れる者が多いことを知った。

 老先生は青い顔をして倒れてから、中国で吸い込んだ黄砂も抜

けて、血色が蘇り赤みを取り戻していた。私は、老先生と女社長

の関係を解った上で、隠していた女社長とのことを打ち明けた。

すると老先生は「知ってたよ。」とあっさり答えた。そして「女が

一人で生きて行くのは大変なことなんだよ。」と話し始めたが、

老先生の「彼」が昼食を持って入って来たので、続きを止めてし

まった。私は「何が大変なのか」聞きたかったが、訊ねられずに、

彼と「彼」の病室を後にした。

                              (つづく)